黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

せき取 はな

2017年10月29日 20時43分45秒 | ファンタジー

 関取とは、ご存知、相撲の十両以上の力士の呼び名。幕下までの力士を取的(とりてき)とか力士養成員とか言うそうだが、昔の小説など以外ではあまり耳にすることはない。
 ところで、せき取 はなとは、関取の はなのことではなく、はなと父さんの席取合戦の話。小さな子どもとネコが遊びに興じているうちに、けんかになることはあるだろうが、ネコと大人のヒトとの間ではそういうことにならないのが普通だ。
 だが、この家では、両者が真剣に食卓の席を奪い合っている。断っておくが争っているのは椅子だけで、食卓の食べ物まで取り合いしているのではない。
 たびたび争う割りに、暴力事件にまでは発展したとは聞いていない。両者はひとしきり抗争したら、席を半分ずつ痛み分けする。最初からそうすればいいものを、と思うのだが、戦う本能を忘れないため、2人には必要な儀礼なのかもしれない。これが人間界のことなら、何のユーモアも可笑しさも感じられないし、ヒトとヒトとの場合、こんな風に穏便には収まらない。(2017.10.29)
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イチョウ葉エキス

2017年10月21日 21時11分27秒 | ファンタジー

 イチョウが色づいたなと思っていたら、いつの間にか、国道の歩道の上にイチョウ葉エキスが大量にふりまかれ、一面、金色世界になっていた。一方、すっかり丸裸になったプラタナスの並木道には葉っぱ1枚落ちていない。枝まで刈り込まれ、まるで骸骨のように見える。どっちの並木もなかなか見ごたえがある。
 私は、今の季節、空気が乾いてサクサクしてくると、心がジワッと和んで、それまでのウツっぽさから解放される気分になる。ほんとうは、冬の固く締まった外気がいちばん好きなのかもしれないが、この地は雪が多すぎるのが難点。
 志賀直哉の小説に、冬の寒い戸外で遊ぶ子供たちの声を、2階の障子越しに聞く場面を描いたものがある。彼が過ごしたその冬の日はほんとうに寒かったのだ。私は、その情景に吸い込まれそうになって、そう感じ取った。(2017.10.21)
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縄文人の系譜

2017年10月11日 18時28分53秒 | ファンタジー

 つい最近のこと、自宅近くのMBセンターで、縄文人の起源について講演があった。
 その日、いくらか黄色味がかった原生林に向かって車を走らせると、住宅や公立の施設が立ち並ぶ一角に、MBセンターの門柱が現れた。門をくぐっても建物の影は見えず、公園の一角に紛れ込んだかと勘違いしそう。
 講演者は先史人類形態学のM教授。100名収容の会議室に5割増しの聴衆がひしめき合い、立錐の余地もない。こんなひっそりした場所でやろうとしている、こんなマニアックなテーマの講演会に、これほどの大人数がこっそりやってくるとは。
 先日のNHKで、核DNA分析の最新データに基づいて、大陸から列島へ流入した人類に関する番組が放映された。列島の両端にいくほど縄文人の色が濃くなることなど、ずっと前から想定されていた仮説が学術的見地から証明されるのを見るのは実に痛快だった。おもしろすぎて録画したのを3回も見てしまった。
 今回の講演は、人骨の発掘調査の成果を中心とした話だったので、NHK番組よりさらにビジュアルで衝撃的なものだった。様々な人類の個性的な顔を思い浮かべながら、10数万年にわたる人類の歴史の旅を堪能できた。
 講演の概要は次のとおり。
 アフリカで誕生した人類のグループにはいくつかの系譜があって、アフリカから複数回にわたって北への拡散を試みたが、いずれも幾多の試練に遭って挫折したらしい。およそ5万年前、最後にアフリカから出発した人類の行き先は、ヨーロッパ大陸へ、ユーラシア南部を通って南アジアへ、ユーラシア北部経由でアジア北東部へ、と大きく3つのパターンがあったとされる。このうち南アジアへ分布したグループは、4万年ほど前を前後とする年代には、現在の東南アジア、ニューギニア、オーストラリア大陸やメラネシアなどに分布したことがわかったという。2万数千年前から7千年前(マレーシアなどでは4千年前)まで、広く東南アジアに分布していた採集狩猟民のホアビン文化や、沖縄本島や石垣島で出土したおよそ2万年前の人骨はおそらくこれに連なるもの。
 そのことはM教授たちによる、ネットワーク系統樹を使った人骨の形態分析でも証明される。南アジアに最初に入ったスンダ・サフール系の人々と、東南アジアやオーストラリアのグループはいずれも同系、中国南部からおそらく周口店(北京付近)までをも含む地域、さらに日本の縄文人もこの系統に極めて近いという。では、その人骨の容貌とは? 現在のパプアニューギニアの人々の容貌に近似しているのだ。
 ところが、今からおよそ4千年前になると、この人骨が劇的に変化する。東南アジアのベトナムやタイの青銅器を持った水田農耕民の遺跡から発掘された人骨は、北東アジア・シベリア系の色が濃い集団だった。つまり彼らは、ニブフやブリアート、バイカル新石器時代人ときわめて近い人々。おそらく、北東アジアを南下してきた集団が、中国本土から東南アジアにかけてコロニーを作ったことが想定される。後世、モンゴロイドと称される人々は彼らであった。
 北東アジア・シベリア系の集団が、ユーラシアの北東までどんなルートを移動してきたかまだ確かめられていない。たぶん、カスピ海の北岸を通過してバイカル湖に到達し、そこからアメリカ大陸を目指したグループと、アジアにとどまったグループに分かれたのだろうという。そして、4千年前ころの気候変動に伴い、彼らは黄河流域の雑穀栽培文化や長江流域の水田農耕文化を取り入れながら南下したのは間違いないところだろう。これら農耕民の移動は日本列島の弥生人にも当てはまる。彼らの骨の特徴は中国南部、東南アジアの農耕民によく似ているという。
 ところで、稲作は長江流域で8千年ほど前に始まったとされる。その担い手は、中国の文献で南人と呼ばれる人々であろう。南人とは、苗族(現在の貴州、雲南などのミャオ族など)で、南とは銅鐸などの楽器のこと。彼らがこの楽器を農耕儀礼などに使っていたので、殷人からこう呼ばれた。一説には、北方での殷との戦いに敗れ、南方に去ったとされる。なお、中国西方の羌人(おそらく現在のチベット系)も、殷との間の軋轢に関する神話を残している。 
 中国において発掘が続けられている夏王朝は、神殿を持つ都市国家の形を備えていたと推定されていて、その成立時期がちょうど4千年前ころと言われている。まさに、このとき中国本土の種族が入れ替わったとすれば考古学と文献の一致をみることになる。
 M教授は、1週間後に中国で同じ話をするとのこと。中国の先史時代に今の漢民族はいなかったという話をして、中国国内にセンセーションを巻き起こさないか不安だという。
 私みたいに興味本位でブログ記事を載せる者や、先生の後釜を狙う研究者はたくさんいるので、心配ご無用と送り出したのではあるが。(2017.10.11)


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コモン書を読む

2017年10月03日 18時16分05秒 | ファンタジー

 私自身、古文書をコブン書と読んでしまうので、あえてコモン書と表記した。コモンとはコモンセンスのコモンでなく、古文書のコモンのこと。ちなみに英字のコモンとは常識とか共有とかの意味らしい。
 最近、思うところあって、古文書の初歩を勉強し始めたのだが、テキストを1、2ページ読んだら決まって眠くなる。教材に使われているのが浮世絵の板木に刷られた説明書き。その行間からは、世相への諷刺が行き過ぎないよう、言いたいことをぐっと呑み込まざるをえない歯がゆさがのぞく。気持ちはよくわかるのだが、今時では上品すぎる文章表現なので刺激に乏しくすぐ飽きがくる。
 さらに、写真の文字がさっぱり読めない。読めないから勉強しているはずが、見た目のくねくねしたミミズの這ったようなのが、どうも気色悪くて見ていられない。初心をどこかに置き忘れ投げ出してしまいそう。こんな堪え性がないなら、本作りなんてできるんだかどうだか。
 古文書などに首を突っ込もうとしたのには、もちろんきっかけがある。前々から思っていたのだが、両親が亡くなったとき取り寄せた古い戸籍関係書類の中に、判読しずらい書体があった。仕事をリタイアして暇ができたので、その部分を解明しようと思い立ったわけ。
 わずかな勉強の甲斐あって、そこんところは9割がた読めるようになった。すると、次の問題が持ち上がった。ミミズ文字の古い戸籍に記載された先祖の消息が、聞いていたことと矛盾するのだ。
 私の父方の祖父母は、明治の終わり、連れだって北方の未開地に入植したが、想像を絶する厳しい風土の中、子を亡くすなどずいぶん難儀した。そう聞いていた。二人がどんな経緯で入植したか、持っていたかどうかわからないが有り金をなくしたのか、あるいは投機に失敗したか、想定外の事件に遭遇したか、その辺りは何一つわからない。
 私は、十数年前の暖かい季節、内地(今でもときどき本州でなく内地と言ってしまう。父親の世代なら本州という語を使うことはなかったろう。)にある祖母の実家に一度だけお邪魔したことがある。そのとき、祖母の親族から、祖父の家はずいぶん裕福だったこと、今では子孫がどうなったか誰も知る者がないと聞いた。そういえば、祖父の家は商家だったと、ずっと昔、今は亡き伯母の誰かが言っていた記憶がある。 
 解読した結果、祖母の方は、実家から親兄弟まで実態に一致していた。ところが、父方の戸籍から、一度も聞いたことがない祖父の両親の名前が出てきた。ということは、曽祖父母の代はもとより、そのはるか以前から北方の地に住んでいたと考えられなくはない。さらに不思議なのは、1000キロも離れて暮らしていた祖父と祖母が、どんなふうにして知り合ったのかということだ。
 ふとよみがえったのは、以前、渡島半島に住む人から聞いた、自分の先祖が誰やら、いつ頃からここに住んでいるかわからないという話だった。私は不明にも、その話を聞くまで、先祖をたどれない事例があることを知らなかった。
 内地には昔から、人別帳とか宗門帳とか、戸籍簿代わりの書面があったそうだ。しかし、ここは、松前藩などの領地内は別として、その大部分が、役所や寺社の権能の及ばない茫漠とした土地だった。なので、明治初頭の戸籍法制定後、内地はすぐ、原籍(非開示)が作製できたというが、この地では開拓使の体制が整うまでしばらくかかったことだろう。
 考えようによっては、先祖が数十代、数百年もの昔までさかのぼれるより、せいぜい3世代しかたどれず、その先は何だったかわからない方が、余計な格式や家や血に束縛されないで気楽な生き方ができそうな気がする。ここだけの話だが、今でもこの土地には、内地から見れば、スターウォーズの暗黒面のような異次元の世界があちこち存在するのだ。(2017.10.3)
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