帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(42)ひとはいさ心も知らず古里は

2016-10-11 18:53:07 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 
 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上42

 

初瀬に詣づるごとに、やどりける人の家に、久しく宿らで、

程経てのちに至れりければ、かの家のあるじ、かく定かに

宿りはあると、言ひ出して侍りければ、そこに立てりける

梅の花を折りてよめる。             貫 之

ひとはいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける
  
(初瀬の寺に詣でる毎に、宿っていた人の家に、久しく宿らず、程経て後に行ったので、かの家の主人、このように確かに宿はありますものをと、言ひ出されたので、そこに立っていた梅の花を折って、詠んだと思われる・歌……初瀬に詣でる毎に、宿っていた女のいへに、久しく宿らず、程経て後に、山ばに至ったので、かの井への女あるじ、このように確かに宿る処はあるものをと言い出だしたので、そこに立てていたおとこ端を、折って、詠んだらしい・歌)(つらゆき)

(主人は、はてさて、わが・心を知らないね、古里は梅の花が、昔のままの香りに匂っていることよ・我が心も変わりなし……おんなは、ほら、おとこはなの・心を知らないね、むかし馴染みのさ門は、お花が、あの昔の香に匂ったことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 詞書「人の家…他人の家…定宿…女の家…愛人の家」「家…言の心は女…いへ…井辺…おんなのあたり」「あるじ…主人…女主人…井へのあるじ」「至れり…至った…行った…(山ばに)到達した」「宿り…泊る処…女の許…宿の言の心は女」「梅の花…木の花…男花…言の心は男…おとこ端…おとこ花」「折…逝」。

 歌「いさ…さあて…ほらね」「ふるさと…古里…昔馴染みの女…里の言の心は女」「花…梅の花…木の花…男花…おとこ花…端…身の端」「香…か…彼…あれ…白い花のにほひ」。

 

奈良まち辺りの馴染みの宿の主人が、ご無沙汰を責めたので返した歌。我が心も、お宿の梅の花のように、昔のまま変わりませんよ。――歌の清げな姿。

奈良の昔馴染みの女との、久方ぶりの逢うせに、至るべき山ばに至りて、や門は未だ健在よと、おんなの主が言い出したので、返した歌。身の枝は儚く折れたが、古さ門は昔のままのお花の香が匂っていることよ。――心におかしきところ。

 

鴨長明「無名抄」によると、或る人が、源俊頼(10551129・金葉和歌集撰者)に、「貫之躬恒勝劣事」を訊ねたところ、ただ「躬恒をば、な侮り給ひそ」と言われたので、それでは、躬恒の勝で貫之が劣り給えるか、はっきり定めてくださいと申したところ、ただ同じように「躬恒をば侮らせ給ふまじきぞ」と申されたとある。

歌の「清げな姿」の勝劣ではなく「心におかしきところ」を味わった上で、歌の優劣は定め給え、その時、躬恒を侮ってはいけませんぞ、ということらしい

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)