帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (237)をみなへし後ろめたくも見ゆるかな

2017-05-29 19:19:30 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 237

 

ものへまかりけるに、人の家に、をみなへし植へたりけるを

見てよめる                   兼覧王

 をみなへし後ろめたくも見ゆるかな あれたるやどにひとりたてれば

或る所へ宮の内を退出して行った時に、他人の家の庭に、女郎花が植えてあったのを見て詠んだと思われる・歌……仕事終え帰った時に、妻女の井辺に、をみな圧し、もの植え付けたる、おを思って読んだらしい・歌。 かねみのおほきみ(惟嵩親王の子)

(女郎花・可憐な草花、気がかりで不安に見えることよ、荒廃した家の庭にひとり立っているので……をみな圧し、おとこは・後ろめたくも思えることよ、荒れている、や門に、独り断ってしまったので)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「をみなへし…女郎花…草花…女花…女…をみな圧し」「うしろめたし…気がかりだ・心配だ…気がとがめる・後ろ暗い思いがする」「見…観…覯…覯…まぐあい」「かな…であることよ…感嘆・詠嘆の意を表す」「あれたる…荒れている…(庭など)手入れがされていない…(心が)荒れている…(気が)しらけている」「やど…宿…家…言の心は女…や門…おんな」「ひとり…独り…孤独に…一人…単独で」「たてれば…立てれば…立っているので…断てれば…断ってしまったので…絶えてしまったので」「れ…『り』の已然形…存続している意を表す…完了した意を表す」。

 

可憐な草花・女郎花、気がかりだなあ、荒廃した家の庭に、独り立っているので。――歌の清げな姿。

をみな圧した、後ろめたく思えるなあ、荒れたや門に、われ独り断ってしまったので。――心におかしきところ。

 

おとこの性(さが)について、その薄情な尽き果てを「ひとり断てれば」と言い、後ろめたい思いを表出した歌のようである。

 

国文学的解釈の常識は、草花の女郎花ようすを詠んだだけの歌とは思えないので、「女郎花…女」であることから、荒廃した家に独り住む若い女性を想像する。そのような情況を想像させるのが、歌の主旨か趣旨であると考えるようである。

 

藤原俊成『古来風躰抄』に「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ」とある。「歌の言葉は、浮言綺語のように戯れているけれども、そこに、ことの深い主旨や趣旨も顕れる」という意味である。言語観が違い、歌の表現様式の捉え方が違うと、歌から受け取る主旨や趣旨が大きく異なるのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)