帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第七 賀歌 (350)亀のおの山の (351)いたづらにすぐる月日

2017-12-05 19:56:27 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。

 

古今和歌集  巻第七 賀歌350

 

貞辰親王の叔母の四十の賀を、大井にてしける日

よめる                紀惟岳

亀のおの山の岩根をとめて落つる 滝の白玉千世の数かも

(貞辰親王の叔母の四十の賀を、大井にてした日、詠んだと思われる・歌……) きのこれをか

(亀の尾の山のような岩石を、もとめ伝って落ちる滝の白玉、叔母さまの・千世の数であることよ……彼めが、おとこの山ばの巨岩磐求めて、落ちる多気の白珠、大井なる人の・千夜の数かな)。

 

「大井…地名…名は戯れる。大いなる井、大いなるおんな…井の言の心はおんな」。

「亀…長寿…かめ…彼め…かのおんな」「山…山ば」「岩根…巨岩…岩の言の心は女…岩のような根…岩磐のようなおとこ…長寿で揺ぎないお根」「とめて…尋ねて…求めて」「滝…言の心は女…多気」「白玉…水滴…白珠」「千世…千夜」「かも…感動・感嘆・詠嘆の意を表す」。

 

落ちる瀧の水滴は、貴女の千世の数だなあ――歌の清げな姿。

かのおんなが、山ばでのおとこの盤石さ求め、落ちる多気の白珠は、千夜の数だなあ――心におかしきところ。

 

 叔母は誰か知らないけれど、大いなる多気の人だったのだろう。

 

 

古今和歌集  巻第七 賀歌351

 

貞保親王の、后宮の五十賀奉りける御屏風に、桜の花の

散る下に、人の花見たる形かけるをよめる  藤原興風

いたづらに過ぐる月日は思ほえで 花見て暮らす春ぞすくなき

(貞保親王が、后の宮・二条の后の五十賀を奉りし御屏風に、桜の花の散る下に、女人の花見する絵、描いてあったのを詠んだと思われる・歌)ふぢはらのおきかぜ

(いたづらに過ぐる月日は何とも思えないで 花見て暮らす春の季節のみじかきことよ……何となく過ぎる、尽き引は思い思わなくて、おとこ花見て果てる春情ぞ、少なきことよ)。

 

「いたづら…徒…むだ…むなしい」「月日…時の流れ…尽き引…尽き避」「おもほえで…何とも思わないで…思いを思わないで…思い出さないで」「花…桜花…木の花…男花…おとこ花」「暮らす…果てる」「春…季節の春…青春…春情」「すくなき…少ないことよ…短いことよ」。

 

屏風絵の桜花を見る女人を見て詠んだ――歌の清げな姿。

女人の五十年の生涯を思って、青春の春情の少ないことよ・長らえて春をとり返してください――心におかしきところ。

 

「伊勢物語」を読めば、藤原良房(文徳の御時の太政大臣)、藤原順子(文徳の母)、藤原基経(高子の実兄、良房の養子、後の太政大臣)、藤原明子(文徳の女御、清和の母)らによって、藤原高子(後の二条の后)は、清和の女御になるよう仕組まれたように見える。しかしよく読むと、或る時、高子は業平との青春の春情を捨て、清和帝女御から后となる夢に自ら進んだようである。五十歳のこの時、陽成帝の母として、夢は全て叶えられたようである。

 

屏風絵の女人は、捨てた少なき青春を思い、桜の花(おとこ花)を眺めていると、歌の作者は高子の生涯を思って詠んだのだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)