帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (160) 五月雨のそらもとゞろに郭公

2017-02-25 19:11:30 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 160

 

ほとゝぎすのなくをきゝてよめる     貫之

五月雨のそらもとゞろに郭公 なにを憂しとかよたゞなくら覧

(郭公の鳴くのを聞いて詠んだと思われる・歌……且つ乞う女の泣くを聞いて詠んだらしい・歌) つらゆき

(五月雨の空もとどろくように、ほととぎす、何を憂しとか・何を憂れうのか、世、ただ鳴くのだろう……さ乱れの空虚も、とろとろに、且つ乞う女、何を、憂しとか・もの足りず辛いとか、夜、多々泣くのだろうか・乱)

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「五月雨…さみだれ…さ乱れ…さ淫ら」「さ…接頭語」「空…空虚…空洞」「とどろに…轟くように…響きわたるように…門泥に…門とろとろに」「と…門…おんな…空洞」「とろ…泥…粘液」「郭公…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「憂し…憂れうる…心配する…(もの足りず)辛いさま」「とか…疑問」「よ…世…男女の仲…夜」「ただ…唯…多駄…多々」「なく…鳴く…泣く」「らむ…原因理由を推量する意を表す…どうしてだろうか」「覧…らむ…見…覯…媾…まぐあい…らん…乱…(世・男女の仲・夜)乱れて」。

 

五月雨の空にとどろくカッコーの声、何を憂いて、世を唯、鳴いているのだろうか。――歌の清げな姿。

さ乱れの空洞もとろとろに、且つ乞う女、何がもの足りず辛いのか、夜多々泣く、どうしてだろう・乱れて。――心におかしところ。


和歌は、エロチシズムのある文芸である。歌に顕れるエロス(生の本能・性愛)は、心におかしい、それを楽しむ。

 

この紀貫之の歌の、国学と国文学的解釈をみてみよう。

江戸の国学者、本居宣長は「遠鏡」で「時鳥ガ五月雨ノ空モドンドヽ  ヨヒトヨヒタスラ鳴クガ  何ゴトヲウイト思フテアノヤウニナクコトヤラ」という。わかりやすく平仮名に直すと、

ほととぎすが、さみだれの空もドンドと、夜一夜ひたすら鳴くが、何ごとを憂いと思ふてあのやうに鳴くことやら。

明治の国文学者、金子元臣は、

梅雨の空も、とゞろと鳴り響くほどに、時鳥は、何事を憂いと思うてか、あのやうに、夜通し泣くのであろうぞ。

現在の解釈、先ず、新 日本古典文学大系「古今和歌集」の解釈は、

さみだれがはげしく降る夜の空も、とどろかすほどに声を響かせるほととぎすよ、いったい何をつらいと思って、夜どおし鳴いているのだろう。

また、日本古典文学全集「古今和歌集」の解釈は

さみだれの夜空を鳴り響かすように、ほととぎすがひと晩じゅう鳴いているのは、何が悲しいというわけなのだろうか。


 現代の他本の解釈も大同小異である。残念ながら、学問的解釈は、これ以上の意味も以下の意味もない平板な「清げな姿」しか明らかにできていない。古今集撰者筆頭の紀貫之の歌が、この程度の意味しかなく、当時の人々も、上のような解釈をしていたと、ほんとうに思うのだろうか。現代の解釈は、理性的で、客観的で、論理実証的な解釈であるから、間違い無いのだろうか。そこには顕れない意味が和歌には有った。

 

平安時代の和歌と言葉に関する言説を全て無視した解釈であることに気付くべきである。貫之のいう「歌の様」を知らず、「言の心」を心得ず、公任のいう「心におかしきところ」が聞こえていない。清少納言の言語観、言葉の意味なんて「聞き耳異なるもの」とは、天と地ほど違う言語観で解かれてある。俊成が「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ている」というのも意に介さず、そこに「深い旨が顕れる」ということを無視した字義通りの解釈が、現代の常識となっている。


 それに、「ほととぎす」は、夜鳴く鳥なのだろうか。どのような鳴き声か、聞いた人は居るだろうか。「ほととぎす」の言の心を心得れば、夜、どのように泣くか、大人なら皆わかるだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)