帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 中品中

2014-11-07 00:16:32 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 公任の歌論『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」 中
品中


 すぐれたることもなく、わろきところもなくて、あるべきさまをしれるなり

 (優れたところも、悪いところもなくて、あるべき様を知ってはいるのである……優れたところも、良くないところも無くて、歌のあるべき表現様式を知ってはいるのである)


 春きぬと人はいへども鶯の 鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ

 (春が来たと人は言っても、春告げ鳥の・鶯が鳴かない限りは、春では・ありはしないだろうと思う……心に春の情がきた・身には張るものがきたと、女は言っても、浮くひすのように泣かないかぎりは、そうでは・ありはしないだろうと思う)


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…情の春…張るもの」「人…他人…人々…女」「鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…うぐひす…鳥の名…名は戯れる。浮く泌す、憂く秘す」「鳴く…泣く」「じ…ないだろう…打消の推量の意を表す」


 歌の清げな姿は、季節の春についての感想。

心におかしきところは、性愛における女の春情について、男の感想。

古今集 春歌上にある。深い心は無い。歌の様(表現様式)は知っている人(壬生忠岑)の歌である。


 

いにし年ねこじてうへし我が宿の 若木の梅は花咲きにけり

 (去年、根から掘り起こし植えた我が家の、若木の梅は花咲いたことよ……去った疾し、根こじ入れて、うえつけた、わがや門の、若木のおとこ花咲いてしまったのねえ)


 言の戯れと言の心
 「年…とし…疾し…一瞬のこと」「根…おとこ」「こじて…掘り起こして…こじ入れて」「うえし…植えた…うえつけた」「宿…女…やと…屋と…や門…おんな」「梅…木の花…男花…おとこな花」

 

歌の清げな姿は、我が家に植えた若木の梅に花が咲いたという。普通の姿をしている。

心におかしきところは、はかないおとこのさがについての女の詠嘆。

深い心はない。拾遺和歌集 巻十六 雑春に、花見の歌や屏風絵の歌の群の中に置かれてある。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。


◇「春」という言葉を季節の春と決めつけ、この歌では、春情や張るという意味など、論理的にあり得ないとばかり排除してしまったとき、和歌は、貫之や公任とは異なる文脈に移し植えられている。「はるきぬと人はいえども」の歌は、姿以外なにも見えなくなった。


◇「梅の花」という言葉が、男花などという意味が有るなど、今の人々には夢にも思えないだろうが、平安時代、手習いの初めに習う歌は「難波津に咲くやこの花冬籠り」である。此の、木の花は梅の花で「皇太子」の比喩である。つまり、手習いの最初から梅の花は男花と教えられた。「わがやどの若木の梅は花咲きにけり」の「心におかしき」意味は大人なら自ずからわかるのである。