帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 中品上

2014-11-06 00:08:13 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 極楽浄土には、上品、中品、下品の三段階それぞれに上中下の三つの階級があるという。それに倣って、公任は自らの歌論に基づいて和歌を九品に仕分けたのである。


 公任の歌論『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。これに基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」 中
品上

 
 心ことばとゞこほらずしておもしろきなり

 (心、言葉が滞らず面白いのである……心、言葉淀みなく表現され、明白になる快感が有るのである)

 

たちとまり見てを渡らむもみぢ葉は 雨と降るとも水はまさらじ

(立ち止まり見物してから渡ろう、もみじ葉は雨となって降っても、川・水嵩は増さないだろう……立ち留まり・踏ん張って、見てだよ、つづけよう、飽き色の身の端はお雨となって降っても、をみなは、心地・増さらないだろう)


 言の戯れと言の心

「たちとまり…立ち止まり…立ち留まり…踏み留まり…頑張り」「たち…接頭語…起立」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「を…経過して…それから…感嘆詞」「わたる…(川を)渡る…しつづける…継続する」「もみぢ…紅葉・黄葉…秋の色…飽き色…厭き色」「雨…おとこ雨」「水…川…女…をみな」「まさらじ…(水嵩)増さないだろう…(心地)増さないだろう」

 

歌の「清げな姿」は、川岸の紅葉の景色。

「心におかしきところ」は、男のさがのはかなさを自覚して踏みとどまるところ。

屏風絵を見て詠んだ歌なので、深い心はない。

 

 

かの岡に草刈るおのこなはをなみ ねるやねりその砕けてぞ思ふ

 (彼の岡で草刈る男、縄が無いので、練るや練り麻が・切れて草束砕け心も・砕けてぞ思い悩む……あの低い山ばで、をみなめとるおのこ、汝はおとこ並み、練りいれたか・縒りかけたか、練り其が、砕けてぞもの思う)

 

言の戯れと言の心

「岡…低い山…低い山ば」「草…言の心は女」「かる…刈る…狩る…猟す…とる…めとる…まぐあう」「縄…綱…緒…おとこ」「なはをなみ…縄が無いので…汝はお並み…そのおとこ君普通」「ねるやねりそ…練るや練リ麻…鍛練したか撚りかけた麻のお」「くだけて…身を砕いて…心砕いて…身も心もくたくたになって」「思ふ…思い悩む…もの思う」

 

歌の「清げな姿」は、岡で草刈る男の風景。

「心におかしきところ」は、男のさがのはかなさを自覚して、練りも撚りも入れて強くしたはずが、身も心も砕けて、もの思う男の様子。

深い心はない。拾遺集では題しらず、恋歌三の巻にあるので、恋歌と聞いていた。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮説である。


◇和歌は、貫之と公任と俊成の歌論に学べば、当時の人々と同じ聞き耳をもって、歌の複数の意味を聞きとることができる。


◇木は男、月は男、草は女、などと述べて来た。また、水は女、鳥は女だとも述べていくが、言葉の意味に、根拠や理由がいちいちありはしない。唯、記紀歌謡・万葉集・伊勢物語・古今和歌集を通じて、そのような「言の心」で用いられてあるから、そのように心得るだけである。