帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 中品下

2014-11-08 00:40:12 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌


 

公任の歌論『新撰髄脳』は、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。


 

 「九品和歌」 中品下


 すこし思ひたるところあるなり。

(少し思っているところが有るのである……詠み人は・少し思っていることが有るのである)


 きのふこそ早苗とりしかいつのまに 稲葉そよぎて秋風ぞ吹く

 (昨日よねえ、早苗採り・田植したのは、いつの間に、稲葉そよいで秋風が吹くの……木の夫だからよ、さ汝枝とい入れたわ、いつの間に、否端、揺らいで、飽き風吹かすのよ)


 言の戯れと言の心

「きのふ…昨日…ほんのこの前…木の夫…つよくかたいおとこ」「こそ…限定して指示・強調する意を表す」「こ…おとこ」「さなえ…早苗…さ汝枝」「さ…接頭語」「な…汝…親しみ込めその身の枝」「え…枝…身の枝…おとこ」「いなば…稲葉…否端…否という身の端」「そよぐ…揺らめく…よれよれになる」「秋風…飽き風…あきの心風」「秋…季節の秋…飽き…あきあき」「風…心に吹く風」

 

歌の清げな姿は、光陰矢の如し。

心におかしきところは、よみ人の女は、媾淫矢の如きおとこのはかないさがについて、すこし思うことがあるのである。

深き心はない。古今集 秋歌上、題しらず、よみ人しらず。

 

 

我を思ふ人を思はぬむくいにや 我がおもふ人の我を思はぬ

(我を思う人を思わない報いなのか、我れの思う人が我を思わない……俺に思いを寄せる女を愛おしく思ってやらなかった天の報復か、俺の思いを寄せる女が、俺を何とも思わないのは)


 言の戯れと言の心

「思ふ…心にかける…愛おしく思う」「人…異性…女」「むくい…報い…ある行為の結果として受ける事態…因果応報」

 

歌の清げな姿は、因果応報の自覚。

心におかしきところは、まわりくどく、失恋を自嘲するところ。

深い心は無い。古今集 雑体の誹諧歌、題しらず、よみ人しらず。誹諧歌は滑稽に誹謗する(嘲笑する、時には自嘲する)歌。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。

 

◇「我を思ふ人を…」の歌は、三十一文字の中に、「思」が四箇所、「我」が三個所、「人」と「ぬ」が各二箇所ある。これは歌の病(欠陥)である。承知しながらあえてそうするのは自虐。ここまでやれば諧謔となる。


◇このような歌には軽く次のように返すのだろう。古今集に並べられてある歌、「思ひけむ人をぞともに思はましまさしやむくいなかりけりやは(思いを寄せてくれた女と、相思相愛になればよかったのになあ、確かに・失恋の・報いはなかったかなあ、いや、確かに・おぬしは女に・報われないなあ)」。「むくい…報い…因果応報…果報…幸運」「やは…反語の意を表す」。