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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
(題不知) (読人不知)
二百八十 けふさへやよそに見るべきひこぼしの たちならすらむあまのかはなみ
(題しらず) (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(七夕の・今日もまたか、遠い余所に見るべき彦星が、踏み均すのでしょう・渡瀬に立つ、天の川波……いつものこと、七夕の夜までもか、余所ごとに見なければならない男ほしが、慣れ親しんでいるのでしょう、波だつ女の川)
言の心と言の戯れ
「けふさへや…今日もまたか…常のこと今日までもか」「よそ…遠い他所…余所ごと」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「べき…(見物するのが)適当である…(余所に見て)いなければならない」「ひこぼし…彦星…男星」「たちならす…立ち均す…踏みしめる…慣れ親しくする」「あまのかは…天の川…(彦星が渡って行くという)川」「天…あま…女」「川…言の心はおんな」「なみ…川波…心波…女心の動揺…汝身…わが身」「な…汝…親しきものをこう呼ぶ」
歌の清げな姿は、(夫君が如何なる境遇にあるのかはわからないが)待つ妻の七夕の夜の心情。
心におかしきところは、身と心が波立つ。女の色情を言葉の綾に包んで表現してあるところ。
人丸
二百八十一 あしひきの山より出づるつきまつと 人にはいひて君をこそまて
(題しらず) (柿本人麻呂・歌のひじり)
(あしひきの山より出づる月を待つと、他の人には言って、夫君を待っているのだな……あの山ばより出た、ささらえおとこを待つと、お相手の・男には言って、貴身を・その再起を、待て)
言の心と言の戯れ
「あしひきの…山の枕詞」「山…山ば…感情の山ば」「出づ…表れる…離れる」「る…自然にそうなる意を表す…受身の意を表す」「つき…月…壮子…おとこ…尽きたおとこ」「人…他人…お相手の男」「君を…貴身を…おとこ」「こそ…(君を)強く指示する…是ぞ…子ぞ…貴身ぞ」「まて…待て(こその係り結び・命令形ではない)…待つ…待て(命令形)…待つのだ…待ちなさい(ひじりのおさとしの言葉)」
歌の清げな姿は、(如何なる情況で待つことになったかは不明ながら)女の夫恋しい悩みを聞き確認している。
心におかしきところは、あの山ばを且つ乞うと言って、ささらえおとこの再起を待つのだ。
出でて逝くのはおとこのはかない性と知り、再見・二合いを言葉にした時、己の性も知ることになる。そうして、貴身の再起を待てば、ただ恥ずかし事と思い秘めていた苦しい乞い心は和らぐ。人麻呂の歌は、ひじり(高僧)の言葉にひとしい。
この歌の作歌事情を推察すれば、紀貫之が「柿本人麻呂なむ、歌のひじりなりけり」と古今集仮名序で述べた後に、万葉集のよみ人しらずの歌が、それらしい歌に詠みかえられて、優れた歌として小野宮家(公任の家)に伝わったのだろう。
万葉集の本歌を聞いてみよう。万葉集巻第十二 「寄物陳思」の歌群にある、よみ人しらず。
足日木乃 従山出流 月待登 人尓波言而 妹待吾乎
(あしひきの山より出づる月待つと、人には言って、妻は待つ、我を、あゝ……あの山ばより流出した月人壮子を待つと、我には言い、そうして、愛しい妻は待っている、吾おを、あゝ)
「人…他人…妻の相手…我」「乎…を…対象を示す…か…疑いを表す…あゝ…感嘆を表す」
歌の「心におかしきところ」は、男と女の色情の極致に、なをも待つ妻に感嘆するおとこ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。