帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 上品下

2014-11-05 00:02:18 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 極楽浄土にも上品、中品、下品の三段階、それぞれに上中下の合計九つの階級があるという。公任は和歌を極楽浄土に倣って仕分けたのである。


 『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この公任の歌論に基づいて、『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」
上品下

 
 こゝろふかからねども、おもしろき所あるなり

(心深くはないが、面白いところが有るのである……心深くはないが、秘められたことが明白になる快感が有るのである)

 

 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 (世の中に、絶えて桜が無いならば、季節の春の、人の・心はのどかだろうにな……女と男の仲に・夜の中に、耐えて、お花さく情態が、無くかりすれば、春の情はのどかだろうになあ)


 心得るべき、言の戯れと言の心

 「おもしろき…面白き…隠れているものが表面に表れ明白になる快さ」

「世の中…男と女の仲…夜の中」「たえて…絶えて…絶滅して…耐えて…我慢して」「桜…木の花…男花…咲くら」「木の花…言の心は男」「ら…状態・情態を表す」「なかりせば…無かったならば…無く狩りすれば」「かり…猟…あさり…まぐあい」「春の心…季節の春を迎える人々の心…春の情」「のどか…長閑…温暖でうららか…気分がゆったり穏やか…慌ただしく無い」「まし…もし何々ならば何々なのに…現実ではない事を仮に想像する意を表す、願望や不満の気持が含まれる」

 

 歌の清げな姿は、桜花の咲き散る慌ただしさに不満を述べながら、季節の春を言祝ぐさま。

 心におかしきところは、誰もが思うことながら、内に秘めていたおとこのさがの慌ただしさを、明白にしたおも白しさ。

 心深くは無い。


 

 望月の駒ひきわたす音すなり 瀬田のながみち橋もとどろに

(貢物の・望月産の駒、ひき渡す音がするようだ、瀬田の長道、橋もとどろかせ……充実したつき人をとこ、こ間、ながくつづける音がする、背多の長みち、身の・端もとろけるほどに)

 

言の戯れと言の心

「望月…充実した月人壮士…立派なおとこ」「月…月人壮士(万等集の歌詞)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「駒…馬…小ま…股間」「ひきわたす…引率して渡す…長く続く」「瀬田…地名…名は戯れる。背多、男多い、好色な女」「田…多…女」「長道…長路…永路…持続する女」「路…女」「橋…端…身の端…おんな・おとこ」「とどろ…轟くような音…ととろ…とろけるようなありさま」

 

歌の清げな姿は、ひずめの音、駒の連なりと瀬田の長橋の風景。

「心におかしきところ」は、言の戯れにより顕われる性愛のありさま。

人の心の浅いところを掬って見せられたような快(おもしろきところ)は有るが、心深くない。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。


◇優れた歌は「心深く・姿は清げで・心におかしきところが有る」と公任は言う。このような複数の意味を一つの言葉で表現する歌のさま(歌の表現様式)を確立するとともに、心におかしきところのある(エロチシズムのある)最上級の歌を詠んだのが柿本人麻呂である。古今集仮名序で、「歌のひじり」と称されたのはそのためだろう。


◇音楽は複音の協和ならば、和歌も複数の意味の協和で成る。すでに万葉集の歌に於いて、単音の調べや、一義な意味の歌詞に、満足できるような段階ではなくなっていた。歌は、品の上中下にかかわらず、必ず複数の意味が有る。


◇近世以来、国学と国文学によって解説されてきた「序詞・掛詞・縁語」などという概念は不用である。これは、近代人が自らの理性と論理性を信じ自然科学の方法を真似て、分類分析して「浮言綺語」の如く戯れる歌言葉を牛耳ようとした結果である。古今東西のいかなる哲人も言葉と格闘して勝った人はいない。古代人は、なやましいこの言葉の戯れの複数の意味を逆手に取って歌を詠んだ。高度な表現方法を得ていたようである。