帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百四十三〕文こと葉なめき人こそ

2011-12-02 00:07:28 | 古典

  



                     帯とけの枕草子〔二百四十三〕文こと葉なめき人こそ



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百四十三〕ふみこと葉なめき人こそ

 
 ふみこと葉なめき人こそ、いとにくけれ(文言葉、無礼な人は、とっても憎らしい…手紙の言葉、無作法な人は、全く気に入らないことよ)。(世…男女の仲…夜)をいいかげんに書き流している言葉の見苦しさよ。そのような普通ではない人のもとに、あまり畏まった文やるのもたしかに悪い。それでも、その人が、我が得るのは、言葉わるくて当然、人のもとに送る手紙が、気に入らないのよ。

だいたい、差し向いでも、話し言葉の・無作法なのは、どうしてこう言うのかしらと、にがにがしい。まして、高貴な人をそうした無作法な申し方するのは、たいそう憎らしくさえある。田舎じみた者が、そうした言い方なのは、ばかばかしくて、なかなか良い。

 男や主人を無礼に言うのは非常に悪い。しかし・わが使う者が「なにとおはする」「のたまふ」などと(あるじを敬語で)言うは、ひどく聞き苦しい。そういう者には、「はべり」など(謙譲語)という文字(言葉)があってほしいなあ、と聞くことが多い。

そのように言えそうな者には、「あな、にげな、あひぎやうな、などかう、このこと葉はなめき(ああ、似合ってない、愛嬌が無い、なんでそう、あなたの・言葉は無作法なの……あな、似げな、愛敬な、なぜそのように、あなたの言葉は『な』めいているの)」というと、聞く人も言われる人も、笑う。こういうこと思うからかな、「あまりみそす(余り見ぞする…余分なところ見る)」などと言っているのも、人にすれば悪いのでしょう。

殿上人や宰相らを、ただ名のる名を少しも遠慮することなく使う者が言うのは、まったく具合が悪いのだが、きっちりと言わず、女房の局に居る人をさえ「あのおもと」「(何々の)」などと言えば、珍しく嬉しいと思って褒めることよ、たいそうに。

 殿上人や君達は、主上の御前より他では、官名だけを言う(御前では名だけを言う)。また、御前にてはご自分のことを言うのにも、主上がお聞きになっておられると、どうして「まろが」などと言うでしょうか(言うべきではない)、そう言うと賢く、言わないと悪いことかしら。

  言の戯れと言の心
  「にくけれ…憎くけり…憎らしいことよ…気に入らないなあ」「なめき…無礼な…無作法な…『な』めいた…『な』の多い…汝めいた…あなたらしい」「あまりみ…余り見…余計なところを見る…余計な面倒を見る…余分に見る」「見…目でみること…めんどう見る事…まぐあい」。


 
宮仕えなどするには、まず言葉使いからだと、里の家の女たちや近所の女たちに、暇だったので教えていた様子と読めば、わかりよいでしょう。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新日本古典文学大系 枕草子による。