帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (310)みやまよりおちくる水の色見てぞ

2017-10-27 19:20:01 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

近世の国学、近代以来の国文学も、貫之の歌論を曲解し無視して、古典和歌の解釈を行い、其れが常識として今の世に蔓延っている

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下310

 

寛平御時、古き歌奉れとおほせられければ「龍田

川もみぢ葉ながる」といふ歌を書きて、そのおな

じ心をよめりける            興 風

み山よりおちくる水の色見てぞ 秋はかぎりと思ひ知りぬる

寛平御時、古き歌奉れとおほせられければ「龍田川もみぢ葉ながる」といふ歌を書きて、そのおなじ心を詠んだと思われる・歌、 ふじはらのおきかぜ

(深山より落ちくる水の、もみぢの色彩見てぞ、秋はこれが限りだと、思い知ったことよ……深い見の山ばより、堕ちくるをんなの、流れに身を任せる・色情見てぞ、厭きは果てたと思い知ったよ)。

 

深山より落ちくる水の、色とりどりのもみじ色を見て、秋はこれが限りだと、思い知ったことよ――歌の清げな姿。

深い女の見の山ばより、堕ち来る女の色情見て、厭き果てたと、思い知った――心におかしきところ。

身も心も、流れに任せる、女の至福の時の歌のようである。

 

 

284「龍田川もみぢ葉ながる」歌の心は(龍田川、もみじ葉、流れている、神の座すところの、三室の山に時雨が降るらしい……断つた女川、も見じ端、流れている、女のなびくところの、三つのなま暖かい山ばに、その時のおとこ雨がふるにちがいない)であった。

女の靡く、三つの山ば越えて、身も心も、その時の水の流れに任せる、至福の時の歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)