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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
近世の国学、近代以来の国文学も、貫之の歌論を曲解し無視して、古典和歌の解釈を行い、其れが常識として今の世に蔓延っている
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (310)
寛平御時、古き歌奉れとおほせられければ「龍田
川もみぢ葉ながる」といふ歌を書きて、そのおな
じ心をよめりける 興 風
み山よりおちくる水の色見てぞ 秋はかぎりと思ひ知りぬる
寛平御時、古き歌奉れとおほせられければ「龍田川もみぢ葉ながる」といふ歌を書きて、そのおなじ心を詠んだと思われる・歌、 ふじはらのおきかぜ
(深山より落ちくる水の、もみぢの色彩見てぞ、秋はこれが限りだと、思い知ったことよ……深い見の山ばより、堕ちくるをんなの、流れに身を任せる・色情見てぞ、厭きは果てたと思い知ったよ)。
深山より落ちくる水の、色とりどりのもみじ色を見て、秋はこれが限りだと、思い知ったことよ――歌の清げな姿。
深い女の見の山ばより、堕ち来る女の色情見て、厭き果てたと、思い知った――心におかしきところ。
身も心も、流れに任せる、女の至福の時の歌のようである。
(284)「龍田川もみぢ葉ながる」歌の心は(龍田川、もみじ葉、流れている、神の座すところの、三室の山に時雨が降るらしい……断つた女川、も見じ端、流れている、女のなびくところの、三つのなま暖かい山ばに、その時のおとこ雨がふるにちがいない)であった。
女の靡く、三つの山ば越えて、身も心も、その時の水の流れに任せる、至福の時の歌のようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)