帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (293)もみぢ葉のながれて (294)ちはやぶる神代も

2017-10-13 19:31:02 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。

優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあった。常識となっている国文学的解釈は、和歌のうわの空読みであることもわかった。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下293

 

二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に

龍田川にもみぢ流れたる形をかけりけるを、題にて

よめる                素性法師

もみぢ葉のながれてとまる水門には くれない深き波や立つらむ

(二条の后が皇太子妃として、親王をもうけ御息所と申された時に、御屏風に龍田川に紅葉が流れている絵を描いて有ったのを、題にして詠んだと思われる・歌) 素性法師

(もみぢ葉の流れて泊る湊には 紅色深き波が立つだろうか……も見じ端の、流れてとまる、をみなの身の門には、繰れない色情の深い心波が立つだろうなあ)

 

「もみぢ葉…も見じ端」「とまる…泊る…留まる…止まる」「みなと…湊…港…水門…をみなの門…おんな」「くれない…紅色…繰れない…繰り返せない」「なみ…波…心波」「や…疑問…感嘆…詠嘆」。

 

龍田川の晩秋の情景――歌の清げな姿。

も見じ端の流れて止まる、をみなの門には、繰れない不満の深き心波が立つだろうなあ――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下294

                           在原業平

ちはやぶる神代もきかず龍田川 からくれないに水くくるとは

(同じ御屏風絵を、題にて、詠んだと思われる・歌) 在原業平

(ちはやぶる神代にも、聞いたことがない、龍田川、唐紅に水を、括り染めにするとはなあ……血は破る、神よも・紙よも利かず、断った川・かは? 鮮明で深い紅色に、をみなに、我が身の端・くぐり入るとはなあ)

 

 

「ちはやぶる…神の枕詞…激しい…荒々しい…血は破る」「神代…神よ…紙よ」「龍田川…断ったかは?…切れたか」「かは…川…言の心は女…かは?…疑問」「水…言の心は女…をみな」「くくる…括る…括り染めにする(薄い水色の布のところどころ水色残るように括り、全面紅葉色に染める)…くぐる…潜る…潜り入る」「は…感動・感嘆・詠嘆」。

 

龍田川の晩秋の情景――歌の清げな姿。

初めての夜の、おとことおんなの情態――心におかしきところ。

 

歌を依頼したのは、皇太子妃(藤原高子)ご自身であろう。どのような歌を詠まれようと、今となっては、懐かしいだろう。やがて、皇后になり、我が親王が次の皇太子になる。女の最高峯の上りつめるのは確実な時点で、太政大臣は兄基経である。歌からは其処まで分からない。「伊勢物語」(業平の日記)を、平安時代の歌論と言語観で読めば、裏切って入内した、高子及び藤原氏に対する、業平の怨念さえ感じる。身の危険を察知したか、京を離れ東の国に逃れたが、そこでも「かかることはやまざりける」という。業平の歌は、思いが有り余って「言葉が足りない」ようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)