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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。
優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。深い心と、三拍子揃うことは至難の業らしい。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (281)
題しらず よみ人しらず
佐保山のははそのもみぢ散りぬべみ 夜さへ見よと照らす月影
題知らず 詠み人知らず・匿名で詠まれ女歌として聞く
(佐保山の、ははその木のもみじ散ってしまいそうね、夜さえ見よと照らす月の光よ……すばらしい男の山ばの、はァはァ、そのも見じ、散ってしまいそうね、夜も見るって、照らす、つき好みおとこよ)
「さほやま…山の名…名は戯れる…さ男の山ば…すばらしいおとこの山ば」「ははそ…木の名…もみぢは黄色で薄いとか…はァはァ…息切れの様子」「もみぢ…もみじ…秋の果て…飽きの果て…も見じ…も見ない」「も…強調「見…見物…覯…媾…まぐあい」「じ…打消の意志を表わす」「よ…(命令形に付く)よ…感嘆。感動を表す」「月…つきひとおとこ…突き好みおとこ」「影…光…陰…陰…おとこ」。
これらはまさに、浮言綺語の戯れである。
佐保山の、薄い色のもみじ、散ってしまいそう、夜さえ見よと照らす月の光よ――歌の清げな姿
さおの山ばの、はァはァ、そのも見じ、宵のうちに散ってしまいそう、夜も見るって、照らすつき好みおとこ・感激――心におかしきところ。
女のエロス(生の本能・性愛の感情)の本音が心におかしきところに顕れている。これが歌の真髄だろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)