帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (301)白波に秋の木の葉のうかべるを

2017-10-20 19:18:52 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

                                                              

古今和歌集  巻第五 秋歌下301

 

寛平御時后宮歌合の歌          藤原興風

白波に秋の木の葉のうかべるを あまのながせる舟かとぞ見る

(寛平の御時、后宮の歌合の歌、秋歌二十番。右方) ふじはらのおきかぜ

(白波に秋の木の葉が浮かんでいるのを、漁師の流した小舟かと思って見ている……白汝身に、厭きの此の端が浮かんでいるのを、吾間の流した夫根かとぞ思い、見ている)。

 

晩秋の河口付近の情景――歌の清げな姿。

女の汝身間に、厭きの此の端が浮かぶのを、吾間の流した小夫根かと思い、見つづけている――心におかしきところ。

 

「波…なみ…汝身」「秋…飽き…厭き」「木の葉…木の端…この身の端…おとこ」「見る…目で見る…見て思う」「見…覯…媾…みとのまぐあひ」。

 


 この歌と合わされた左歌は、よみ人しらず(匿名で詠まれた女の歌として聞く)の歌であった。

散らねどもかねてぞ惜しきもみぢ葉は 今は限りの色と見つれば

(未だ散らないけれど、もとより惜しまれるもみじ葉は、今は限りの、色彩と思えば・なお惜しい……散り果てないけれど、前から惜しかった、貴身の・も見じ端は、今はこれっきりの色情と思われるので・なお惜しまれるわ)

 

「もみぢ葉…あきの葉…も見じ端…はてたおとこ」「色…色彩…色情」。

 

両歌は、性愛の果てにおける情況を、女の立場と男の立場で詠まれてある。合わされると「心におかしきところ」が増すようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)