帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (302)もみぢ葉の流れ (303)山川に風の

2017-10-21 18:52:58 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下302


       龍田川のほとりにてよめる         坂上是則

もみぢ葉の流れざりせば龍田川 水の秋をば誰が知らまし

(龍田川のほとりにて詠んだと思われる・歌……断った川のほとりにて詠んだらしい・歌)さかのうへのこれのり

もみぢ葉が流れなければ、龍田川、水の秋をば誰が知るだろうか……も見じ端流れず、水もともに、流れなければ、多々川、断ったかは?、おんなの厭きを誰が知るだろう)

 

「龍田川…川の名…名は戯れる、断った川、絶えたかは?」「川…言の心は女…おんな」「水…言の心は女…をみな」。

 

晩秋、もみじ葉の浮かぶ川の景色――――歌の清げな姿。

至宝の山ば越えた後の、身も心も共に流れきれない、おんなとおとこの情景――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下303


        志賀の山越えにてよめる            春道列樹

山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり

(志賀の山越えにて詠んだと思われる・歌……至賀の山ば越えにて詠んだらしい・歌) はるみちのつらき

山川に風のかけた、しがらみは、流れきれないもみじだったのだ……山ばのおんなに、心風のかけた、しがらみ・肢がらみは、流れきれない、も見じだったのだなあ)

 

「風…心に吹く風…あき風など」「しがらみ…柵…肢からみ…からみついたもの」「もみぢ…紅葉…も見じ」「なりけり…気付き…詠嘆」。

 

晩秋、もみじ葉の浮かぶ川の景色――歌の清げな姿。

至宝の山ば越えた後の、身も心も共に流れきれない、おんなとおとこの情景――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)