帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (306)山田もる秋の仮庵に置く露は

2017-10-24 19:31:26 | 古典

            

 

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

近世以来、国学と国文学は、貫之の歌論を曲解し無視したのである。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下306

 

是貞親王家歌合の歌         ただみね

山田もる秋の仮庵に置く露は いなおほせ鳥の涙なりけり

是貞親王家歌合の歌            壬生忠岑

(山田を守り、鳥獣など寄せ付けない、秋の仮庵に降りる露は、何時もは・稲背負う鳥の涙だったのだ……山ばのおんな盛る、厭きのかり井ほに降りるおとこ白露は、まだ嫌・否とおっしゃる女の涙だったのだなあ)

 

「いなおほせ…鳥の名…名は戯れる、稲負背、否仰せ、嫌だとおっしゃる」「鳥…言の心は女(古事記をそのつもりになって読めば、否応なく、女は鳥、鳥は女とわかる)」「なりけり…気付き…詠嘆」

収穫の秋、仮小屋の露、小鳥の鳴く風情――歌の清げな姿。

いまは盛りのおんなの山ば、降りるおとこ白つゆ、まだ早すぎる、否と仰せの女の涙――心におかしきところ。

 

歌合では、どのような女歌と合わされたのだろう。

 

「歌のさま」を知らず、「言の心」を心得ない人は、歌から聞こえるのは「歌の清げな姿」のみである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)