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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
近世以来、国学と国文学は、貫之の歌論を曲解し無視したのである。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (306)
是貞親王家歌合の歌 ただみね
山田もる秋の仮庵に置く露は いなおほせ鳥の涙なりけり
是貞親王家歌合の歌 壬生忠岑
(山田を守り、鳥獣など寄せ付けない、秋の仮庵に降りる露は、何時もは・稲背負う鳥の涙だったのだ……山ばのおんな盛る、厭きのかり井ほに降りるおとこ白露は、まだ嫌・否とおっしゃる女の涙だったのだなあ)
「いなおほせ…鳥の名…名は戯れる、稲負背、否仰せ、嫌だとおっしゃる」「鳥…言の心は女(古事記をそのつもりになって読めば、否応なく、女は鳥、鳥は女とわかる)」「なりけり…気付き…詠嘆」
。
収穫の秋、仮小屋の露、小鳥の鳴く風情――歌の清げな姿。
いまは盛りのおんなの山ば、降りるおとこ白つゆ、まだ早すぎる、否と仰せの女の涙――心におかしきところ。
歌合では、どのような女歌と合わされたのだろう。
「歌のさま」を知らず、「言の心」を心得ない人は、歌から聞こえるのは「歌の清げな姿」のみである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)