帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (283)龍田川もみぢ乱れて流るめり

2017-10-06 20:03:53 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。

優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下283

 

題しらず            よみ人しらず

龍田川もみぢ乱れて流るめり わたらば錦なかや絶えなむ

この歌は、或る人、ならの帝の御歌なりとなむ申す

  

 題知らず               詠み人しらず(帝の御歌として聞く)

(龍田川、もみぢ乱れて流れているようだ、我らが・渡れば、色彩豊かな錦織、半ばばで絶えるだろう……多た川・断ったかは?も見じ、乱れて流れているようだ、我らが渡れば、両人のおりなした、色情豊かな仲、絶えるだろうな・者どもyとまれ」。

           この歌は、或る人、ならの帝の御歌であると、申すようである。

 

「龍田川…川の名…名は戯れる…断ったかは?…多た川…多情な女…川の言の心は女」「もみぢ…も見じ…も見ない…断ったおとこ」「錦…色彩豊かな織物…色情豊かにおりなした情態」「なか…半ば…中…仲」。

 

龍田川、もみじ乱れて流れているようだ、我らが・渡れば、色彩豊かな錦織、半ばばで絶えるだろう・者ども、止まれ――歌の清げな姿

わたれば、両人のおり為した色情豊かな錦、半ばで断つとになるだろう・流れきるまで待とう――心におかしきところ。

 

 ならの帝は、平安初期の平城天皇とは限らない、奈良時代の帝をこうよぶこともある。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)