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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。
優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (283)
題しらず よみ人しらず
龍田川もみぢ乱れて流るめり わたらば錦なかや絶えなむ
この歌は、或る人、ならの帝の御歌なりとなむ申す
題知らず 詠み人しらず(帝の御歌として聞く)
(龍田川、もみぢ乱れて流れているようだ、我らが・渡れば、色彩豊かな錦織、半ばばで絶えるだろう……多た川・断ったかは?も見じ、乱れて流れているようだ、我らが渡れば、両人のおりなした、色情豊かな仲、絶えるだろうな・者どもyとまれ」。
この歌は、或る人、ならの帝の御歌であると、申すようである。
「龍田川…川の名…名は戯れる…断ったかは?…多た川…多情な女…川の言の心は女」「もみぢ…も見じ…も見ない…断ったおとこ」「錦…色彩豊かな織物…色情豊かにおりなした情態」「なか…半ば…中…仲」。
龍田川、もみじ乱れて流れているようだ、我らが・渡れば、色彩豊かな錦織、半ばばで絶えるだろう・者ども、止まれ――歌の清げな姿
わたれば、両人のおり為した色情豊かな錦、半ばで断つとになるだろう・流れきるまで待とう――心におかしきところ。
ならの帝は、平安初期の平城天皇とは限らない、奈良時代の帝をこうよぶこともある。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)