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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。
優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (287)
題しらず よみ人しらず
秋はきぬもみぢは宿にふりしきぬ 道ふみわけて訪ふ人もなし
題知らず 詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く
(秋は来た、もみじはわが家に降り敷いた、道踏み分けて訪う人もなし……貴身の心地に・厭きが来てしまった、も見じは、わがや門に降り敷いた、通い路、婦身わけて、訪う男なんていない)
「秋…飽き…厭き…気が進まない」「もみぢ…も見じ…も見ない」「見…覯…まぐあい」「宿…屋門…や門sann身の門…おんな」「道…路…通い路…おんな」「も…強調」。
晩秋の通い路の情景――歌の清げな姿。
二見が心(うら)を期待するも、婦身わけて、訪れるおとこはなし――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (288)
題しらず よみ人しらず
ふみわけて更にやとはむもみぢはの ふりかくしてし道と見ながら
題知らず 詠み人知らず・匿名で詠まれた男の歌として聞く
(踏み分けて、更に訪れよう、もみじ葉の、降り隠した道と、見ながら……婦身わけて、なおも訪れよう、我が・も見じ端が、降り、隠した通い路と、思いながら)
晩秋の通い路の情景――歌の清げな姿。
なえた身、行くへも知らず、心だけがはやる男の性(さが)――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)