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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(47)
(寛平御時后宮歌合の歌) 素性法師
ちるとみてあるべき物を梅の花 うたてにほひの袖にとまれる
(散ると見ているのが相応しい物なのに、梅の花、特異な匂いが、わが衣の袖に留まっている……散り果てると思って当然の物なのに、おとこ花、いやな匂いが・白いお花の匂いが、わが身の端に留まっている)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「散る…果てる…絶える」「梅の花…木の花…男花…おとこはな」「うたて…特異な…ますますひどい…いやな」「袖…衣の袖…身のそで…おとこ」
散ると見ていていいものなのに、梅の花、特異な匂いが、衣の袖に留まっている。――歌の清げな姿。
散り果てていいと思っているのに、男花、白いお花の匂いが・断ち難き煩悩の匂いが、我が身の端に残留している――心におかしきところ、心深きところ。
歌言葉の戯れに、法師のエロス(生の本能)が顕れている。俊成は、これを「歌言葉の戯れに深き旨が顕れる」と言った。またそれを、煩悩であると認識していた。
「寛平御時后宮歌合」で、この左方の歌に合わされた右方の歌は、藤原興風 作。
声たててなけや鶯ひととせに ふたたびとだにくべきはるかは
「……鶯姫よ、こゑ立てて、はるを謳歌せよ、ひとと背のうちに再びは来るべきものか、春は二度来ないぞ」という歌である。左方の禁欲的な歌と合わせるのに相応しい、対照的な歌である。
この歌、古今集には、初句「こゑ絶えず」として、「春歌下」に採られてある。又その時に詳しく聞く。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)