帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(53)世中にたえて桜のなかりせば

2016-10-24 18:55:57 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                          ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上53

 

渚院にて桜の花を見てよめる       在原業平朝臣

世中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし

(渚の院にて、桜の花を見て、詠んだと思われる・歌……渚院(惟嵩親王の交野の狩場の離宮)にて、桜の花見をして(酒を飲みながらお供の者が皆歌を詠んだとき)詠んだらしい・伊勢物語82にある歌) 在原業平朝臣

(世の中に、絶えて、桜花が、無ければ、季節の春を迎える人の心は、長閑だろうになあ……女と男の・夜中に、絶えて、おとこ端が、無ければ、春の情は、のんびりしたものだろうに)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「世中…世の中…男と女の仲…よなか…夜中…夜の仲」「さくら…桜…木の花…言の心は男…咲くら…さくという状態」「ら…状態を表す接尾語」「春の心…季節の春を迎える人の心…春情」「のどけからまし…のどかだろうに…のんびりしているだろうに…激しくもあわただしくも咲き散り果てないだろうに」「まし…仮に想像する意を表す、希望や意向が含まれる」

 

世の中に、桜が無かったならば、季節の春を迎える人の心は、もう少し・のんびりとしているだろうに。――歌の清げな姿。

女と男の夜中に、お端が、この世に絶えて無かったならば、春の情はのんびりしたものだろうになあ。――心におかしきところ。

 

歌は嘯き(うそぶき)である。あらぬ方向に向かって口笛を吹くように呻き嘆く。文徳天皇の第一皇子惟嵩親王は、第四皇子(のちの清和天皇)との東宮あらそいに敗れ、やがて、第四皇子が御年九歳で即位された。その摂政となった御祖父、藤原良房にしてやられたのである。惟嵩親王を御慰めするための狩りと花見の宴で、御供の業平が詠んだ歌である。「絶えて、桜花が無かったならば、世中は・長閑なのになあ」の「桜花…男花…おとこ端」は藤原良房のことに違いない。歌の様を知り、言の心を心得る人には、歌の「深い心」も伝わるのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)