帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(51)山桜わが見にくれば春がすみ

2016-10-21 19:08:49 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上51

 

(題しらず)                        (よみ人しらず)

山さくらわがみにくればはるがすみ 峰にもおにもたちかくしつゝ

(山桜、わたしが見に来れば、春霞、峰にも尾根にも立ち、いつも・隠すのよ……山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、春が済み・張るが済み、有頂天も、お根も、絶ち、隠し・斯くし、いつも・筒)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「山桜…山の桜…山ばのおとこ端」「桜…木の花の言の心は男」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「春霞…はるがすみ…春が済み…春情・張るが済み」「峰…頂上…有頂天・この世での快楽の頂点」「お…を…尾根…男…おとこ」「たち…(霞が)立ち…(有頂天を)絶ち」「かくし…隠し…失せて…斯くし…このようにして」「つつ…反復・継続を表す…いつもいつも…筒…おとこはただの筒となってしまう」

 

山桜、われが見に来れば、春霞が山の峰にも尾根にも立ちこめて、隠す、いつも。――歌の清げな姿。

山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、貴身は・張るが済み、絶頂でも尾根でも、絶ち、身を隠す、いつも筒ね。――心におかしきところ。

 

女の歌として聞いた。絶ち失せてしまうおとこに対する、おんなの恨みごとである。貫之の歌(49)のとおり、おとこは、散り果てることを倣わない方がいい。しかい、これはおとこの性(さが)なので、どうしょうもない。女は、このような歌々を通じて、おとこなんて、はかなく哀れな物だと、知っておいた方がいい。「人間の倫理を教化し、夫婦あい和すに、和歌ほど宜しきものはない」。真名序には次のように記されてある。「化人倫、和夫婦、莫宣於和歌」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)