帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(47)梅の花 うたてにほひの袖にとまれる

2016-10-17 19:00:02 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上47

 

(寛平御時后宮歌合の歌)           素性法師

ちるとみてあるべき物を梅の花 うたてにほひの袖にとまれる

(散ると見ているのが相応しい物なのに、梅の花、特異な匂いが、わが衣の袖に留まっている……散り果てると思って当然の物なのに、おとこ花、いやな匂いが・白いお花の匂いが、わが身の端に留まっている)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「散る…果てる…絶える」「梅の花…木の花…男花…おとこはな」「うたて…特異な…ますますひどい…いやな」「袖…衣の袖…身のそで…おとこ」

 

散ると見ていていいものなのに、梅の花、特異な匂いが、衣の袖に留まっている。――歌の清げな姿。

散り果てていいと思っているのに、男花、白いお花の匂いが・断ち難き煩悩の匂いが、我が身の端に残留している――心におかしきところ、心深きところ。


 歌言葉の戯れに、法師のエロス(生の本能)が顕れている。俊成は、これを「歌言葉の戯れに深き旨が顕れる」と言った。またそれを、煩悩であると認識していた。

 

「寛平御時后宮歌合」で、この左方の歌に合わされた右方の歌は、藤原興風 作。

声たててなけや鶯ひととせに ふたたびとだにくべきはるかは


 「……鶯姫よ、こゑ立てて、はるを謳歌せよ、ひとと背のうちに再びは来るべきものか、春は二度来ないぞ」という歌である。左方の禁欲的な歌と合わせるのに相応しい、対照的な歌である。


 この歌、古今集には、初句「こゑ絶えず」として、「春歌下」に採られてある。又その時に詳しく聞く。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)