七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

特集「中央学園での思い出」その3

2022年11月28日 | お話サロン
       特集「中央学園での思い出」その3



           中央学園思い出の記

                        第七回技術科二組 松戸さん
 1,東北の旅
  夏休みを利用して、奥州へ旅に出かけ、予て行きたいと思っていた男鹿半島の
 寒風山を登りました。この時はバス旅行でした。すばらしい眺めを満喫したこと
 から、これを契機に山登りが始まりました。

 2,柔道部に在籍
  2年間柔道部に在籍しました。鈴鹿でご一緒した谷津さんなど六回生や同期の
 強豪に揉まれたおかげで黒帯で卒業を迎えることができました。

 3.クラス対抗野球の優勝
  学園で毎年行われているクラス対抗の野球試合で、我がクラスは纏まったチー
 ム力を発揮し見事優勝しました。私は、その時、マウンドに立ち、投げきった強
 い思いがあります。

 4.卒業ダンスパ-ティ
  学園卒業のダンスパーティがあるというので、参加することとし、七業のX氏
 (経験者)に案内されて、経堂駅近くのダンス教室に通いました。ある程度動く
 ことが出来るようになり、パーテティに参加しました。私の趣味の一つに社交ダ
 ンスが加わった次第です。

 5.ある飲み会の場
  経緯は分かりまぇんが、ある時、TさんとHさんと私の三人で洋風の飲み屋に
 入った時の話です。アルコールに弱い私は、飲むと辛くなることがあるので、控
 えていましたが、つい口当たりのよい、サワーを一気に飲みました。後がいけま
 せん。足腰が立ちません。
 殆ど、二人に背負われて寮にたどり着いた次第です。遠い昔の情けない思い出で
 す。

 6.早稲田大学(2理)在籍
  私は、高等部入学前に早稲田(第2理工学部)に通学していましたが、暫くし
 て、東海出身で技高六回の早川司朗さんが私と同じクラスに在籍していたことが
 分かり驚きました。まさかでしたから、それから38年の卒業まで楽しいお付き
 合いでした。
 早稲田第2理工学部は昭和39年廃部となりました。遠い昔の話です。

                                以上



            
中央学園での思い出

                        第七回技術科二組 三上さん
  昭和34年10月8日、中央学園高等部に入学。高等部としての座学、野外実
 習等瞬く間に十ヶ月が経ちました。昭和35年8月には「夏期休暇」が用意され
 ていました。
  各人、帰郷する者、旅行を楽しむ者が全国に旅立って行きました。
  田中君、松永君と小生三人は「北アルプス登山」をすることに決めました。
  登山の予定は思い出せませんが、「立山、剱岳、大日岳などを経て軽井沢」の
 ルートだった様に思います。
   
  アルプスの風景は素晴らしかったが、険しい山道を体力の無い身体で何時間も、
 何日も歩いたことを思い出します。
  二十代の体力があったので、険しい登山道を歩けたのでしょう。
  あの素晴らしい風景は六十数年経っても忘れることはありません。
                                以上




          次は、手紙で投稿下さった松原さんです。


            中央学園での想い出

                        第七回技術科一組 松原さん
 60年余茫漠とした雲海のかなたに霞んだ記憶も定かでない想い出を一つ二つ
 してみる。
 
 1 入学前
 入学直前の事・・・当時恵那電報電話局施設課機械係、入学一週間前、「出局し
 なくてよい、家で入学の準備を」と課長の話。在宅の二日目伊勢湾台風が来襲。
 出局して復旧作業を手伝ってくれとの連絡。やった仕事が恵那局から明智局(特
 定郵便局)への市外線(裸線)のバインド締め直しとか銀粉いっぱいの2コ撚り
 引き込み線を肩に担いで延々と引っ張り作業をやり、10月1日、入学のため早
 朝家を出発、中央線中津川駅から名古屋駅で東海道線に乗り換え、熱田近辺で車
 窓から見えたのは、径1メートルはあろうかと思われるラワン材の丸太が水に浸
 かった家の周りや空き地に押し合って浮いている様を見て、台風の凄さをみせつ
 けられた。この時の復旧作業の経験がのち卒業時に線路部門を選ばせたことの繫
 がっていると思う。

 2 学園で 強烈な印象の出来事はない。
 ⑴ 初めての同室者は業務の横浜からの塙さん、能登の珠洲からの本家さん、
 術の大阪からの松永さん、と小生の四人。
 始まった間が無い頃と思うが、本家さんが風邪で発熱、仙川まで行き、薬店を
 し風邪薬を買い戻り、本家さんの熱が下がったこと。

 ⑵ 郵政大学校のサッカーチームとの試合で、郵政チームに押し込まれゴール
 近で守っていた時(小生はF・B)、ペナルティーエリアの線とタッチライン
 間違えて、ペナルティーエリアの線の外へ出たボールを拾い上げてしまった。
 体を見ずにボールのみを見ていた大失策。当然相手のフリーキック。暫くの間恥
 ずかしさで顔を揚げられなかった。

 ⑶ 学園祭の運動会、入場行進で各チームの入場時そのチームを紹介すること
 なっていて、紹介役をその場で水野谷さんに頼んだ。水野谷さんものの見事に即
 席で次々と紹介してくれたのをスピーカーで聞きながら、凄い頭の回転の良い人
 だと感心したこと。

 ⑷ 2年の後半の頃だったと思うが、柿崎先生のテストのこと、何かの用事で
 員室へ入った時、柿崎先生の机の上にテスト問題の一つと思われる用紙が広げて
 あった。その時先生は見えなかった。しっかり憶えておいて、皆に話した。その
 問題が出題された。
 
 3 卒業後
 ⑴ 卒業して間もなく結婚した。新婚旅行先は長野県野尻湖のホテル。そこへ
 口のブーちゃんから祝電を貰った。卒業少し前新宿の旅行会社で宿を予約したが
 その時彼が一緒だった。これは嬉しかった。

 ⑵ 何年か後、北陸の宇野さんからTel。家内と旅行に行きたい。三河で何
処か
 宿をとの話。三河三谷の三ヶ根山にある郵政の保養所を紹介、予約してあげた。
 後日、表日本は明るくて良いですね。気持ちが晴れ晴れしますね。と沁み沁じみ
 と言われた事を思い出す。

                               以上




              風景写真事始め

                          第七回技術科二組 米田
 確か二年生の時だったかと思います。学園の文化祭か何かの写真展があり、写真
 展なるモノに初めて作品を出展しました。
 その時の作品は、あちこち探しましたがありません。確かモノクロのフイルムカ
 メラで撮影したモノでした。
 縦の構図で、真ん中に孟宗竹(モウソウチク)。それに蠅(はえ)が止まってい
 る。今再現するとこんな感じです。
    

 これが案ずるより不評ではなかった!(と自分は受け止めていました。)。
 当時は、作品の作品たる価値よりも唯々大きく引き伸ばせたことがうれしかった
 のでしょう。たかだか四つ切りでしたがね。
 それから、何年経ったのでしょうか?
 全ての仕事からリタイヤーして「毎日が日曜日に」
 確か72歳だったと思います。孟宗竹の夢が忘れられず、東京は銀座の写真学校
 の門を叩き、更に鎌倉の写真教室で教えを請いました。選んだ作品分野は「風景
 写真」
 スナップや人物写真の道もありましたが、落ち着いてノンビリと歩き回って人の
 気配の無い場所で三脚を据えて・・・。
 あぁーそれから何年経ったのでしょう。
 未だに「風景写真」に拘っています。今にして思えば、素人が人の姿が写ってい
 る写真はプライバシーを侵すと写真展等で公開出来ない世の中になっています。
 しかし、多寡が風景写真ですが
      「重いカメラバックに三脚を背負っての遠出」=体力仕事
 です。そろそろ年貢の納め時と観念しています。
 序での事です。お気に入りの作品をお見せしましょう。とは言っても「下手の横
 好きのレベルです。
 

 孟宗竹の夢に取り付かれた写真人生の物語でした。
                                 以上


 
 あとがき
 たくさんの方々が、随分いろいろな事を思い出して語って下さいました。いずれ
 も遠い遠い昔の出来事、なかなか思い出す機会がなく頭の襞に埋もれていたので
 しょう。これが、「七技会総会」として一堂に集まり語り合えたのなら、もっと
 もっと嬉しかったのでしょうに!集まれないことが残念です。コロナメの野郎、
 いつまで待てば居なくなるのでしょうか?後一年?それとも後三年?そろそろ
 「卒寿お祝い総会」ですね。それもいいか!それまで頑張りましょう。業務科の
 方にも参加していただいて元気にやりましょう!
                             あとがきおわり





2022.11.24  米田書き込み



次回更新は12月9の予定です。






                          




特集「中央学園での思い出」その2

2022年11月28日 | お話サロン

      特集「中央学園での思い出」その2



             「中央学園の思い出」
 
                                 七回技術科一組 友野さ
 1.同室4人
  高等部に受かった。よし、よし、これで2年間は住みかと飯の心配はいらなく
 なった。
  不謹慎だが合格を聞いて一番に思ったのはそれだった。入学案内に4人1部屋で
 の寮生活とあった。こりゃあ大変だ、どうやって4人仲良く過ごすかだなあ、ど
 んな奴と一緒になるのかなあ。入寮の日、部屋に入ると同室3名は既にいた。九
 州・近畿・近畿の面々。一人はすでにベットに入っていて奥からのそのそと出て
 きた。“いやぁ昨夜の送別会で少し飲みすぎてしもて・・・”と頭を掻き掻き。一
 人はどっしりしていて背が高くて眼鏡、育ちのよさそうな風体。もう一人は若そ
 うで格好よく女にもてそう。最後に参上した私を含めて4人そろっての挨拶と少し
 ばかりの話で一緒にやろうという気持ちが伝わって来た。
  こりゃ~いけそう。これが最初の出会いだった。それからは毎日毎日食堂に行
 くのも風呂に行くのも一緒。金魚のフンよろしく連れ立って行動した。
  夏には有給休暇をまとめてもらえるそうだ。どうしよう、バラバラでは勿体な
 い。修学旅行で北海道に行くと聞くが、団体旅行では面白くない。相談の結果
 「あこがれの北海道だ4人で行こう”となった。結果的にこの旅行が4人の絆を
 強くしたのか卒業後にも奥さんを含めて8人で何回か旅行した。京都、滋賀、神
 戸、大阪。果ては九州まで。この卒業後の旅行会は印象に残るものが多くある。
 順番で旅行の幹事をやり個性的な旅行プランで8人和気あいあいの楽しい旅行を
 した。
  勿論失敗談は盛り沢山だが、おぼろげな記憶による会話の一端を披露すると
  ア “あの3人は黄色いサクランボ?いいなあ。”誰かが“黄色かなあ、もうお手
   つきかもよ”
  イ あのいかした女、さっき“フ~ンファファ(パパァか?)”といって男の腕
   にしがみついていたぞ。二人の関係は何だろう。と4人で議論。
  ウ 卒業後の旅行で。固有名詞が出てこなくなりそれぞれが“アレ”“コレ”を連
   発。何かをしてやろうと気はつくが腰が重くてすぐに立てない。久しぶりに
   会っても互いに若いころの記憶しかないからそれぞれが歯がゆい。
   4人一緒に“年取ったなあ。”
   
 
 2.山歩き
  まとまった有給を利用して1年目は北海道旅行を楽しんだが、2年目はH、N
 と3人で白馬から槍までの山行きを計画した。
  テントが小屋泊まりより安かろうと神保町まで出かけ大枚をはたいてテントを
 買った。梁のない3角テントだ。体力と経済力に相談しながら長期の山歩きに耐
 える食料と装備を用意し”さあ出発”。ザックに腕を通すとズシリと重い。肩に食
 い込む。新宿にやっとたどり着いて手を見たら己が手とは思えないくらい膨らん
 でいる。“これから先大丈夫かしら。”
  山行きの詳細は別稿のリーダーH氏に任すとして、記憶を呼び戻しながら体験
 を2or3。
  白馬から槍への縦走だ。小屋泊まりであちこちの尾根歩きは経験したがテント
 をかついでの山行きは初めて。初っ端のキャンプ地天狗で雨に見舞われた。それ
 も長々と4日間、耐えて耐えての4日間。ラジオから流れる天気予報を4日間。
  後で思えばこれでスタミナの多くを失った。難関の大キレットでは危うく谷底
 真っ逆さま転落の危機を体験した。今思い出してもゾットする。これを救ったの
 は中央大学山岳部でいじめられながら伝授を受けたキスリングの収納と三点確保
 による歩行だ。もともとキスリングは横長だから意識して縦長に荷物を収納しな
 いとキレットのように狭隘な隙間を横ばいで通過するには不向きなリュックだ。
  岩角にリュックが触るたびにあの時のいじめを思い出した。谷底から吹き上げ
 る涼風が心地よい。爺岳を過ぎると低地になる。灼熱の中を黙々と槍へ向かっ
 た。のどが渇く、猛烈に乾く。右下には満々と水をたたえた黒部湖。あっ池があ
 った、種池だ。先を行く山岳パトロールが水を飲んでいるようだ。早く行って水
 を飲もう。着いたら水は茶色くおまけにボウフラが沢山泳いでいる。さすがにこ
 れは飲めなかった。行程は半ばだが相当バテてきた。針の木のキャンプ地に到着
 するのが遅くなって雪渓から溶け出す水を充分に取れない。槍を見ると遠い、
 それに連なる稜線が壁のように立ちはだかり迫って見える。なんで線が面に見え
 るんだ。リーダーは下山を決断し針の木で降りることとなった。
  まだ半分ほど残っている荷がことさら重い。下山では3人が黙々と歩く、夫々
 が夫々の思いを抱きながらもくもくと歩く。3人は無事下山し、いまでも生きて
 いる。リーダーよありがとう。
 
                  
     黒部側から湧き上がる雲。鹿島槍から五竜岳、遠く白馬を望む。
              平成4年頃の作画。

 3.卒業後
  いろいろな話を聞くと我々7回生は一番のびのびとした学園生活を送らせてい
 ただいたようだ。学園という環境に恵まれ、先生に恵まれ、部外の講師に恵まれ、
 お陰様で充実した青春を送ることができたと思っている。特に感じているのは部
 外講師だ。
  たまたま事情で学園の二年間は中央大学2部(法学部)の学生でもあった。教
 わっている身で講師の品定めをするなんてとんでもないことだが法律関係の講師
 をくらべても部外講師の素晴らしさを思う。授業内容が充実している、真剣に教
 えてくれる、試験が厳しい等々大学に行っても体験できないレベルの教育を我々
 は受けさせていただいた。感謝です。
  企業内訓練だから卒業生が企業運営に寄与するのは当然だが当時は「公社」で
 あり独占的に事業をしていたので広い視野での活躍も期待されていた。7回生は
 社外で活躍してきた人数が他の回に比べ多い。これは誇るべき事だと思う。

                                  以上



        アルプスとの出会い

                       第七回技術科二組 波多野さ
  中央学園高等部在学中、夏季休暇やGWはほとんどどこかの山に登っていた。

        
  リーダーは多くの場合、第七回業務部生の八尾さん(写真右端)である。八尾
 さんは大学山岳部にいたことのある本格的山男で、彼から技術・業務の専門分野
 の垣根を越えていろいろと山のことを学んだ。私はもともと山が好きだったが、
 それまでは丹沢や鈴鹿といった低山ばかりだった。八尾さんを通して初めてアル
 プス級高山の魅力を知り、だんだん山へのめり込んでいった。
  その他八尾さんには晩年になり、逓信同窓会の大河内賞を推薦いただくなど、
 山以外でもひとかたならぬお世話になっている。
  写真は中央学園山岳部で北アルプスを縦走したときのもので、中央は同窓の友
 野さん、その左はこれも同窓の今は亡き相原さんである。相原さんとは五十年後、
 南米コロンビアで一緒に仕事をするなど、最後まで長い付き合いが続いた。彼も
 若き日の山仲間の一人である。
  人は何故山に登るのだろうか? 私の場合、理由などない。ただ体が山の匂い
 を求めているだけだ。山が高ければ高い程、厳しい尾根縦走が続けば続くほど山
 はその匂いをますます濃くする。大学山岳部のような本格的登山経験のなかった
 私にとって、高等部時代の山は生き甲斐そのものであった。
                                 以上




        中央学園での思い出

                      第七回技術科一組 中本さん
 私は近く卒寿を迎えますが、消え去ろうとしている中央学園での思い出です。
 学園での数学の授業は、某大学の教授が講義されたのですが、私には授業時間が
 居眠りの時間となり、ついにはサボリの時間になりました。数学の試験は当然の
 結果でしたね。
 卒業後10年ほどして、中央学園の大学部へ勤務することになり、学園に出頭し
 ましたが驚いたのは、お前は数学の授業が担当と指示された事でした。
 高等部の数学の授業をサボった罰なのかと後悔しましたが、仕方がありません。
 自分なりに努力し勉強し何とかなりました。
 情けない思い出ではありますが、今となっては懐かしい出来事で、感謝していま
 す。
                                  以上
 注:中本さんはハガキで投稿してくださいました。

 

  世の中には猛者が居るものです。原稿料を払わないで投稿を呼び掛ける奴もそ
 の一人ですが、その上が居ました。
  去る日の朝、朝食を済ませた直後に珍しく固定電話が鳴りました。発信者の番
 号を見ると「0268・・・」誰だろう? 東北の? 東北の知り合いって?
 頭の中で模索しつつ、受話器を取って「ハイ!もしもし、どなた?」お相手が名
 乗るも東北の?思い出せません。
  何度か問い返していると業を煮やしたか「息子さんですか?」「いいえ、うち
 には同居する息子はいませんよ」
  そうこうするうちに、漸く栃木の近藤(繁)さんと分かりました。
  「俺さー、パソコンもプリンターも使ってないからさ!これから中央学園での
 思い出を言うからメモしてくれよ」
  確かに投稿を呼び掛けるお願いには、どんな手段でもいいから、と書きました
 が電話で来るとは想定していませんでした。
  「手書きでいいからハガキを送ってくれよ」と言いましたが、とにかくメモし
 てくれの一点張り。
  そのうち、こちらの言うことに目もくれず、お喋りが続きました。
  メモはしなかったが、大凡こんな事だったと思い出しながら、以下のようなお
 喋り投稿でした。



              中央学園での思い出

                     第七回技術科二組 近藤(繁)さん
 私は、中央学園の2年間、空手部に入り、空手をやっていた。空手部には、ばん
 ちゃんこと坂下さんや佐藤さんが一緒でした。
 その坂下さんと佐藤さんとが、卒業後間もなく相次いでお亡くなりになりました。
 そしたら「空手の三人組だったから次はお前の番だ!」とよく言われました。
 その私が、87歳になれたのも、そう言われ続けたおかげかな?と思って居ます。
 ・・・・・・・・・。
 そんな私だが、仕事は一生懸命やったよ。管内1・2番と言われたローコンキョ
 クのカンリショクも務め上げたカンネ!。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (この後、いろいろの話が約十分間続いたが、内容は忘れました。だから・・・
 ・・・・・・です。)
                                  以上

 

 
    この先は「中央学園での思い出」その3に続きます。
           そちらもご覧下さい。
    また、その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、
               そして、米田を掲載しています。



     
    
2022.11.24  米田書き込み





次回更新は、12月9日の予定です。














特集「中央学園での思い出」その1

2022年11月28日 | お話サロン

     特集「中央学園での思い出」その1


  皆さんに特集「中央学園での思い出」の原稿投稿を呼び掛けたところ、
 早速たくさんの方々がご応募下さいました。特に今回は、第七回業務科の
 方々にもご参加していただこうと、これまでとは異なったことを企画した
 ところ、業務の東さんが参加して下さいました。ありがとうございました。
  募集の際に申し上げました通り、当方への到着順に掲載しました。
  存分にお楽しみください。


  注:このブログには、1回3万字以下の制限があるため、やむを得ず
    その1からその3の3回に分けました。その2及び3の方も是非
    ご覧下さい。
    その1には、近藤(隆)さん、吉田さん、田中さん、業務の東さ
    ん、
    その2には、友野さん、波多野さん、中本さん、近藤(繁)
    さん
    その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、と米田を
    それぞれ掲載しています。

 


             中央学園での思い出

                    七回技術科一組 近藤(隆)さん
  60年前の事ですから、既に記憶の主体はかなり擦り切れ、焦点もぼけ、信
 憑性の保障は無いことをご了承ください。
  入社前、大学受験を袖にされ、途方に暮れていた頃に、幾らかの欲求不満を
 補完する効果を期待しての学園入学でした。
  しかし、学園での講義は、一流大学の教授陣揃いで、私の知能レベルでは容
 易に理解を許されませんでした。
  そんな閉塞感を切り開き、癒していただいたのは、絵画クラブの活動という
 と課外ですが、絵の先生は、田村先生(芸大卒の画家)でした。一応絵の練習
 は、デッサンという作業で、4Bの濃い鉛筆で石膏像の描写に明け暮れ、偶に
 は、景勝地へスケッチ旅行を楽しむひと時でした。
  殊に印象強く覚えているのは 、田村邸は公社社宅で狭いのに、クラブ生を快
 く受け容れていただき、大勢でよくお邪魔させて頂きました。そして、ご馳走
 になり、酒宴になり、人生訓の数々を承りながらの歓談に明け暮れました。
  画家を目指していた訳でもないのに、なんで飽きもせずに通えたのか。それ
 は人生百般に亘る教養のほとばしりともいえる、数々の人生訓を承える貴重な
 時間であったからです。
  絵画に絞っても、一幅の絵を描くには、絶えず描く対象物と反対側(対角線の
 反対側)との調和をよく気遣え」という鉄則のような教えでした。これは、社会
 生活にも通用する原則でもある、と後々まで忘れずに覚えています。
  絵心は単純ではなく、色彩と構図の調和も大事で、多岐に亘る思考と理念の
 創作品とでも言えるかとも思いますが、普段展覧会などで、絵画の前に立って
 も、そんなことに考えは及ばないものです。
  私には、極めて貴重な絵画クラブ活動の一時であった、と感慨に耽ります。
                               以上
                                


            「八回生歓迎会」の裏話

                       第七回技術科一組 吉田さん
  学園生活も二年目に入って、間もない頃、大食堂で「八回生歓迎会」を実施
 することが決まりました。
  山内さんを中心に「折角だから何か奇抜なことをやろうじゃないか」という
 話になり(山内さん、間違っていたらごめん)「女装のストリップ」に決まり
 何故か私に白羽の矢が立ってしまいました。
  やるからにはと、なけなしの財布をはたいて 日劇ミュージックホールも下
 見してきましたが、一番困ったのは女性の着物を調達することでした。
  当時 絵画部の講師をお願いしていました田村先生の奥様(医務室勤務)に
 お願いしたところ、快く引き受けて頂き 着物一式とお化粧品までお借りする
 ことができました。
  当日は、ミュージック・照明の準備よろしく。食堂の一階ホールに登場、ラ
 イトを浴びながら階段を上り、二階の喫茶ホールで、ミュージックに合わせて
 着物を脱いでいきました。 最後、裸になると身体には「祝 八回生歓迎」の
 軸が垂れてーーーーーーTHE END 。(シナリオ通りでした)
  後日、田村先生のお宅で、お酒を戴きながら 先生と奥様に冷やかされたこ
 とも今は楽しい思い出です。
  絵画部は 全員が田村先生ご夫妻に親身になってよくしていただきました。
  今は、向うで相ちゃんとも一杯やっているのではないでしょうか。  合掌
                                以上



 
             「中央学園の思い出」
 
                       七回技術科二組 田中さん
  改めて学園の思い出となると少し重くなりますが、恵まれた環境の下、勉学
 をはじめ全国の皆との触れ合いが出来たこと、私にとって学園はまさに「中央
 楽園」そのものでした。
  在学2年間の思い出となると夏休みの山登りですかね。入学前九州の山はほ
 とんど登っておりましたので、この際、何か残ることは山登りがあるなあと思
 いを重ねました。
  1年目は北アルプスの縦走でした。燕岳から槍、穂高を5人のパーティで尾
 根縦走を十分楽しみました。しかし、終日に上高地に下りて来ましたが、山の
 天気は変りやすく土砂降りの雨となって交通機関も全面ストップの状況でした。
  一般の多くの登山客が各家の軒下で直立不動で雨をしのぎ一夜を過ごそうと
 している光景を目の当たりにしこれは大変だと思ったら、メンバーの一人がこ
 こには我が社の夏山テント村があるはずだ!と、その管理を帝国ホテルの現地
 関連ホテルがやっていると聞き早速ホテルに行きましたら、「管理用テント一
 張りがあるのでどうぞお使い下さい」とのこと本当に助かり皆で喜んだことを
 覚えております。
  2年目の夏休みです。この時は日本の顔である富士登山です、一度は登って
 おきたいと募ったら6人のパーティが出来上がりました。
  天の邪鬼じゃありませんが一般の登り口3合目(現在は5合目かな)からで
 は面白くない、1号目(富士吉田口)から登ることにし夕方6時頃から徹夜で
 登り始め明朝4時半頃に目的であるご来光祈願をしたことでした。
  たまたま、当日は厚い絨毯の雲海でそこからの日の出はその雄大さに気をと
 られたものでした、山頂のお鉢巡りの後は一路須走ルートを経て帰路につきま
 した。
  後述ですが上高地は40数年後に再びバスツアーで妻と訪れる機会があり河
 童橋からの奥穂、涸沢を眺め大正池など懐かしく観光に浸ることが出来ましが、
 富士山は一回で十分と思いました。
                               以上




          こんなに勉強したんだ!?

                        七回業務科二組 東さん
  お誘いにのって初めて「ひろば」に訪問させていただく七業会の東です。学
 園寮では、井口さん、飯島さん、早野さん、水野谷さんと同室でした。初訪問
 とあって、かしこまって選択した「思い出」は「勉強編」からになりました。
  その思い出を写真に撮ってみました。
  写っているのは、卒業してから今日まで数多くの転居にも失うこと無く持ち
 歩いて、今も自宅で同居している学園時代の講義受講ノート41冊です。
  ミナトコウベの一隅で電報送受にいそしんでいた一有線通信士が、希有の機
 会を得て、最高学府の碩学をはじめ多くの講師から直接教えて頂いた記録は捨
 てがたく、形ある思い出となって、いつも目の届くところに座しております。
  岩崎東大教授の哲学冒頭の言「哲学とは何か。わけのわからぬ学問である。
 その名を聞くだけではわからぬものである。」、鎮目東大講師の物理学最終講
 義の言「宇宙を支配する法則。物理学とはその法則の発見のためにある。」な
 どなど思い出満載のノートです。          
  八尾さんと一緒に編集した学園卒業アルバムの講師写真ページを併せて開く
 と、半世紀を超えて往時が鮮やかに蘇り、マイ脳内メタバースの世界でひとと
 きを過ごせます。

    

                                 以上


    この先は「中央学園での思い出」その2、その3に
                       続きます。
    その2では、友野さん、波多野さん、中本さん、
              そして、近藤(繁)さん、を、
    また、その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、
             そして米田を、掲載しています。
    そちらも是非ご覧下さい。