パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

今年の「當る酉歳 吉例顔見世」

2016年12月31日 | 日記
京都の歳末風景の一つ、「顔見世」
例年だと、四条鴨川畔の「南座」で行われますが、
今年は、工事のため使用できないので、
「鴨川踊り」で有名な、先斗町の歌舞練場で、初めて行われました。
それでは貴重な写真でも…と鈴虫寺の帰りに寄りました。



先斗町歌舞練場正面の興行「まねき」
左右には塩が盛ってあります。
「當る酉歳 吉例顔見世」
興行の場所名「先斗町歌舞練場」と「千鳥」の幕が飾られています。


先斗町歌舞練場正面


舞妓さん(歌舞伎総合サイト歌舞伎美人より拝借)


鴨川堤から見た先斗町歌舞練場


鴨川堤から見た先斗町歌舞練場の屋根の装飾、壁面のレリーフ(テラコッタ)
蘭陵王の舞楽面を型取った鬼瓦(正面にも)

 
先斗町の通りの店には「吉例顔見世」の特別提灯


南座の正面には役者の「まねき」看板が例年通り掲げられています

 
正面扉の前に「乍憚口上」が置かれていました (後掲)


「當る 羊歳吉例顔見世」のまねき(以前撮った写真です)
興行の場所名「四条 南座」、「松竹」紋が飾られています。


今年の「當る酉歳 吉例顔見世」の興行まねき
南座の中央の興行まねきは、掲げられていません。
まねき上げでは、一旦掲げた後外されて
先斗町歌舞練場の正面に掲げられたそうです。


おさらい

「まねき」とは「招ね木」と書いたそうです。

招ね木とは江戸の昔、宿場の旅篭や茶屋に 旅馴れた馴染みの連中が
大山講や富士講の講中名や団体、火消しの組の名を記した、木札や手拭いを表に掲げました。
それが、招き看板 招き手拭い といわれるものです。
新しいお客様を招くところから、「招き」とよばれ、 「招木」、「招喜」の文字をあてていました。
江戸も文化文政の頃になると、 銘木を選び、文字を彫り込み、漆を差して意匠を凝らした形となり、
お客を呼ぶ縁起から、商家、粋筋をはじめ、芸界、火消しの内飾りとして 縁起棚の脇に飾られました。
                               (歌舞伎総合サイト歌舞伎美人より)

 役者「まねき」看板
  *材 質:檜製
  *サイズ:長さ1間[約180cm]×幅1尺[約30.3cm]×厚さ1寸[約3cm]。
  *墨には、つや出しに清酒を入れる。
  *勘亭流[客席がすき間なく埋まるよう、太く大きく丸い字]。
  役者名のほか「音曲・~連中」「興行タイトル」「乍憚口上」

「乍憚口上(はばかりながらこうじょう)」を読み直してみました。
(まねきでは、文節は全て読点、フリガナは朱書きとなっています。)
文中「雀右衛門」のフリガナは屋号の「京屋」
「庵看板」のフリガナは「まねき」
と附ってありました。
愚説ですが「乍憚口上」を読んでいると、これが「まねき」の語源かと思われます?


寂光院 「厄除け かぼちゃ焚き」

2016年12月27日 | 日記
12月24日、歳末の供養シリーズ?の最後とばかりに、寂光院「かぼちゃ焚き」に行ってきました。
寂光院のおさらいから
宗派 天台宗 (尼寺)
山号 清香山
寺号 玉泉寺
本尊 地蔵尊 (六万体地蔵尊)
「寂光院」の正式名の山号、寺号は知りませんでした。
寂光院といえば、平成12年放火により本堂が焼失、5年後、復興再建されたことでも有名です。
平家物語、建礼門院で有名ですが、創建は、何と594年(推古2年)。
聖徳太子が父用明天皇の菩提をに弔うため創建と伝わる。
寂光院初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)。
[敏達十三(五四八)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で、慧善比丘尼という]
本堂は、1603年には豊臣秀頼が片桐且元に命じて修理、更に
その後には豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に尽力したとされている。
聖徳太子の時代と大原の里。地域的には関係づけは難しい…。
タイムトリップがロマンを呼びます。また調べてみたい…。


行事の案内



拝観の手引き


ご本尊 地蔵菩薩立像
(パンフレットより)


拝観券


散華 表       裏


ご朱印     ご朱印の袋



寂光院入口       扉の菊の透かし彫り
            (左・菊に梶の葉 建礼門院のお印)


山門             本堂              書院   

   
鐘楼と姫小松        鐘楼       「諸行無常の鐘」    秀吉寄進の雪見燈籠

 
西門の向こうに建礼門院侍女の墳墓  階段を登らないとお参りできません(翠黛山)

 
                   四方正面の庭        三段の瀧「玉だれの泉」             


66段の紅葉坂      苔むした茶室入口      お茶室「狐曇」

 
御茶室「狐曇」


            客殿正面


冬至の日には「ん」の付く食べ物を食べると運が付くと言い、
かぼちゃ(なんきん)を食べるようになったと言われます。
また、冬至にかぼちゃを食べると無病息災の御利益があるとされています。
寒い冬にかぼちゃのあたたかな甘みで、皆様ほっとして頂ければ幸いです。
                         (寂光院歳時記より)
かぼちゃは、広い客殿で、ゆっくりと美味しくいただきました。


  床の間の掛け軸「寂光」    平家物語巻一の屏風と安徳天皇の人形


百足封じの護符
山科にある天台宗門跡寺院「毘沙門堂」の       
護符が柱に貼ってありました。            
百足(ムカデ)は毘沙門天の使者(眷属)とされており 
人間に危害を加えるムカデたちを           
 毘沙門天の力で封じ、厄や災難・害虫の侵入を防ぐと言う。

護符を開けると…こうなっているらしい
「毘沙門堂」を真ん中に、
右に「牛王」、左に「宝印」
百足が彼方此方に…百足文字?

(お参りされた方のブログ転用)
 

寂光院は、余りにも有名ですが通称です。
通常は寺院の塔頭として院があるのですが、「清香山 玉泉寺」の子院だそうです…?
「鳳智松殿」という名の宝物館&売店があります。
焼失を報じる、京都新聞が展示されていましたが、写真に立ち尽くす関係者…
天台声明の第一人者故天納傳中大僧正の姿もありました。
(客殿の「寂光」は大僧正の揮毫かも…)

京都・大原・寂光院・建礼門院

建礼門院徳子大原西陵(宮内庁管轄)
      
五輪の塔の仏教式御陵

「納めの地蔵」

2016年12月26日 | 日記
歳末になるとお寺では様々な法要が営まれます。
12月23、24日「鈴虫寺」では、「納めの地蔵」、厄除け大根焚きの振舞いがありました。
終い地蔵は24日と記されてましたが、雨が断続的に降る中23日に行ってきました。
阪急桂駅で嵐山線に乗り換え「松尾大社」出下車。
駅のパンフレットによれば、徒歩15分程度なので、傘を差しながら歩きました。
誰も歩いてこないので、???標示に従い西芳寺川に沿って行くと「駐車場満車」
バスのロータリー…市バス、京都バス利用だと歩かなくて済みました。
山門までの階段は長蛇の列。
長蛇の列は、お堂内での説法が入れ替わりで行われるためです。
拝観料を払うと、大根焚きの券が付いてました。
ご朱印をいただき、お茶と「寿々むし」銘のお菓子の準備された長机の席に案内されました。
本堂内は参拝者、鈴虫の声で満ちています。その中で、ユーモアたっぷりの法話。
鈴虫は、約6000匹?四季を通じて「音色を奏でる」ように飼育されているとのこと。
厚着での参拝者に室温25度は暑いぐらい…

「鈴虫寺」のおさらい。
宗派 臨済宗永源寺派
山号 妙徳山
寺号 華厳寺 華厳禅寺
本尊 大日如来





 
「鳳潭でら 華厳寺」の石標 『華厳寺開創・鳳潭上人」のお寺』 階段は60段余あるそうです…

     





「納め地蔵」の大根のお祀り  大根には地蔵菩薩の種字(梵字)「か」と書かれています


本堂の茶菓接待長机に並べてみました
紫蘇の刻みこまれた茶菓銘「寿々むし」 頂いたお茶の茶碗絵柄

  
大根焚きの振る舞い

   
「南無幸福地蔵大菩薩」  大根が供えてあります      わらじを履いたお地蔵さま
鈴虫寺の石段を上った山門脇には、「幸福地蔵さん」が立っておられます。
普通仏様は、皆はだしですが、「幸福地蔵様」は日本で唯一、わらじをお履きになられています。
これは、お地蔵様が皆様の所まで願いを叶え、お救いの手をさしのべるために、
歩いて来てくださるからなのです。
鈴虫寺のお守り・お札は幸福地蔵様の化身、お地蔵様のお姿が入っておられます。
お守りは持っておられる方を守ってくださるもの、だから、常にお傍に身につけてください。
(鈴虫寺HPより)
「幸福」のお守り…特に女性に人気があるようですね。


御朱印「妙音大士」妙なる音の菩薩
右上の長角形印にも「妙音観世音菩薩」
「妙なる音色は 教えの音」「妙音洗心」
…これぞ妙音「鈴虫寺

華厳寺「鈴虫寺」境内写真など
  
山門             扁額「妙徳山」

  
本堂 「大日如来」「不動明王」など安置    本堂の扁額「妙   」

 

 

  
京都市内を眺望








終い弘法 〜追加〜

2016年12月26日 | 日記
我々、一般人には珍しい「事」だと思います…
是非はともかく写真の中に一枚ありましたので。
御影堂の西側に、「加行道場」があり、その傍に「水行場?」がありました。
塀で囲われていますが、隙間から『水行次第』が見えました。
水行の際、唱えられる「真言」が記されており、厳しい修行を垣間見た気持に。

 


 水 行 次 第
先 心経
次 慈救咒 廿一反
次 軍荼利咒 廿一反 
   オン アミテイ ウム ハッタ
次 水天咒 廿一反
   オン バロダヤ ソワカ
次 自坊本尊真言 廿一反 
次 大師宝号

( 参 考 )
*不動明慈救咒
   ノウマク サマンダバザラダン センダマカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン
*大師宝号
   南無大師遍照金剛

12月21日は「終い弘法」

2016年12月22日 | 日記
京都では、毎月21日は「弘法さん」、25日は「天神さん」で賑わいます。
特に、12月は「終い」と冠され、歳末の風物詩となっています。
終い弘法には、毎月の露店に加え、お正月用品の店も見られます。
時々、縁日に出かけ、諸堂の参拝もするのですが、
今回は、初めて「御影供」にお参りしてきました。

通常ですと、御影堂(大師堂)で法要が行われ、一般の者もお参りできるのです。
現在は、修復工事中で、向いの仮御影堂として「大日堂」で行われました。
堂内には、大日如来座像と弘法大師座像が祀られていました。
僧侶は二班編成?多くは大日如来像、五名が弘法大師像。(御影堂での法要は知りませんので…)
10時から小一時間の読経が行われ、「理趣経?」分ったのは最後の「般若心経」だけ…。

その前に…東寺の正式名称って知っていたつもり…「教王護国寺」…。違いました。
正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院
あるいは「弥勒八幡山総持普賢院」とされ、
宗教法人としての名称は「教王護国寺」です。
創建当初の名称は「東寺」
通常は、真言宗総本山 東寺〔教王護国寺〕と言ってますが…知りませんでした。

 
山門の正面に金堂      金堂 
 

上の小窓、大仏殿では観想窓… 
   
『東寺は、平安京が開かれた後、796年創建金堂から諸堂が建てられた、朝廷が造営した官寺。
1486年文明の土一揆で焼失。桃山時代になって100年振りに再建。
宋の様式を取り入れ、天竺様と和様を合わせた桃山時代の代表的な建物。
屋根の中央の切り上げは、東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られる形。
小屋根の下にある南開の扉は、法会の時開けられ、散華したとも言われています』(東寺HP参考)


  
大日堂

   
修復工事の為、覆われた御影堂                  柱のご宝印

 
工事用の足場は、伝統的な「丸太に鉄線」で組まれていました。

  
毘沙門堂    扁額「元羅城門本尊 兜跋毘沙門天王」   毘沙門天の真言

 
本尊毘沙門天像(横の障子が開いていたので…)
国宝に指定されているこの兜跋毘沙門天像は、
かつて羅城門の楼上に安置されていたという。

兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)と呼ばれる特殊な像容です。
金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、      
腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被る。  
持物は左手に宝塔、右手に宝棒または戟で、見るからに異国風の像。 
また、邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の     
上に立つ姿だそうですが、見えません。              
(右のウイキペディアの写真は持物の戟もなく、異なっていると思えますが…)

午後からフォーラム「羅城門〜未来への遺産を考える〜」に行くので、本尊を拝観し元気が出ました。

法要の後、11時から法話がありましたので拝聴してきました。
講師は、教学部長の山田忍良氏で、講座プロジェクト・法話の第24回をかぞえるそうです。


12月の「お大師さまのおことば」No73
『難信のことは 諸仏の境界(きょうがい)である』(付法伝第二)
信が難しいのは、仏の世界の問題だからである


《 法話の資料 》
  
『難信のことは 諸仏の境界(きょうがい)である』

 
『南無大師遍照金剛』 

 
『成道会』
 
 
『仏説摩訶般若波羅観蜜多心経』

講師のお話しはとても分かりやすく「これぞ法話」と耳を傾けました。
資料も解りやすく作成されていますので添付しました。
(小さい写真をクリックすると拡大しますので読みやすいかと…)
来年は、時間が取れれば、引き続き聴聞したいと思います。

おまけ(法話の一部)
名古屋製酪株式会社・めいらくの「褐色の恋人・スジャータ」の
命名は薬師寺管長の故高田好胤さんだったんですか…
苦行の末、断食で倒れていたお釈迦さまに乳粥を与えた、村の娘「スジャータ」のお陰。
その結果、元気を回復し、遂に成道に至ることができた。
お釈迦さまの命を救った「乳粥」の主人公スジャータ?が、商品に因んで付けられたと言う、
奥の深い話もありました。





東大寺開山堂ほか秘仏開扉

2016年12月17日 | 日記
12月16日、開山堂 良弁僧正座像、俊乗堂 重源上人座像、法華堂 執金剛神立像が
一度に拝観できる秘仏開扉がありました。
併せて、行基堂、念仏堂も拝観してきました。

「開山堂 良弁僧正座像」
   
良弁僧正座像の厨子には種字「大日如来」が掲げてありました。  
また、背面には良弁の弟子「實忠和尚」の像が安置されていました。     
そこで気が付いたのですが…                      
座像の前には水の入った多くの皿状の容器に、五枚の樒が供えてありました。  
その横にも、葉の付いた樒の枝が沢山置かれていました…           
意味はよく解りませんが、樒は一枚ずつにして「散華」にするとか…。     
「枝散華」といい、右手で葉を摘み取り、右前方へ散らす作法とか…。      
二月堂のお茶所の掲示です。お水取りでも五枚樒が毎日取り換えて供えられると…
       


     開山堂入口         火の粉を散らした後の「お松明」


お堂入口 


開山堂傍の「糊こぼし」の銘椿
お水取りの二月堂、不空羂索観音の法華堂(三月堂)に面し、三昧堂(四月堂)に隣接しています。


 「糊こぼし」と名付けられた奈良三銘椿の一つが開山堂の傍に植わっています。            
○東大寺開山堂「糊こぼし椿」… 紅色に白い絞りを入れた大輪。別名「良弁椿(ろうべんつばき)」  
○白亳寺「五色椿」… 紅・白・桃・絞り・大絞り等に咲きわける。               
○伝香寺「散り椿」… 花が若いうちから一枚づつ花びらを散らす。別名「武士椿(もののふつばき)」

通称「鐘楼の丘」には、「鐘楼」を囲むように「俊乗堂」、「行基堂」、「念仏堂」があります。
「俊乗堂 重源上人座像」
   

  



 
俊乗堂には、愛染明王座像、阿弥陀如来立像も安置されています。

「行基堂 行基菩薩座像」   
   
元は俊乗上人の御影堂。元禄時代に上人像を、俊乗堂に移したので、
仏師賢慶の造った、東大寺創建に貢献した行基菩薩坐像を安置。  

「念仏堂 地蔵菩薩立像」

念仏堂は、元は地蔵堂と言われ、ゆるやかな勾配の屋根をもち、
朱の柱と扉、黒い格子戸、白壁の美しい姿の建物である。   
鎌倉期の建築であるが、創建の由来は不明。         
本尊の地蔵菩薩像と同じ時期に建てられたと考えられている。
本尊の大きな地蔵菩薩が一体安置されているだけのお堂です。       

「鐘楼」・「梵鐘 (別名;奈良太郎)」
  

 

東大寺の鐘は、宇治の平等院の鐘、大津の園城寺の鐘と共に
「日本三名鐘」の一つに数えられます。
「形の平等院、声の園城寺、勢いの東大寺」とも形容されています。          
また、京都の知恩院、京都の方広寺の梵鐘と共に    
「日本三大梵鐘」の一つでもあります。         
さらに、「奈良太郎」と称され、高野山の根本大塔の「高野次郎」,吉野の世尊寺跡の「吉野三郎」と共に
「日本三古鐘」の一つです。


「法華堂 執金剛神立像」
 

  


執金剛神立像は不空羂索観音像背後の厨子内に北面して安置されている。
神像だからでしょうか狛犬、鏡も飾られていました。         
北壁に拝観用に段が設けられ、目線が変わるとまたその厳しい顔が一層感じられます。

 

  

 


今回の秘仏開扉で、「?」
同じ東大寺で高名な僧侶なのに…良弁僧正、行基菩薩、重源上人、公慶上人、實忠和尚などと
呼称が異なるのか?

Wikipediaなどで調べました。
律令制では、僧綱として僧正、僧都、律師の3つがあり、僧正と僧都の2つには大・少の別がある。
また後年にはそれぞれに権官が設置され、十の位が成立した。
僧正には大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つがあり大僧正が僧官制の頂点に位置づけられた。

上人(しょうにん)とは、「仏教における高僧への敬称であり称号」。
諸国を回って民衆教化にあたった僧に対して「上人」あるいは「聖人」と呼ぶようになった。

和尚(おしょう、わしょう、かしょう)とは、「仏教の僧の敬称」。
また、「御僧」を表現するのに、特定の宗派で「わじょう」と言われているのを僧のことだと思い、
それが一般化して「おしょう」と言われるようになったという説がある 。

呼称が異なるのは、表示系統が異なっているのですね。
上人、和尚は僧の敬称であり、それぞれ僧位、僧階と統一した表現ではないと解りました。
僧のそれぞれの事績に応じた呼称で表示されているのかもしれません。
因みに、行基菩薩の「菩薩は諡名」で、僧位は「大僧正」(日本で最初)。
今でも、東大寺管長の層位は、「大僧正」だそうです。
調べたついでに…
和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ)
和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など
和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 
和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など
和闍(わじゃ)
天台宗では遷化(亡くなること)された時は和尚(おしょう)から和尚(かしょう)へと呼び方が変わる。

東大寺の「四聖(ししょう)」
東大寺建立における,本願の聖武天皇,開基の良弁(ろうべん),勧進の行基,導師の婆羅門僧正菩提僊那の総称。

        当然、堂内、仏像撮影は禁止ですので、拝観の手引を貼り付けました。
        小さな窓は字が読めるように、クリックすると拡大します。

橿原市 市政60周年記念「重文特別公開」

2016年12月12日 | 日記
橿原市市政60周年記念「重文特別公開」
 


橿原市市政60周年記念「重文特別公開」があるとのことで、近鉄「大和八木」まで出かけました。
大和の国には、総国分寺として「東大寺」があるのに橿原市に「大和國分寺」があった…。
無住職の寺に重要文化財があり、地域の小網町文化財保存会で管理されている「正蓮寺大日堂」…。


「大和國分寺」
宗派 浄土宗
山号 勝満山
寺号 満法院国分寺
本尊 阿弥陀如来坐像 (脇侍 観音・勢至両菩薩坐像)

  
八木町の細い路地を入ると山門       盤水と彫られた手水舎

  
鐘楼           撞木           収蔵庫(十一面観音立像安置)


本堂は明治時代の小学校の前身である「培擁社」(ばいようしゃ)として使われていましたが、
H15年に焼失し、H25年再建され、未だ木の香りが漂う。
今回、特別公開された、重文の木造の「十一面観音立像」は、収蔵庫に保管されていたため難を免れた。

   
ご朱印と添付されていた「十一面観音立像」の解説

公開で頂いた「十一面観音立像」の解説
 

公開で頂いた、十一面観音菩薩の部分の解説
 
 

収蔵庫の階段を上って観音様とご対面。見事なプロポーションです。
寄木や金銅のお姿にない暖かさがあるようで…。
県文化財保存課の方の仏像の見方の、説明がありましたが、
右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩ですが、
本体の一木以外の、手、足は補修され、持物の錫杖などは後附けらしい。また、当初から長谷寺様式かは不明。
頭部の十一面も、法隆寺では、九面、長谷寺様式では十面が多いとか興味のある説明を受けました。
 法隆寺九面観音   本面1面と頭上に仏頂面1面、天冠台上に慈悲面、瞋怒面、牙上出面各2大笑面1の8面 計九面
 国分寺十一面観音  本面1面と天冠台上に慈悲面、瞋怒面、牙上出面各3大笑面1の10面 計十一面
           
最後に付言された言葉が気になりました。
文化財保存と言う側面と本来の信仰対象としての「仏さま」の安置の在り方は難しい問題。
収蔵庫で鍵をかけ厳重に管理される「仏像」、蝋燭、線香もなく拝めない「仏さま」。
地域の、信徒の方達の眼にふれられる機会を作っていただけたら…と。
確かに、昨年来、仏さまや建物に油のようなものを掛ける事件が起こりました。
堂内に素のお姿で安置せず、ガラスケースや、収蔵庫に入れて管理しておけば被害に遭いませんが…。
また、最近は火災、台風、地震等の自然災害もよく発生します。
仏さまを如何にしてお守りするかが、人命を守ること共に大きな課題ですね。


正蓮寺大日堂

正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂
普賢寺は今井を中心として南大和に勢力を張っていた浄土真宗に圧倒され、
僅かに留守居僧を置いて細々と法燈を伝えていたが、明治の廃仏毀釈により普賢寺が廃絶。
明治7年には無住となり、仏体は隣接する真宗興正派正蓮寺に合祀し、大日堂は一応売却の形。
大正8年正蓮寺より「明細帳記載漏」の故を以て脱漏編入願が提出され、大日堂も又正蓮寺の管理に帰した。
隣接する正蓮寺の名前が付いていますが、実体はお寺ではなく、行事にはお寺に導師を依頼されているとか…。
平成23年「小綱町文化財保存会」が隣接する「入鹿神社」と共に保存管理を行っておられるそうです。
境内は地元の方々が清掃、整備に努められているそうで、美しく保たれていました。

 


「大日堂」、「大日如来」とも国指定の重要文化財ですが、「堂内の写真撮影自由」という珍しいケースです。





内陣            大日如来・正面       大日如来・右斜め


厨子左扉画・蓮          厨子右扉画・蓮


持国天           多聞天
 

地蔵菩薩          弘法大師


「ねこ涅槃図」 
涅槃図に猫が画かれない諸説がありますが、
左下に「ねこ」が画かれた、珍しい涅槃図。


さらに珍しいのが、日本唯一の「入鹿神社」
蘇我氏縁のこの地域に、元は普賢寺廃寺の鎮守社であったといわれていますが、
正蓮寺大日堂と同じ境内にあります。
御神体は「蘇我入鹿」と、「蘇我氏逆臣説」により「素戔嗚尊」との合祀。
 入鹿大臣・・木造座像、丈一尺 作者・年代不詳
 素盞鳴尊・・木造立像、丈一尺 作者・年代不詳

 小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した「宗我都比古神社」があり、蘇我氏の始祖を祀っている。

 


入鹿神社・鳥居            扁額「入鹿神社」
鳥居を潜って正面に「入鹿神社」、左方に「正連寺大日堂」。
何か…神社の境内に、お堂があるような感じがします。


拝殿

 
本殿


板絵の随身・左      拝殿・正面     板絵の随身・右


狛犬・左      狛犬・右


棟瓦に龍・左方     正面・口を開けた龍    棟瓦に龍・右方


弁財天の祀られた祠の池の奥に満開の「四季桜」

  
寺社案内標       近くに飛鳥川が流れています  

おまけ

橿原市の消火栓の蓋

京都冬の風物詩 「大根焚き」

2016年12月11日 | 日記
京都の冬の風物詩の一っとして「大根焚き」があります。
12月7、8日は西陣千本釈迦堂(大報恩寺)のお釈迦様が悟りを開かれた「成道会」.
12月9,10日は鳴滝了徳寺の「報恩講」。
中風封じ・諸病平癒・健康増進祈願の「大根焚き」が振る舞われます。

千本釈迦堂(大報恩寺)
宗派 真言宗智山派
山号 瑞應山
寺号 大報恩寺
通称 千本釈迦堂

 

 


ご朱印


都の大部分を灰燼に帰した応仁の乱の「西陣」にあって、
戦火を潜り抜けた貴重な、京洛最古の国宝の本堂の柱には刀傷が残っています。
「霊宝殿」を拝観すると、重文・快慶作の「釈迦十大弟子像」十軆、重文・定慶作「六観音像」六軆など
素晴らしい仏さまが揃って収納展示されています。

大根だきは、大報恩寺の第三世鎌倉後期に慈禅上人が始めました。
お釈迦さまが悟りを開いた12月8日の「成道会(じょうどうえ)」に合わせ、
4本の大根を縦半分に切って8本とし、切り口に釈迦の種子(梵字)を書いて供え、
参詣者への「悪魔除け」としてふるまったのが起源とされています。
今では、断面に釈迦・不動尊・観音の種字(梵字)を書いた約5千本の大根が、参拝者に振舞まわれています。境内西側に直径1mを越す大鍋が幾つも置かれ、大根を炊く香ばしい匂いが立ち込めていました。


案内の幟と看板


種字の書かれた生大根       大きな釜       接待されている信徒の方々

       
         大根炊き引換券(有料)   お揚げが入った大根焚き    「合掌」と書かれた箸紙


大根の断面に記されている種字の三仏



了徳寺
宗派 浄土真宗大谷派
山号 法輪山
寺号 了徳寺
通称 大根焚寺

 


毎年、12月9日10日の大根焚きの行事で知られています。
その由縁は、鎌倉時代の建長4年(1252年)、親鸞が愛宕山中の月輪寺よりの帰途、
鳴滝で説法をし、それに感銘を受けた里人が、他に何ももてなすものがないので、塩炊きの大根を馳走した。
それに応えて、親鸞はすすきの穂を束にして筆代わりとし、「歸命盡十方無礙光如來」の十字名号を書いて、その礼とした。
この故事に因んで行なわれる「報恩講」の通称が、大根焚きである。
寺の前庭には「すすき塚」がある。

 
案内の幟      案内の掲示 

 
了徳寺の山門    「大根焚寺」の石標

 
亀岡市篠町の青首大根約3,000本

  
2時間近くかけて、湯がき、炊き込み

 
竈で「焚く」薪             俎板 

  
大根焚きの由来       箸紙「なつかしや きょう鳴瀧の 大根焚」
                 (奈津可しや けふ鳴瀧の 大根焚)

 
大きく輪切りにされたホクホクの大根とお揚げが一枚入った大きな大根焚き

本堂の奥に行くと、庭を見乍ら、また庭の床几でゆっくりと大根が頂けます。
本堂の、本尊阿弥陀如来像を中央にして、鎌倉時代の仏師湛慶の作とされる親鸞聖人坐像が安置され
大根焚きがお供えされており、村人のもてなしのお礼に記したという、
すすきの穂を束ねて書いた「すすきの十字名号」の軸が架かっていました。

唐津くんち

2016年12月06日 | 日記
『唐津神社の秋祭り「唐津くんちの曳山(ひきやま)行事」を含む
18府県33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の補助機関が無形文化遺産に登録するよう勧告しました。
11月2日の宵曳山(よいやま)から始まる唐津くんち…』
既に承認指定されていた、祇園祭、日立風流物の2世界文化遺産を含め、今回の33件が内定。
包括的に「日本の祭」として、「唐津くんち」も曳山の一つとして指定されました。

ブログの整理ができないままであった「唐津くんち」世界文化遺産に内定…
遅ればせながら、雑記帳にまとめました。

今回の佐賀旅行で、11月4日が「唐津くんち」の最終日だったので「唐津」に立ち寄りました。
旅行をすると「城」があれば見たくなり、今回も先ず「唐津城」を目指しました。
京都発6:56のぞみ95号で博多へ。
博多発10:03高速バス「からつ号」で唐津へ。
到着したのが11:40頃
唐津くんちの交通規制の関係で、バスはお城の近くが終着駅。

   
唐津城へは城内橋(歩道橋)が架かっています。一帯は「舞鶴公園」
お城を中心に唐津湾の左右に、虹の松原、西の浜松原が広がり、
砂浜が翼を拡げた鶴のようにも見えるところから、
「唐津城」は、別名を「舞鶴城」と呼ばれています。

  
天守閣。残念ながら平成30年まで修復整備中で天守閣には登れませんでした…。
天守閣第五層の展望室から唐津湾を望み、鶴翼の景色を見てみたかった。 

  
名護屋城から移設の「籏竿石」 唐津城マスコット「唐わん君」 斜行するエレベータで天守閣入口へ
斜行するエレベータは初めて乗り、奇妙な感覚でしたが、高齢者には有難かった。(70才以上無料)

  
石垣の道へ   二の丸跡の「石垣の散策道」 早稲田佐賀中学・高校から天守閣を望む

早稲田大学の創設者大隈重信の出身地である佐賀県に、
早稲田大学の系属校として中高一貫校を設立しようとOBや関係者らが計画。
(大隈記念・早稲田佐賀学院)
早稲田大学の創立125周年記念事業として2010年(平成22年)4月に開校。

  
「時の太鼓」櫓          二ノ堀           二ノ堀橋 

 
白く聳える唐津神社の一の鳥居  扁額「唐津神社」

 
唐津神社の二の鳥居  扁額「唐津神社」


 
 唐津神社の案内板 (小さい写真をクリックすると拡大します)

 
唐津神社の本殿           献酒

唐津神社の由緒
  

 


唐津神社のご朱印

唐津くんちは「唐津神社秋季例大祭」です。
11月2日が宵山、3日がお旅所神幸、4日が町回り(翌日祭)
お旅所神幸の際、御神輿のお共をして、西の浜のお旅所に、囃子を奏でながら向かいます。


唐津くんちの豪華な「漆の一閑張り」で造られた14基の曳山紹介(パンフレットより)
 

 

  
唐津街道、肥後堀に面し、大手口西城内近くに位置する唐津市役所

市役所前米屋町通りに14基の曳山が勢揃い
  

  
曳山の中央部の垂れ幕の中で鉦、笛、太鼓の囃子が奏でられます


 
各曳山町の揃いの「法被」(町人の祭の名残で火消し組装束)格好いいTシャツも売ってます…


1:30から「1番曳山赤獅子」を先頭に城下町廻りが始まりました。
「エンヤー!エンヤー!ヨイサ!ヨイサ!」の威勢の良い掛け声。
14基の山が、町中を走り廻るそうですが…
移動の電車の時間の都合もあり、スタートだけしか見られなかったのは残念。
いくつかの曳山はお清めの意味も含めて、大量の塩をまきながら巡行します、
が、武田信玄の兜では戦国時代に上杉謙信に塩を送ってもらった話に基づき
塩を大事に扱うために、塩は一切撒かないそうです。
それにしても、清めの塩と言うより、「塩の雨」程の豪快な撒きっぷりでした。

  
JR唐津駅北口     駅前の唐津焼で作られた唐津くんちの一番曳山赤獅子

おまけ

マンホールの蓋

生駒聖天 「開運厄除け 聖天さんの大根だき」

2016年12月01日 | 日記
京都では、千本釈迦堂、鳴滝了徳寺で有名な「大根炊き」がありますが、
生駒の寶山寺でも「開運厄除け 聖天さんの大根だき」があると聞き行ってきました。
「12月1日0時〜午後1時」と書かれていたので…?
要するに午前0時からと言うことで驚きました。
念のため電話で確認すると、
「夜が明けたら、できるだけ早い内にお越しください。
午前中でなくなりしだい終了させて頂きますので…。」
車でナビの第一駐車場を目指したのが10時。
生駒のケーブル駅の横の坂道を登って行くと
駐車場近くで渋滞。時間を気にしながら待つことしばし。
ガードマンが「第二駐車場へ…」の声で渋滞の列から脱出。
そんなに離れていないのに、楽々駐車できました。10時30分頃。




惣門

 
「歓喜天根本霊場 生駒山寶山寺」「真言律宗 大本山 生駒山寶山寺」

 
鐘楼を左に折れ、階段を昇ると中門

大根だきが頂けるのは、中門を入って左手、水屋、茶所の奥、庫裏の前にテントが張られていました。
  

 
大きな鍋釜から長い柄の付いた酌で大きな容器に…
係りの方が取り分け皿に、味噌の係りの方が掛て…。

 
大きな下ごしらえと煮込み用の二っの鍋釜と、大きな釜蓋(二つに分れています) 

 
無事、頂くことが出来ました
味噌だれの大根、いわゆる田楽…は、柔らかく炊けて美味しかった。

「大根は体の毒を消し去り、食べると中風にならない」ともいわれる。
宝山寺では大きな釜で輪切りにした約8000食分の大根が炊き上げられたそうです。
大根は大釜の中で1時間炊いた後、大きなダシ袋を入れ清酒を注いだ隣の大釜で、
さらに1時間半炊くと出来上がり。
これに秘伝の甘い「宝山寺みそ」をかけて食べるとのこと。

参詣作法としては、お詣りしてから、「大根」を頂くのでしょうが…お詣りが後になりました。

  
本堂(不動堂)     扁額「阿遮羅場」(不動堂を意味するそうです)

  
「歓喜天」の扁額の架かった鳥居と狛犬 

  
聖天正殿 外拝殿
 『歓喜天讃徳偈』
      「大自在尊観世音 双身隋類度衆生」
      「感応道交難思議 是故我礼歓喜天」
 
 
拝殿前の巾着の賽銭箱     線香所前の木製の巾着の賽銭箱



境内の諸堂塔は、線香の煙が絶えることなく漂っています。


お詣りを済ませて、水屋、茶所辺りを通りかかると、
寺男の方が「間もなく終了します…」の声。11時30分頃。
それでも、続々と善男善女が参詣に登ってこられます。
「エッ…もうお終い?」残念そうな声が彼方此方から。
「去年より早く無くなってるワ…。」
「今年は大根高いからかナ…少ないのかも?」との声も。
いえいえ、「現世利益のお寺」と言われ、お詣りの方が増えたのでは?

境内には迎春準備の大注連縄が準備、飾られていました。
   

  
一の鳥居        扁額「歓喜天」     鳥居から参道を振り返る
鳥居の古い注連縄が外され、新しい大注連縄を吊り上げるロープの準備もされています。

参道には、「永年浴油」供養の石碑群と驚きの金額!

俗に言う「永代供養」ですが…
『聖天様には「浴油祈祷」と言う作法があり、御尊像に聖油を灌浴して、供養し、祈念することである。
多羅(たら、すなわち鍋)という金属製の器に、清浄な胡麻油一升(容器によって異なる)を入れ、
その中へ、白檀(びゃくだん)、丁字(ちょうじ)等の妙香を投じて香油とし温めて、
その聖油中へ御尊像を立て、金属製の杓(しゃく)にて至心に御真言を誦し、
聖天様と自分は不二一体であるという、所謂神人統合の精神になって、御頭から油を灌ぎ奉るのである。』
                                     (詳しい方のブログより)