パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

京都出町・妙音堂

2022年05月19日 | 日記
出町と言えば、高野川と賀茂川が合流地点で水の都を象徴する光景が見られます。
子供の頃から見覚えのあるのが、種苗園芸店と小さなお堂。
散策の途中、立ち寄りました。

  
賀茂川上流             鴨川下流

 
左 賀茂川 右 高野川 合流点・三角州(デルタ)

  
高野川欄干      賀茂川・鴨川の架橋名    「鯖街道口」石標


「青龍妙音弁財天」

宗派 臨済宗相国寺派 大本山相国寺塔頭 大光明寺飛び地境内
 本尊 「青龍妙音弁財天画像」(伝空海筆)           

 

『 本殿の本尊は青龍妙音弁財天画像で、西園寺公衡(1264~1315)の長女西園寺寧子(大光明院殿・広儀門院)が、
第93代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、   
光厳、光明、崇光天皇と伝承されて来た霊像である。                                
その後享保年間、伏見宮家第14代貞建(さだたけ)親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、  
同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、         
再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。                                     
世に伏見御所の弁財天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の勝益をもたらすものである。』    

 


本堂 本尊 弁財天像


本堂前立の「己」

  
六角堂(本堂裏)
本尊 絹本着色「青龍妙音弁財天画像」安置
(本尊画像は御朱印左下にうかがえます


御朱印.


「京洛七福神」の一つ 弁財天

 
境内には、豊川稲荷陀枳尼天が祀られています


弁財天はインドの神様で仏教の守護神(仏様)ですから、弁財天がまつられる所は、
お寺のはずです。でも、妙音弁財天の正面には鳥居があります。        
お寺と神社のどちらなんでしょうか。 正解は「お寺」です。         
現在、妙音弁財天は相国寺の飛び地になっていて、入口にこそ鳥居がありますが、
中は仏教式になっています(鈴でなく鉦を鳴らして拝む。線香台があります)。
ただし、弁財天は、一般的に仏教と神道が混合した形で祀られていて、     
   明確に線が引けるものではありません。  (出町観光ページより)          


  
六角堂本尊「青龍妙音弁財天画像」 本堂本尊「弁財天像」
(ブログの転載画像のため不鮮明ですが・・・)


掲額の相国寺有馬頼底管長による御朱印

参考 賀茂川鴨川架橋名前
柊野堰堤 庄田橋 志久呂橋 賀茂川通学橋 西賀茂橋 御園橋 上賀茂橋 
北山大橋 北大路橋 出雲路橋 葵橋 出町橋
賀茂大橋 荒神橋 丸太町橋 二条大橋 御池大橋


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押熊八幡神社

2022年05月17日 | 日記
平城ニュータウン・旧押熊地区の在所にある鎮守に祀られているのが
「押熊八幡神社」で、初詣には毎年参拝にでかけます。
久し振りに散歩がてら歩いてみました。
誰も居ない境内は、掃き清められ、野鳥の鳴き声以外は静寂そのもの。


境内付近案内図


参拝入口と狛犬

 
狛犬

 
屈強そうな狛犬


扁額「八幡宮」 八幡の「八は鳩」


本殿正面と狛犬


扁額「八幡宮」 

 
狛犬

 
狛犬


本殿 御祭神 誉田和気命

 
三社 御祭神 武甕槌神      祓戸神
                           木之花咲耶姫命                          市杵島姫命
 

押熊八幡神社「御神符」



押熊八幡神社に隣接して「忍熊王子、麛坂王子舊跡地」があります。    
おそらく、「押熊」の地名のもとになった「忍熊王」縁の場所なのでしょう。
近くに神功皇后の御陵が、八幡神・応神天皇を祀る神社境内に隣接するという、
皇位を巡り戦い、非業の死を遂げた「王子の舊跡地」があるのも皮肉ですね。
兄は大阪市北区の兎我野、弟は滋賀県大津市の瀬田で斃れたのに      
「押熊」が縁の地とは。                        



   

  


「説明板」によると
『日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は
彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。
 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子
(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と
共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、
皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)
に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。
 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、莵道(宇治)まで退脚した。                     
一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、莵道に至って河の北に布陣、
戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き近江との国境の             
逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入 水、亡くなられた。                                      この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い 人物、
王の一人であったと考えられる。 そして、
この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を 含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。                 
古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。             
忍熊王子神社の祭礼は4月18日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、         
お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」と言って農作業を休み、            
ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。              
「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里の所に         
「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の            
地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。             
なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王            
にちなんでつけられた名称であろう。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白峯神宮・(京都非公開文化財特別公開)

2022年05月10日 | 日記
白峯神宮は「保元の乱」に敗れ、讃岐に幽閉された崇徳天皇を祀る神宮です。

崇徳天皇については、次の3か所が聖地とされています。

陵(みささぎ)は、宮内庁により香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は方丘。
• 所在地: 香川県坂出市青海町字御山2677番地

香川県の中央に位置する連山五色台の西側、白峰の北側中腹標高260m地点に位置し、
四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接している。

白峯陵では毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀が執り行われる。
崩御地である四国・讃岐に所在し、土御門天皇火葬塚を除けば四国で唯一の天皇陵である。
また、配流先で造営された陵墓のうち、
宮内庁に天皇陵として治定されたのは
白峰陵と兵庫県南あわじ市の淳仁天皇淡路陵の2か所のみである。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

崇徳天皇御廟
・ 所在地: 京都市東山区祇園町南側
毎月白峯神宮の神官による月次祭が執り行われている。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され悲嘆の日々を送っていたが、
血書をもって都への還幸を願ったが、聞き入れられず、46歳で崩御された。
上皇の寵愛を受けた阿波内侍は上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、
亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられている。

この頃、京では異変が相次ぎ、崇徳上皇の祟りと恐れられたため、御影堂や粟田宮を建て慰霊したが、
今では廃絶し、この地のみが上皇を偲ぶ御廟となっている。



白峯神宮
・ 所在地 京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町


孝明天皇は幕末の国家動乱を避けるため、崇徳天皇の神霊を京都に奉還し鎮魂する白峯社の創建を決めた。
父帝の遺志を継ぎ、明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して
勅使を讃岐に遣わし、讃岐から京都へ、700年ぶりに崇徳天皇の神霊を迎えられた。
(明治6年(1873年)第47代・淳仁天皇の神霊を淡路から迎え合祀)

昭和15年(1940年)官幣大社に昇格し「白峯神宮」となった。

春の「京都市非公開文化財特別公開」で初めての公開とのことで行ってきました。蹴鞠、雅楽器、刀剣とともに
「崇徳天皇肖像画」一幅、「随身 源為義・為家肖像画」二福を拝観しました。
但し、残念ながら、実物は京都国立博物館で修復中とのことで、実物の写真と複製の軸が床の間に飾られていました。


実物の写真


複製の軸

(撮影禁止のため画像は他の方のブログより転載)

 
東京国立博物館蔵古画類集・崇徳天皇像画 

                      
白峯神宮蔵・随身源為義像画の実物写真?
従五位下左衛門大尉検非違使      


境内の「伴諸社」説明板  
闕腋(けってき)の袍・武官束帯
「為義(右 緋色装束・父)」
  「為朝(左 黒色装束・子)」  

随身の装束の色
 通常は、左手に黒色で四位以上の年配者、右手に緋色で五位以下が配置される。
 此処の随身像は右が父の為義で緋色、左が子為朝で黒色装束になっています。
   父為義の官位は従五位なので・・・?                   
 後からの作画と思われていますが、視線の方向から当初からの左右設定であろう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡京市・「走田(はしりだ)神社と勧請縄」

2022年05月04日 | 日記
寂照院の後方に寂照院の元鎮守「走田神社」がありました。




神社駒札
奥海印寺・長法寺両村の産土紙。式内社で、
「延喜式」にのる乙訓十九座の一つである。
祭神は天児屋根命・武甕槌神・経津主神・
姫大神の春日四柱を祀る。       
 かっては「妙見社」と言われ寂照院の鎮守
であったが、明治以後、正式に「走田神社」
と呼ばれるようになった。社名の「走田」は
初穂をつくる田を指し、早稲田の守護神であ
ったであろう。なお、正月十三日には御千度
詣りや弓講が行われる。また、明治初め頃ま
で同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)
の神輿がこの社まで渡御し、その道がまだ古
老たちによって語り継がれている。    

 
鳥居            扁額

  
御神木と二の鳥居    階段上から御神木を振り返る


 
「勧請縄」
朱色に塗られた鉄のポールに青竹をとおした「勧請縄」が架けられてている。
        重いほどびっしりと「榊の枝」を付けた「小勧請」が十二束吊り下げられる。        
 一束が一月分で十二束で一年分の悪霊、災厄を防ぐとの意味合いと考えられる。
      通常は悪霊、災厄を防ぐために「道切り」と言い、集落の境界等に架けられている。  

           近隣の松尾大社では「脇勧請」と呼ばれ、鳥居の原型といわれています。             
          例年、榊の束は十二個あって、榊の枯れ方により、月々の農作物の出来具合を占ったそうです。  
       榊が完全に枯れると豊作で、一部が枯れ残ると不作なのだとか。             
             

  
手水舎              拝殿             本殿

     
狛犬 方向を変えて


 
乙訓景観十景 「走田神社」

   
稲荷社・春日社・・・・・                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする