パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

眞如堂・虫干し会

2015年07月28日 | 日記
7月25日、大阪では天神祭ですが、今年は眞如堂の虫干し会に行きました。
「鈴聲山真正極楽寺」と言われてもピンとこない?のが「眞如堂」。
天台宗のお寺です。




興味のあったのが、

安倍清明の念持仏「不動明王」
この不動さんは、右手の剣を前に置いています



閻魔王宮伝来「結定往生之秘印」
閻魔王が安倍清明に授けたと言われる印
この秘印を押捺した護符を持っていると
閻魔裁きを受けずに極楽へ行ける?
「極楽行のパスポート」


御朱印


 *小さなパンフレットのスキャン写真はクリックすると拡大します。
 *パンフレットに記された「決定往生(けつじょうおうじょう)之秘印」は語で
 「結定往生之秘印」は、古来より真如堂に伝わる表記で意味は同じとのこと。





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大船鉾最後の辻回し

2015年07月27日 | 日記
2015年祇園祭山鉾巡行の掉尾を飾る「大船鉾」

四条新町で最後の辻回し


新町を下がって(南下して)いきます


無事巡行を終え、鉾町へ


2015年山鉾巡行フィナーレ、音頭取の晴れ姿



おまけ
山鉾巡行の終了後、
鉾の通行時に障害となる、通りに出ている信号機、道路標示などは、
可動式になっており、作業車が元に戻します。


 
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祇園祭後祭で間一発…

2015年07月27日 | 日記


祇園祭後祭、北観音山も四条新町での最後の辻回しを終え、
鉾町を目指して新町を上がって(北上して)行きます。

 
後わずか…最後の一本の電柱で鉾の庇が紙一重?の隙間で通過…


と思いきや鉾が僅かに右を向いていたのか後方破風屋根の角が…

 
屋根方は懸命に隙間を作ろうとしますが…


車方を中心に梃子で鉾を右に寄せ、隙間を確保


通過の際は、周辺で見守っていた人々から歓声と拍手、拍手。
全員で一致協力し無事、難局を脱し鉾町に辿り着きました。
お陰様で?スリリングな山鉾巡行を観させてもらいました。

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祇園御霊会

2015年07月26日 | 日記
京都では、祇園祭が終わると、本格的な夏がやってくるといわれています。
京都で育った私は、「祇園囃子」を聞くとテンションが上がり、毎年出かけています。
今年は、前祭が台風騒ぎもあり、後祭24日に出かけました。
とは言え、山鉾だけが祇園祭のように思っている人が多いので、原点に挑戦してみました。
以前、八坂神社の神幸祭に行ったことはありました。
祇園石段下に三基の神輿が据えられ、担ぎ手で埋め尽くされたパワーには驚きました。
今回は還幸祭。「神泉苑」と「又旅社(御供社)」の神事に密着して歴史の重みを体感してきました。

平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神(ぎょうやくじん)を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形で、貞観11(869)年に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行した時、これを鎮めるために、平安京の広大な庭園であった「神泉苑」で「祇園御霊会(ごりょうえ)」行われました。
疫病の退散を祈願して長さ2丈(6m)程の矛(ほこ)を,当時の国の数、66か国にちなんで66本の鉾を立てて、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って災厄の除去を祈ったということで、災厄を水に流して送り出そうという儀式であったようです。
10世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになり、祇園御霊会は祇園社の6月の例祭として定着し、天延3(975)年には朝廷の奉幣を受ける祭となりました。この祭が後の祇園祭です。
山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もあったようです。


「神泉苑」は東寺真言宗の寺院で、お寺の名称も珍しい「苑」です。



 
神泉苑のお出迎え               寺紋(龍に雨)


中御座神輿渡御


神泉苑前着座


神泉苑住職による表白、祈祷?

 

 
八坂神社宮司による拝礼


八坂神社又旅社(御供社)            又旅社と「オハケ」
三条黒門の「又旅社」は、四条新京極の「御旅所」に対しもう一つの御旅所と言う意味とか。
かって御供社と称し地名も御供町として残っているが、現在は八坂神社の境外末社として「又旅社」と言う。

 
            三本の御幣「オハケ」     クリックで拡大


中座神輿が三条商店街を東進、又旅社(御供社)へ

  
奉饌祭

   


中御座の神輿はこのあと、八坂神社に、また、神事は行われませんが、東御座、西御座の神輿も「又旅社」に渡御奉安の後、八坂神社に還っていきました。
 


<祇園御霊会のおさらい>
 天禄元(970)年以後,祇園御霊会は,毎年の行事となり,6月7日に神輿を迎えて種々の神事を行った後,14日にこれを送るのを定例とし,その神事には朝廷や院から馬長(うまおさ)や田楽・獅子などが上納され,見物者の目を楽しませました。
 また,庶民からも色々な芸能の奉納があり,長保元(999)年,雑芸者無骨(むこつ)が大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を作って行列に加ったのが,現在の山鉾巡行の原初とされています。

山鉾の時代
 平安末期には祭礼が一段と賑やかになり,鎌倉時代になると,鉾や長刀に装飾を付けたものが行列に加わりました。現在,粟田神社(東山区)の大祭などで見られる剣鉾巡行に当時の様子をうかがうことができます。

 三条公忠の日記『後愚昧記』(ごぐまいき)に記された永和2(1376)年の祇園会では,神事を勤めなかったにもかかわらず,鉾は例年通り巡行が行われており,これは,祭礼への関心が,「神輿渡御などの神事から山鉾巡行」に移ってきたことを意味しています。
また,当時の山鉾は,すでに一人で担ぐ剣鉾のような小型のものではなく,かなり大型化していたものと思われます。

 一条兼良(いちじょうかねよし)の『尺素往来』(せきそおうらい)には,定鉾以外に鵲鉾(かささぎほこ)・跳鉾(おどりほこ)・白河鉾の名が見られ,合わせて笠車,風流の造山,八撥の曲舞が奉納されたとあります。この後も,山鉾の数は年ごとに増え,15世紀中頃には58基に達しましたが,応仁・文明の乱(1467~77)で巡行は中絶します。

町衆と山鉾
 応仁の乱後33年を経た明応9(1500)年,山鉾は再興され,『祇園社記』には,6月7日に26基,14日に10基が巡行したとの記載があります。

祭礼は,安土桃山期から江戸初期にかけてより盛大となり,その様子は「祇園祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風」などで見ることができます。また,この時期,京都の町組の整備によって,祇園社氏子区域の中に,山鉾町とその寄町(地ノ口米を負担してその経費の一部を助ける組織)が定まりました。

江戸時代には,祇園の芸妓による風流行列などの練り物が年々華やかさをきわめ,宝永・天明・元治の大火による被害もありましたが,ほとんどの山鉾はそのつど復興しました。

明治維新後,太陽暦の採用に伴い,明治10(1877)年には,巡行日が7月17日(前祭)と24日(後祭)に改められました。

明治以後の変遷
 明治5(1872)年の寄町制度の廃止にともない,財政面において,山鉾の維持と存続が危ぶまれるようになりました。そのため,明治8年,山鉾巡行や神輿渡御の経費を援助する協賛組織として清々講社が結成され,各山鉾町でも,大正12(1923)年,現在の山鉾連合会の前身である山鉾町連合会を組織し,以後,これらの組織に支えられ昭和17(1942)年まで,山鉾の維持と巡行が行われてきました。

昭和18年,戦争により山鉾巡行は中止となりますが,同22年には長刀鉾と月鉾が建てられ,長刀鉾のみが巡行を行いました。29基(綾傘鉾,蟷螂山,四条傘鉾以外)の山鉾が復活し,巡行に姿を見せたのは同27年のことです。

昭和31年には松原通から御池通へ,同36年には寺町通から河原町通へ巡行コースを変更され,同41年からは先祭と後祭の合同巡行(17日)となり,後祭に代わる行事として,花傘巡行(24日)が行われようになりました。

平成26年に、従来の前祭、後祭が復活し「大船鉾」が再建され巡行に加わりました。

                 (文化史28 祇園祭 祭礼篇 - 京都市など参考に編集)

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茅の輪くぐり

2015年07月04日 | 日記
八坂神社の茅の輪に説明が掲げられています。
「水無月大祓」は正月から六月までの半年間の罪穢を祓う神事
茅の輪を立てて、それをくぐることで疫病や罪穢が祓われる
茅の輪は、イネ科の多年草である「チガヤ」を用い、それを人がくぐれるほどの大きさの輪状の形にして、
竹などを使って鳥居や参道などに立てたもの

茅の輪のくぐり方は、
「水無月の 夏越の祓いする人は ちとせの命 のぶというなり」という古歌、神歌、祓歌を唱えっつ、
左回り、右回り、左回りと八の字を描くようにくぐり抜けるのが一般的
現在、茅の輪を立てた水無月大祓は夏越の祓として全国の神社で広く行われている
八の字を描くようにくぐり抜けるのは、呪術の作法の一種と言われている
 古代中国において禹歩は様々な邪気を払う呪術として用いられました。
(1)旅の安全祈願
(2)病気の治療法
(3)入山法(魔除け)
  日本の禹歩は邪気を払う護身法という狭い分野で用いられました。若杉家文書小反閇作法并護身法では一つの手順として禹歩が行われて  います。平安時代の陰陽師は邪気払い・護身法・身固めの呪術として執り行いました。
  反閇とは道教の歩行呪術がわが国に伝来してそのように呼ばれるようになり、さまざまな儀礼や作法、あらゆる舞踊の基礎などに取り入れられた。すでに伝来していた陰陽道、日本で成立した修験道、儀式を整備した密教などの呪法を始め、神道の歩行作法、田楽や神楽、足踏みと跳躍とをする念仏踊り、歌舞伎の六方、猿楽から明治になり改称した能楽の足捌き、相撲の四股、江戸時代までの歩行法のなんば(難場)歩きなどに見られる。とくに星辰信仰による北斗七星の形のほか星の運行に合わせた歩行など、さまざまな足捌きをする陰陽道儀式には色濃く影響している。
【神道呪詛祓い・魔祓い】
天(あめ)切る、地(つち)切る、八方(やも)切る。天(あめ)に八違(やたが)ひ、地(つち)に十(とお)の文字(ふみ)、秘音(ひめね)。一(ひとつ)も十々(とおとお)、二(ふたつ)も十々、三(みつ)も十々、四(よつ)も十々、五(いつつ)も十々、六(むつ)も十々。ふっ切って放つ、さんびらり。


茅の輪の由来
備後国風土記逸文
「備後国の風土記に曰く。
疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」

△備後國風土記曰
△疫隅國社△昔△北海坐志武塔神△南海神之女子乎與波比爾出△座爾日暮△彼所將來二人在伎△兄蘇民將來△甚貧窮△弟將來富饒△屋倉一百在△伎△爰武塔神△借宿處△惜而不借△兄蘇民將來借奉△即以粟柄爲座△以△粟飯等饗奉△爰畢出坐△後爾經年△率八柱子還來天詔久△我將來之爲報△答△汝子孫其家爾在哉止問給△蘇民將來答申久△己女子與斯婦侍止申△即詔久△以茅輪△令着於腰上△隨詔令着△即夜爾△蘇民之女子一人乎置天△皆悉△許呂志保呂保志天伎△即詔久△吾者△速須佐雄能神也△後世爾疫氣在者△汝蘇民△將來之子孫止云天△以茅輪着腰在人者△將免止詔伎(釋日本紀卷七)

この由来により、古くは茅の輪を腰につけたり、首に掛けたりして疫病除けとしていたものが、時代を経て参詣者がくぐるような大きな茅の輪に変わって行った

八坂神社と茅の輪
祇園祭にて授与される粽には「蘇民将来子孫也」と書かれた神符がついている。
この粽を門に掛けるとことは蘇民将来の子孫であることを示すということで、
八坂神社の御祭神である素戔嗚尊から必ず御加護いただける証し
この素戔嗚尊をもてなした蘇民将来命を御祭神とした「疫神社」では
祇園祭の締めくくりとなる7月31日、疫神社の鳥居に茅の輪を立て例祭を斎行
ご神饌には伝承の通りに粟を使ったお餅を供え、神前に茅の輪を立てて
皆でくぐることにより全ての悪疫、罪穢から免れるとされている
八坂神社では、この疫神社でのお祭りを「夏越祓」、6月の大祓「水無月大祓」として毎年斎行
水無月大祓で半年の罪穢を除き、来月の夏越祓で更なる御加護を受けていただきたい
「素戔嗚尊と蘇民将来の伝承を起源に、全国にこれほどまで広がっている茅の輪くぐり、
この原点である八坂神社の茅の輪をおくぐり下さい。」と記されていました。

茅の輪くぐり方
次の言葉を唱えながらくぐる
第1回「みな月のなごしの祓する人は千年(ちとせ)の命のぶというなり」
(捨遺和歌集・題不知、詠人不知・巻五 賀 292)
第2回「思う事みなつきねとて麻の葉をきりにきりて祓いつるかな」
(後捨遺和歌集・和泉式部)
第3回「蘇民将来 蘇民将来 蘇民将来」(繰返し唱える)

粟田神社では
「思う事 皆つきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓いつるかな」
「みなつきの 夏越の祓する人は 千歳(ちとせ)のいのち 延というなり」
「宮川の きよき流れに みそぎせば 祈れることの 叶わぬはなし」
出雲大神宮では
「水無月の 夏越の祓する人は 千年(ちとせ)の命 延というなり」

祓い歌について
【題】 不明
【作者】詠み人しれず(拾遺和歌集1204)
【歌】「みな月のなごしの祓する人は千年(ちとせ)の命のぶというなり」
【通釈】六月の夏越の祓えをする人は、寿命が延びて千歳の命を得るということだ.
六月祓の歌として著名。

【題】六月祓をよめる
【作者】和泉式部(後拾遺和歌集)
【歌】「思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりても祓へつるかな
【通釈】水無月の晦日(みそか)、私の悩みが皆尽きてしまえと、麻の葉を細かく切りに切って御祓いをしたことだ。
【語釈】◇六月祓(みなづきばらへ) 別名「夏越(なごし)の祓」。旧暦では夏の終りにあたる水無月の晦日(みそか)に行なわれた大祓。
    ◇みなつきねとて 皆尽きてしまえとて。「みなつき」は「皆尽き」「水無月」の掛詞。
    ◇麻の葉 細かく切ってお供えにした。
【補記】正集では結句「はらひつるかな」
【他出】和泉式部集、題林愚抄
【主な派生歌】
思ふことみなつきねとて御祓する河瀬の波も袖ぬらしけり(藤原俊成)
麻の葉にゆふしでかけて思ふことみなつきねとてはらひつるかな(但馬)

【題】 不明
【作者】不明 (伝承歌?)
【歌】「宮川の きよき流れに みそぎせば 祈れることの 叶わぬはなし」

【通釈】


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夏越大祓

2015年07月02日 | 日記
丹波一之宮出雲大神宮の「夏越の大祓」に行ってきました。
丹波に出雲大神宮?それは続編で書きたいと思っています。
今、関祐二著「信濃が語る古代氏族と天皇-善光寺と諏訪大社の謎-」を読んでいるのですが、文中、「タニハ(丹波)」と出雲とのかかわりについての記述があります。
そんなわけで、「出雲大神宮(イズモオオカミノミヤ)」に興味を持っていたので…参拝に。
社殿は、御神体山を背に、鄙びた田園風景の中に佇んでいました。
「丹波風土記」、「日本略記」に記述されており、創建1300年以上を経過しているそうです。
 

 
出雲大社宮司千家尊佑氏の揮毫の石碑
     
 
拝殿前の「獅子狛」

 
「拝 殿」                「本 殿」

 
本殿の彩色「獅子狛」


私達は、生身なるが故に知らず識らずのうちに罪や穢れに触れています。
そこで、半年に一度、積もった罪や穢れを「人形(ひとがた)」に託し、本来の健全なる心身に立ち返る神事が、
「夏越の大祓」と言われて、多くの神社で年半ばとなる、6月30日に神事が行なわれます。
夏越大祓式では「茅の輪」が境内に立てられ、それを八の字に三回くぐると罪穢れが祓えると言われています。
出雲大神宮では、お祓いをしてもらうため、「人形」に名前と、年齢を書いて社務所に申し込みます。
神社からは、「大祓詞」と奉書に包まれた「形代(かたしろ)」「切麻(きりぬさ)」を受け、神事に臨みます。

  
「茅の輪くぐりと朗詠する和歌」「大祓詞」(クリック拡大) 


     「形代(かたしろ)」・「切麻(きりぬさ)」
「祓へ給ひ清め給へ」と唱えながら形代にて頭の上から足の先まで体をよくなでる。
切麻を自らの体に振り掛け、罪穢れを祓い浄化する。


和歌を朗詠しながら「茅の輪」を,左足から左、右、左と八の字に三回くぐると、罪穢れを祓えると言われている。


大祓の神事には、
神職により、榊で作られた「大麻(おおぬさ)」によるお祓い、
神職が、麻、木綿(ゆう)を八つに切り裂くことで罪や穢れを解除する(祓物)。
麻と木綿は、そもそも神々への手向け物であった。その貴重な物を贖物(あがもの)として神に差し出し、
罪穢を祓うための祓具として切り裂く。 
木綿(ゆう);楮)からとった「ゆう」(旧仮名遣いで 「ゆふ」)が「木綿」と書かれた。
これを織って作った布は太布(たふ)、栲(たえ/たく)、栲布(たくぬの)などと呼ばれる。
神道においては木綿(ゆう)を神事に用いる。幣帛として神に捧げるほか、紙垂にして榊に付けた木綿垂(ゆうしで)、冠に懸けた木綿鬘(ゆうかずら)、袖をかかげる襷に使用した木綿襷(ゆうだすき)と使われることがある。
(大祓詞・…天つ菅麻(すがそ)を本刈断末切(もとかりたちすえかりき)りて八針(やはり)に取辞(とりさ)きて天つ祝詞…)
神職によって、人形、形代、切り裂かれた布などを唐櫃に納め、茅の輪をくぐった後、保津川の清流にて一切を祓い清められます。

閉式の後、「水無月」をいただいて帰路につきました。
天候が心配でしたが、何とか恵まれ…帰路の途中、鎮めの雨に車も清められました…。
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