京都では、祇園祭が終わると、本格的な夏がやってくるといわれています。
京都で育った私は、「祇園囃子」を聞くとテンションが上がり、毎年出かけています。
今年は、前祭が台風騒ぎもあり、後祭24日に出かけました。
とは言え、山鉾だけが祇園祭のように思っている人が多いので、原点に挑戦してみました。
以前、八坂神社の神幸祭に行ったことはありました。
祇園石段下に三基の神輿が据えられ、担ぎ手で埋め尽くされたパワーには驚きました。
今回は還幸祭。「神泉苑」と「又旅社(御供社)」の神事に密着して歴史の重みを体感してきました。
平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神(ぎょうやくじん)を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形で、貞観11(869)年に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行した時、これを鎮めるために、平安京の広大な庭園であった「神泉苑」で「祇園御霊会(ごりょうえ)」行われました。
疫病の退散を祈願して長さ2丈(6m)程の矛(ほこ)を,当時の国の数、66か国にちなんで66本の鉾を立てて、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って災厄の除去を祈ったということで、災厄を水に流して送り出そうという儀式であったようです。
10世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになり、祇園御霊会は祇園社の6月の例祭として定着し、天延3(975)年には朝廷の奉幣を受ける祭となりました。この祭が後の祇園祭です。
山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もあったようです。
中御座の神輿はこのあと、八坂神社に、また、神事は行われませんが、東御座、西御座の神輿も「又旅社」に渡御奉安の後、八坂神社に還っていきました。
<祇園御霊会のおさらい>
天禄元(970)年以後,祇園御霊会は,毎年の行事となり,6月7日に神輿を迎えて種々の神事を行った後,14日にこれを送るのを定例とし,その神事には朝廷や院から馬長(うまおさ)や田楽・獅子などが上納され,見物者の目を楽しませました。
また,庶民からも色々な芸能の奉納があり,長保元(999)年,雑芸者無骨(むこつ)が大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を作って行列に加ったのが,現在の山鉾巡行の原初とされています。
山鉾の時代
平安末期には祭礼が一段と賑やかになり,鎌倉時代になると,鉾や長刀に装飾を付けたものが行列に加わりました。現在,粟田神社(東山区)の大祭などで見られる剣鉾巡行に当時の様子をうかがうことができます。
三条公忠の日記『後愚昧記』(ごぐまいき)に記された永和2(1376)年の祇園会では,神事を勤めなかったにもかかわらず,鉾は例年通り巡行が行われており,これは,祭礼への関心が,「神輿渡御などの神事から山鉾巡行」に移ってきたことを意味しています。
また,当時の山鉾は,すでに一人で担ぐ剣鉾のような小型のものではなく,かなり大型化していたものと思われます。
一条兼良(いちじょうかねよし)の『尺素往来』(せきそおうらい)には,定鉾以外に鵲鉾(かささぎほこ)・跳鉾(おどりほこ)・白河鉾の名が見られ,合わせて笠車,風流の造山,八撥の曲舞が奉納されたとあります。この後も,山鉾の数は年ごとに増え,15世紀中頃には58基に達しましたが,応仁・文明の乱(1467~77)で巡行は中絶します。
町衆と山鉾
応仁の乱後33年を経た明応9(1500)年,山鉾は再興され,『祇園社記』には,6月7日に26基,14日に10基が巡行したとの記載があります。
祭礼は,安土桃山期から江戸初期にかけてより盛大となり,その様子は「祇園祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風」などで見ることができます。また,この時期,京都の町組の整備によって,祇園社氏子区域の中に,山鉾町とその寄町(地ノ口米を負担してその経費の一部を助ける組織)が定まりました。
江戸時代には,祇園の芸妓による風流行列などの練り物が年々華やかさをきわめ,宝永・天明・元治の大火による被害もありましたが,ほとんどの山鉾はそのつど復興しました。
明治維新後,太陽暦の採用に伴い,明治10(1877)年には,巡行日が7月17日(前祭)と24日(後祭)に改められました。
明治以後の変遷
明治5(1872)年の寄町制度の廃止にともない,財政面において,山鉾の維持と存続が危ぶまれるようになりました。そのため,明治8年,山鉾巡行や神輿渡御の経費を援助する協賛組織として清々講社が結成され,各山鉾町でも,大正12(1923)年,現在の山鉾連合会の前身である山鉾町連合会を組織し,以後,これらの組織に支えられ昭和17(1942)年まで,山鉾の維持と巡行が行われてきました。
昭和18年,戦争により山鉾巡行は中止となりますが,同22年には長刀鉾と月鉾が建てられ,長刀鉾のみが巡行を行いました。29基(綾傘鉾,蟷螂山,四条傘鉾以外)の山鉾が復活し,巡行に姿を見せたのは同27年のことです。
昭和31年には松原通から御池通へ,同36年には寺町通から河原町通へ巡行コースを変更され,同41年からは先祭と後祭の合同巡行(17日)となり,後祭に代わる行事として,花傘巡行(24日)が行われようになりました。
平成26年に、従来の前祭、後祭が復活し「大船鉾」が再建され巡行に加わりました。
(文化史28 祇園祭 祭礼篇 - 京都市など参考に編集)