パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

祇園祭と御旅所…

2018年07月21日 | 日記
今年は猛暑の中で、祇園祭も終わりましたが御旅所について、少し整理してみました。
観光客はもとより、京都の住人ですら「祇園祭=山鉾巡行」と思っている人がいるでしょう。
でも本来は、平安時代貞観11年7月14日「祇園社から神泉苑へと素戔嗚尊を奉じた神輿を送り盛大な御霊会が行われた」
ことを始まりとしていると言われています。
その、神泉苑で当時の五畿七道66か国に見立てた「矛」を立て神輿を迎えたことを起源として「鉾」に展開したそうです。

*五畿七道とは…
古代の律令制における地方行政区分。 全国を朝廷所在地周辺の畿内と七道に区分した。
畿内は大和国(奈良県の旧国名)・山城国(京都府の旧国名)・摂津国(大阪府の北西部と兵庫県の東部の旧国名)
・河内国(大阪府南東部の旧国名)・ 和泉国(大阪府南部の旧国名)の5国で五畿。
他の諸国は東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道の7道に区分され,同名の幹線道路でつないだ。

先ず「神輿渡御」。
祇園祭の中心となる神事 
 現在では、17日に八坂神社(祇園社)から、疫病退散のため、三基の神輿が氏子地域を巡行して四条の御旅所に奉安される神幸祭.
 24日には、八坂神社御旅所を発輦する還幸祭が行われ、氏子地域を巡行して、八坂神社本殿に還御されます。
実は、この還幸祭(後祭)こそその御霊会の原点1なのです。
町衆の鉾による露払いが巡行し、神輿が氏子町を練り歩き、あらゆる災厄を神輿に積み込み祓っていく重要祭事なのです。
三基の神輿
   中御座神輿・鳳輦型神輿(八角屋根に鳳 凰);素戔嗚尊
      
   西御座神輿・鳳輦型神輿(八角屋根に鳳 凰);八柱御子神
                        *素戔嗚尊(牛頭天王)と櫛稲田姫命(婆梨采女)との間に生まれた八人の皇子

   東御座神輿・葱花輦型神輿(四角屋根に葱花);櫛稲田姫命(素戔嗚尊妃)【*葱花=擬宝珠】

            *牛頭天王が習合して素戔嗚尊となったので婆梨采女が櫛稲田姫命にあたる。)


西御座神輿       中御座神輿       東御座神輿

 
西御座神輿      中御座神輿        中御座神輿     東御座神輿





 



 御旅所は元々は
   大政所御旅所;素戔嗚尊・八柱御子神
   少将井御旅所;婆梨采女(明治以降、櫛稲田姫命〈元々は西御座〉)




大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)

 
         ここはかって、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御のとき、三基の神輿のうち、
         大政所(素戔嗚尊)神輿と八王子(八柱御子神)神輿の二基が安置される場所であった。
         残る少将井(櫛稲田姫命)神輿は烏丸竹屋町にあった少将井御旅所に渡御していたが、
         天正十九年(1591)に豊臣秀吉により、これら二つの御旅所が四条寺町に移築・統合されて
         明治45年(1912)現在の御旅所となった。                             
          天延二年(974)に、この地に住んでいた秦助正が、夢の中での八坂大神神託を受け、
         また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上
         した結果、助正の家が御旅所となったという。
          天文五年(1536)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、
         八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年七月十六日を例祭日と定めてたという。
         今でも神輿還御の時には、神輿が立ち寄り、神職が拝礼する。    
 
         大政所御旅所について
         17日の山鉾巡行のハイライトの一つ、長刀鉾稚児が四条麩屋町に張られた注連縄を、
         太刀で切る「注連縄切り」という行事があります。
         その注連縄を張るために、葉付の斎竹が四条通りを跨いで麩屋町に建てられます。
         これを斎竹(いみだけ)建てといい神域を示すものです。
         注連縄は、八坂神社に「高橋町社参」により授与されます。
         古来より、大政所御旅所隣接の縁で「高橋町」の人々が建てられるそうです。
         
           

少将井御旅所

少将井御旅所は現在は元の位置にはありませんが、
由来は京都新聞社の壁面にプレートが埋め込まれています。



                        少将井跡
                     少将井は平安京の各所にあった名水の一つで、
                     「枕草子」にも名井として挙げられている。  
                     所在地は京都市中京区烏丸通竹屋町下ル少将井町
                     付近とされる。              

                     名前の由来はさだかではないが、歌人の少将井の
                     尼が住んだためとの説もある。        
                      平安時代以降、祇園社(八坂神社)の御旅所が
                     あり、現在の祇園祭にあたる祇園会御霊会で神輿
                     が巡行した。疫病を免れるための霊水信仰に基づく
                     とされ、神輿は井桁の石に安置したという。   
                      祇園社の御旅所は桃山時代ごろ、四条新京極に
                     統合された。少将井にはその後も社が置かれて 
                     いたが、上京区・京都御苑内にある宗像神社の社伝
                     によると、明治十年(1877)同神社に移された。 
                      昭和四十七年(1972)、京都新聞社が     
                     平安博物館(現・京都文化博物館)に依頼して  
                     発掘調査を実施した。平安時代の泉水は確認でき
                     なかったが、鎌倉時代から近代までの井戸跡が 
                     数多く見つかり、この地が良い水に恵まれ地域住民
                     が利用いていたことがあらためて確かめられた。
                                    京 都 新 聞 社       
                                    (平成十八年四月 設置)


 
町屋の左端に石標が建っています。

祇園会の神輿渡御の御旅所がここに有ったということは、
氏子区域は御所の近くまであったということになります…

  
京都御苑の宗像神社境内にある「少将井神社のお社」

八坂神社(四条)御旅所
  

                  八坂神社御旅所(西御殿)と隣の冠者殿社(八坂神社境外末社)
                                  *冠者殿社 御祭神 素戔嗚尊の荒魂



 
神幸祭の御旅所発輦の神事
御旅所西御殿は中御座神輿、東御座神輿
御旅所東御殿では西御座神輿

鳳凰に結わえられた青稲

 京都八坂神社の御田祭が、京丹波市の下山尾長野の地の斎場と神饌田で行われますが、
 五穀豊穣を祈願して神輿の鳳凰や葱花に神饌田の青稲が結び付けられます。