パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

茶筌の里「高山・竹の寒干し」

2018年01月29日 | 日記
生駒市の北部に茶筌の里として有名な「高山」と言う集落があります。
先ず、自由に見学できる「高山竹林園」に立ち寄りました。
珍しい竹が植えられ「竹の植物園」と資料館です。
高山へは、国道163号線・高山大橋からくろんど池、交野方面に折れて行きます。

 

資料より「高山」について
  
日本の茶筌の9割が生産されているのです。


竹林園の多目的広場にも「竹の寒干し」がされていました。



  

竹林園に、寒干しの前に、竹の油を抜く「竹炊釜」が展示されていました。

   

生駒の冬の風物詩は、「庄田」地区の田圃で見られるとのことで、竹林園の先まで車で行ってきました。
新しい竹なのでしょうか…未だ青味を帯びた竹も稲の刈り取られた田圃で寒干しされていました。

     

(参考)
茶道の流派がこんなに多いとは…
京都の裏千家、表千家、武者小路千家の「三千家」が有名で…奈良では石州流…
程度しか知りませんでした…


掲示されていたパネル

竹林園では、茶筌作りの実演、お茶席もあります。
また、茶筌のほか、茶匙、柄杓などの茶道具、竹製の編み棒なども展示されていましたが、
お茶室や寺院で「縄を掛けた石」の「結界」を見ることもありますが、
竹製の「結界」も展示されていました。

 

茶筌の字はもともと鍋などの焦げ付きを落とす道具、筅(ささら)から由来している。
芸術まで高められた高山(奈良県生駒市高山町)産の茶筅では「筌」の字を使うことが通例である。
(高山に関するブログなので「茶筅」でなく「茶筌」で表記しました。)

茶筌の「穂」の数について
用途によって穂の数は16本から120本まであるが、64本が標準と考えられている。
この数は外穂の本数で、64本なら外穂と内穂を合わせれば128本になる。
穂数が少なければ穂が太く腰の強い茶筌になり、穂数が多ければきめ細かな茶筌になる。
そこで一般に濃茶を練る場合には穂数の少ないものを、薄茶を点てる時には穂数の多いものを用いる。
穂数が多いものほど製作に技術を要するため格の高い茶筅とされ、
明治維新以前は80本以上の穂数は大名以上の貴人用、120本は将軍用とされていた。
大名が濃茶を練る場合には、穂数を多くかつ穂を太くするため太い竹で茶筌を作り、これを宝莱と呼んだ。
穂数が少ない茶筌で薄茶を点てるには技量を必要とするため、
逆に穂数の多い茶筌を用いることで自らの未熟を示して謙遜する意味合いもあった。78本の茶筌を用いるのはこの意味合い。
(ウィキペディアより)

大絵馬-2-

2018年01月10日 | 日記
「八坂蛭子神社」にでかけ、先ずは中心の神社、「八坂神社」に参拝。
此処で見つけたのが「大絵馬」。

東門正面の舞殿(ぶでん)

大絵馬 縦3m、横4m


本殿正面には大きな破魔矢が2本立ててあります。

破魔矢に付けられた中絵馬


破魔矢と共に、中央の左右の柱に飾られた藁で編まれた亀

大絵馬

2018年01月08日 | 日記
神社やお寺に行くと祈願する絵馬とは別に「大絵馬」が掛かっています。
年末になると、社寺では干支に因んだ「大絵馬」が架け替えられます。
架け替えは、新年の準備に入る「正月事始め(事始め)」に行われるところもあるようです。
正月事始め(しょうがつごとはじめ)とは、正月を迎える準備を始めること。
かつては旧暦12月13日、現在は新暦12月13日に行われています。
昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な木を山へ取りに行く習慣があった。

「事始め」には、京都の初冬の風物詩で、多くのカメラ愛好家がシャッターチャンスを狙います。
花街事始めは毎年12月13日に行われています。
事始めでは花街の舞妓・芸妓らが普段お世話になっている踊りの師匠やお茶屋などを訪ね、
今年1年間のお礼と新年に向けた挨拶を行い、お正月の準備を始めます。

特に御世話になっているところには「鏡餅」を事前に届けています。
祇園甲部では井上流の師匠宅を訪ね、「今年もお世話さんになりました。来年もおたのもうします。」とごあいさつをした後、井上八千代師匠から直々に舞扇を「おきばりやしたね。来年もおきばりやす」と言葉を添えていただきます。
花見小路周辺では一度に多くの正装した舞妓、芸姑さんの行き来を撮る人が集まりまるそうです。

-大辞林-
①江戸時代、江戸で陰暦12月8日、上方では12月13日、煤すす払いをして正月の準備を始めること。
②古く東国で、陰暦2月8日に農事を始めることを祝って行なった行事。

終い天神(北野天満宮)の絵馬

楼門に、幅3・3メートル、高さ2・25メートル、重さ120キロの絵馬が初天神の1月25日まで架けられます
(原画は日本画家、三輪晃久さん)

談山神社の絵馬

神廟拝所西側の縁に、幅2・74メートル、高さ1・64メートルが架けられていました。
(原画は崇敬者)

今年は初詣には行きませんでしたが、奈良では、橿原神宮の巨大「大絵馬」が有名です。
昨年末「橿原考古学研究所付属博物館」の「十二支の考古学」特別展に行ったところ、
橿原神宮の大絵馬の今年の原画を含め展示されていました。(1月14日まで開催中)
平成12〜23年までの十二支の原画は、日本画家・上村淳之さんのものでした。
平成24〜今年の「戌」までの原画は日本画家・藤本静宏さんによるものです


外拝殿に設置された、高さ 4.5 メートル/幅 5.4 メートルで、畳14枚分の大絵馬(転載)

絵馬についてのおさらい
絵馬の起源は、神様に神馬(しんめ)として生きた馬を献上する古代の風習にあるとされています。
時が経つと、本物の馬は木で作った馬や土で作った馬で代用さます。
そして、平安時代には絵に描いた馬を奉納するようになります。
さらに、室町時代には個人が現世利益を求め、小型の絵馬を奉納するようになります。
江戸時代には家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が庶民にも広がりました。
それによって馬以外の絵も描かれるようになり、今のように様々なデザインの絵馬が生まれました。

-コトバンク-
社寺や道祖神などの神格化された対象に,祈願や感謝の目的で納める絵。
元来は馬の絵をかいたが、中世以降は種々雑多な画題が登場した。
生き馬を神に献じる風習が,馬に代えて土馬,馬形,板立馬などを納めるようになり,
やがて絵の馬を奉納したことに起源がある。
その初例は『本朝文粋』 (1012) の「色紙絵馬三匹」の記事で,『今昔物語』にも板絵馬の言葉がみえる。
中世の絵巻に絵馬奉納の情景がみられ,それによるとこの頃から仏教寺院への奉納が起り,
個人的奉納も行われるようになって,絵馬奉納の目的,対象,画題に変化を生じ,発展した。
もともと祈願が目的であったため,牛馬以外に人間の目,手,足などを描いて安産や病気快癒を祈ったり,報謝したものが多い。
遺品としては秋篠寺の応永年間 (1394~1428) の絵馬,元興寺極楽坊,興福寺東金堂,石川大地主神社の長禄年間 (1457~60) の絵馬などが古く,この頃から専門画家の執筆するもの,大型の絵馬,絵馬堂などがみられるようになった。