丹生川上神社は三社あります。
丹生川上神社は本来一社のはずですが、現在、三つの神社が丹生川上神社を名乗っており、
それぞれ上社、中社、下社と呼ばれています。
いずれが本来の丹生川上神社かについては明確ではなく
現実的な存在のようです。
丹生川上の地は、日本書紀神武天皇即位前紀戊午年九月甲子の条に、「厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、
丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭りたまふ」と記されており、
上古より祭祀を行う聖域であったことが知られます。
白鳳4年(675年)に天武天皇は、くらおかみのかみ(闇靇神)から
『人声の聞こえない深山に我が宮柱を立てて祀れば天下のために必要な雨を降らし大雨を止める』という御託宣をうけ、
創立されたのが丹生川上神社と伝えられています。
平安時代の法令集「延喜式」(927)では、名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預かり、
神階は寛平九年(897)従二位に叙せられました。
また、雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました。
そして平安中期以降は、朝廷における最高格の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。
しかし、平安遷都の後は、祈雨、止雨祈願は鴨川上流の貴布彌(貴船)神社などが崇敬され
応仁の乱(1467)の後は奉幣も途絶えて衰微し、
社地の所在も不詳となりました。
明治以降、御由緒の重きにより官幣大社として
下社(明治四年)、上社(明治二十九年)、中社(大正十一年)の三社が列せられました。
経緯
明治4年(1871)に至り、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、
これに対して寛平7年(895)の太政官符にのる「四至」に適合しないとして
むしろ現上社をあてるべきとする『大日本史』に従い、
同7年、高神社を官幣大社丹生川上神社奥宮とした。
* 『 寛平七年太政官符にのる四至に、
丹生川上雨師神社の境界として『「東限 塩匂 南限 大山峯 西限 板波瀧 北限 猪鼻瀧」』
が、これにも異義の生ずるところとなり、明治29年、丹生川上神社を下社、奥宮を上社とした。
さらに東吉野村の蟻通神社が、その社辺をとおる高見川を「古代の丹生川」であるとして請願したことから
これを中社と認定するに至り、大正11に現在の中社を加え3社を一括して「官幣大社丹生川上神社」とする事になった。
御祭神は異なりますが、当然のこととして、創祀の経緯などは丹生川上神社三社とも基本的に同じです。
要するに宮柱を立てた場所が何処なのか?の、比定地に説が分かれているようです。
江戸時代に下社が、明治時代に上社が、大正時代に中社が比定地となり、三社を以て一社とする珍しい神社となりました。
上社 高龗大神(たかおかみのおおかみ)高神社
中社 罔象女神 (みづはのめのかみ) 蟻通神社 高見川(古代の丹生川)
下社 闇 靇 神 (くらおかみのかみ) 丹生大明神社 丹生川
1.下 社
一の鳥居
由緒
二の鳥居 拝殿
拝殿 階段 本殿
本殿 総桧 流造り 屋根・銅板葺き 建坪・731坪
拝殿から本殿への「日本最長木製七十五段の階(きざはし)」
手水舎 御神水
御神木の欅
黒毛の馬「祈雨」 白毛の馬「止雨・祈晴」
『延喜神祇式』臨時祭祈雨神祭条 丹生川上神社のちには、貴布彌神社に黒毛馬、白毛馬奉納
続日本紀 天平宝宇七年(763)五月庚午条「奉幣帛千四畿内群神。其丹生河上社者加黒毛馬。旱也」
続日本紀 宝亀八年(777)5月癸亥条 「奉白馬及幣於丹生川上神。霖雨也。」 など
祈雨(旱也)、止雨(霖雨也)祭が、79回丹生川上神社で行われた記録が残されています。
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御朱印