パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

大将軍八神社の茅の輪

2020年06月28日 | 日記
北野天満宮の近く、一条御前通を西に進むと「大将軍八神社」があり、
茅の輪が立つていたので続いての「茅の輪」でお祓いをしてきました。
6月21日〜7月5日まで茅の輪はあるようです。
夏越の神事・水無月の大祓式は、6月30日です。

  



 

 

 

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夏越天神・茅の輪

2020年06月27日 | 日記
北野天満宮では、毎年6月25日に御誕辰祭が行われます。
御誕辰祭は祭神・菅原道真の誕生を祝う神事です。
なお御誕辰祭は夏越天神(なごしてんじん)とも言われ、
楼門に京都最大とも言われている約5メートルの大茅の輪を設置され、
半年間の穢れを祓い、無病息災を祈願する大茅の輪くぐりも行なわれます。

毎月25日はいわゆる「天神さんの縁日」で多くの露店と多くの参拝者で賑わいますが
今年は、コロナの関係で露店の出店が一切なく、参拝者も少なく落ち着いたお参りができました。
と同時に、普段気の付かない境内の様子を感じることが出来ました。

  



 



楼門に立てられた「大茅の輪」

 
「花手水」 インスタ映えするとのことで人気のスポット

 
境内には願い事を書いた「七夕飾り」が彼方此方に見られました

 
三光門


三光門前の狛犬


三光門をくぐると


拝殿前の茅の輪
神事は6月30日執行されます




拝殿


献灯 
献灯の蝋燭はよく見ますが、灯芯による灯明は珍しくなりました


① 影向の末松
 
初雪の日、御祭神この松に影向(降臨)ありて歌を詠み給うと古くより伝えられ
毎年、三冬(初冬から節分)の初雪の日大前にて、初雪祭を斎行する。
この松は明治期まで宇多天皇と御祭神との御神縁により、
仁和寺の御寄進によって代々植え替えられてきたと伝わる

② 右近馬場
 
嵯峨天皇大同2年に開かれた右近馬場は、
右近衛大将であった菅原道真公が好まれた
右近衛府の馬場、俗に右近の馬場という。・・・

③ お印 榮(桐)(天皇陛下御即位20年記念植樹) 
   
天皇陛下お印の桐( 別名・榮)
楼門を入って左の狛犬を覆うように実(種)も垂れていました


④ 茶席松向軒
  正面鳥居を入って左にあります。

天正15年10月1日豐太閤北野松原にて大茶湯(北野大茶会)を催した際
細川三斉 (忠興) 公使用の井戸 (「三斉井戸」という) この内にあり

 

  

 
三斉井戸

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大神神社三連茅の輪&ササユリ

2020年06月24日 | 日記
6月30日大祓いに先立ち、21日茅の輪が立てられたとのことで行ってきました。

 

 
コロナ禍での「流水手水」





三霊木をかかげた「みわの茅の輪」



 
左の霊木「榊」茅の輪

  
中央の霊木「杉」の茅の輪

 
右の霊木「松」の茅の輪

 
茅の輪くぐりの作法


拝殿                           祈祷殿

大神神社のゆり園のゆりはほぼ終わっていましたが、
末社「久延彦神社」近くでは咲いているとのことで行きました。



   

 

  

大神神社の御神体三輪山遥拝所

   

 
「笹百合園」

この辺りから大和三山が眺望できるとのことでしたが・・・


これは二上山



 

大鳥居と左に耳成山・畝傍山・・・香久山は木立に隠れ・・・

近くの展望台に行ったのですがダメでした。
 



大神神社摂社率川神社では日本最古のお祭りの1つ三枝祭(ゆりまつり)が6月17日行われました。
(今年は、コロナウイルス感染防止ため、神職による神事のみだったそうです。)
別名「ゆり祭」は、さかのぼること飛鳥時代、文武天皇の頃から伝わる日本最古のお祭りの1つです。
ゆりの花で飾った酒樽でお酒を神前に供えた後、4人の巫女が三枝のゆりを手に持ち、神楽舞を奉納します。
そのゆりの花は、大神神社に咲く「ササユリ」で、本社から運ばれてきます。

率川神社でも、上半期についた罪・穢(つみ・けがれ)を祓い、
下半期を無病息災で過ごせるように、拝殿の正面前に「茅の輪」を設置されます。
参拝者は「茅の輪」を三度くぐってからお参りします。
「茅の輪」は、およそ幅2・25メートル、高さ2・2メートルもの大きさがあり、
本社大神神社にて行われている「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」で用いられる
「茅の輪」と同じ仕様の物となっています。

(率川神社HPより)


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観音竹の花

2020年06月20日 | 日記
お隣の鉢植えの「観音竹」に花が咲いたとのことで写真を撮らせて貰いました。
お父様からいただかれたそうですが、20〜30年に一度だけ咲くので珍しい
と同時に、竹は花が咲くと枯れる不吉な前兆かと・・・心配されてました。
早速植物図鑑などで調べてみました。

竹の花が咲くと枯れるのはそのようですが、「観音竹」は大丈夫。
名前に「竹」がついていますが実は「ヤシ科の常緑樹」でした。
樹高は3m程度まで。花は淡黄色の小花で円錐状にまばらに開花
雌雄異株で結実することは更に珍しいそうです。
葉の細い「棕櫚竹」も「ヤシ科カンノンチク属」で同じ仲間です。

  

 
図鑑の通り、淡黄色の小花で円錐状にまばらに開花
今の状態は「蕾」でしょうか?


図鑑に掲載されていた「珊瑚」のようなピンク色の観音竹の花

参考までに棕櫚竹の花の投稿写真を転載しておきます。
 
花の蕾が少し細長いようにも感じますが・・・

地植えされたカラーもピンク色は珍しかったので撮らせてもらいました
  

「カラーと言えば白色」と思っていましたが、
ピンク色の他にも黄色もあるように図鑑に掲載されてました。、



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丹生川上神社Ⅲ

2020年06月10日 | 日記
3.中社

衰退後、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、
明治、大正と所在地諸説の経緯を経て三社が比定地とされました。
三社になりましたが、「官幣大社丹生川上神社」としては一社で、そこでこの神社の社務所を中社に移して、
下社、上社を統括して祭務を行ってきました。
戦後神社制度の変遷により、今日では三社別々の神社となっていますが、中社が「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、
又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています



    
神社前の清流 高見川(丹生川)                         県道220号

 
鳥居と社号額


由緒掲示

 
手水舎  注水口の龍に「疫病退散」の鉢巻き

 
ご神水・真名井(清めの清水)


拝殿

  
拝殿内部


拝殿より本殿を拝する

 

 
拝殿から本殿への渡殿と階(きざはし)

   
西殿                        東殿
本殿の左右に西殿、東殿がありますが木が繁っていて屋根の一部しか見えませんでした。
(社殿は兵火により焼失し文政12年(1818)再興、屋根檜皮葺き修復し今日に至る)

  
西殿                    本殿                    東殿
(三殿の写真は東吉野村HPより転載)
本殿 三間社流造 桧皮葦
東殿 一間社流造 三棟 各相の間で接続 桧皮葦
西殿 一間社流造 三棟 各相の間で接続 桧皮葦

本殿 御祭神 主祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
 相殿    相祭神 伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)、伊邪奈美命(いざなみのみこと)
東殿 御祭神 大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと・天照皇大神)・八意思兼命(やごろもおみかねのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
西殿 御祭神 開化天皇・上筒男命(うわつつおのみこと)・大国主命・事代主命・綿津見神(わたつみのかみ)・菅原道真公

 
狛犬


西参道鳥居

    
 爺石         鳥居左右の爺婆石(夫婦石)         婆石

 
吉野離宮跡石碑 (秋津宮)
国家に大事のあるときには、天皇は祈願のために
丹生川上神社に行幸されたが、
その際宿泊された場所が吉野離宮であるとされている。
吉野離宮は当神社の背後の小牟漏(おむろ)岳の麓、
丹生川上神社の神域にあったと考えられており、
それに因んで石碑が建てられている

 
丹生龍王大神社



木霊神社 御祭神 五十猛命(須佐之男命の御子)

 
相生の杉

 
叶(かなえの)大杉 (千年杉) 樹高 51.5m 幹回り 7.1m

 
大盛丸神社 御祭神 龍神大明神

   
社務所 当日は、水神祭の日にあたり国旗が掲揚 (コロナで神事も関係者のみ)

   
東照宮 御祭神 徳川家康                        水神社 御祭神 高龗神

 
蟻通橋 本社と摂社丹生神社とを連絡する高見川に架けられた橋

   
橋の上流に「夢渕」 (高見川に日裏川、四郷川が合流)

神武がウケイの儀式をおこなった場所が今の丹生川畔の「夢淵」という所で、
夢告に従いつつそれがなされたがゆえの地名

 
川の流れの地図
現在の「高見川」は、神社の表示では「丹生川」となっています。
「御手濯(みたらし)川」、「木津川」と表記されているものもあります。
google地図では、高見川に日裏川と四郷川が合流するようですが、神社の記述や、
国土地理院の地図では木津川(こつがわ)と日裏川と四郷川が合流して「高見川」になっています。


橋より下流を望む 

  
摂社 丹生川神社 御祭神 彌都波能賣神 (本殿・本宮)

 
皇紀2600年奉祝記念建立「神武天皇聖跡」の石碑(横面)      東吉野村HPより
碑文
「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び
厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ
又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

 
東の滝へは「ゆめはし(吊り橋)」を渡ります

 
日裏川が夢渕に流れ落ちる所にあるのが東の滝


滝壺の上の「不動明王」              瀧の前の太鼓橋

「水神社」の対岸になる「不動明王」祠の近くに「山の神」御祭神 大山祇神 の祠もありました。

 
御朱印
御朱印の右上に魚がありますが、これは「鮎」だそうです。
拝殿の「萬歳幡」にも刺繍されています。

神武天皇が聖なる土器を川に沈め、「魚が浮き上がったら日本を平定できるだろう」
との霊夢をもとに、占ったところ、「アユ(鮎)」がことごとく浮かびあがった。
そこで、神武天皇は、天神地祇(てんじんちぎ)を敬祭して、その結果、東征
(大和平定)に成功したとの話から。
「魚+占」⇒「鮎」の語源になったともいわれていることに由来しているようです。

神武がウケイの儀式をおこなった場所が今の丹生川畔の「夢淵」という所で、夢告に従いつつそれがなされたがゆえの地名

御朱印について
三社を巡って、三社を一枚にした御朱印の受け方もありましたが個別に御朱印を頂きました。
三社共通の御朱印は同様の「官幣大社 丹生川上神社」(中社は[旧官幣大社 丹生川上神社])の角印と
丸印は各々「下社は丹生」「上社は上社」「中社は丸印でなく厳瓮の中央に鳥居と本殿・丹生川上神社・祈雨」
添書き?下社はなし、「上社はには龍神総本宮」「中社には水神宗社」と記されていました。
上社には龍の押印、中社には記述の如く「鮎と川の水」印が水神宗社と一体?で押印されていました。

  

下社の拝殿から本殿への75段の階(きざはし)の渡殿、は天の架け橋を昇るような魅力的な建造物と黒毛白毛の神馬。
上社はダム建設により遷宮されたため、社殿が新しくて歴史を実感しにくいものの、平安時代の本殿跡、祭祀跡に興味。
三社の中では、比定地が何処?と言うよりも、森と水のロマン、自然環境に中社が一番好きな神社と思えました。
三社三様、考古学よりも、神武東征に始まる、この辺りが歴史的ロマン満載で好きになりました。

















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丹生川上神社Ⅱ

2020年06月10日 | 日記
2.上 社

境内地は、昭和三十四年の伊勢湾台風による大滝ダム建設に伴い水没のやむなきこととなり、
天下万民の幸福のため、対岸の山の中腹の現在地に平成十年三月にご遷座しました。   
その後に行われた県立橿原考古学研究所による元境内地の発掘調査の結果、       
本殿基壇の直下から数期にわたる神社関連遺構(宮の平遺跡)が検出され、
奈良時代後半から平安時代前期頃に祭場として意識され、                
平安末期から鎌倉初頭には社殿が建立され、その後造替を繰り返して          
現代までに奉祭され続けてきたことが明らかにされました。
「延喜式」に名が見える古社の全面的発掘は初めてのことで、             
神社・社殿建築の歴史・展開を考えるうえで貴重な事例とされています。         


(参拝のしおりより)

  
   一の石鳥居              二の石鳥居           神号標「高靇大神(たかおかものおおかみ)」

 
    拝殿 左右に狛馬           掲額「神雨霑灑(しんうてんさい)」


左右の狛馬




由緒


拝殿内部




側面より本殿・拝殿


元境内地遥拝所


(参拝のしおりより)

 

 
 参拝のしおり


御末社 愛宕社 恵比須神社 水神社


水  神  社  御祭神 弥津波能売神
恵比須神社  御祭神 大国主神 事代主神
愛  宕  社  御祭神 火武須毘神 


三末社の左右の狛犬


御末社 山之神社 御祭神 大山祇神


御朱印














































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丹生川上神社

2020年06月07日 | 日記
丹生川上神社は三社あります。
丹生川上神社は本来一社のはずですが、現在、三つの神社が丹生川上神社を名乗っており、
それぞれ上社、中社、下社と呼ばれています。
いずれが本来の丹生川上神社かについては明確ではなく
現実的な存在のようです。

丹生川上の地は、日本書紀神武天皇即位前紀戊午年九月甲子の条に、「厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、
丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭りたまふ」と記されており、
上古より祭祀を行う聖域であったことが知られます。

白鳳4年(675年)に天武天皇は、くらおかみのかみ(闇靇神)から
『人声の聞こえない深山に我が宮柱を立てて祀れば天下のために必要な雨を降らし大雨を止める』という御託宣をうけ、
創立されたのが丹生川上神社と伝えられています。
平安時代の法令集「延喜式」(927)では、名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預かり、
神階は寛平九年(897)従二位に叙せられました。
また、雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました。
そして平安中期以降は、朝廷における最高格の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。

しかし、平安遷都の後は、祈雨、止雨祈願は鴨川上流の貴布彌(貴船)神社などが崇敬され
応仁の乱(1467)の後は奉幣も途絶えて衰微し、社地の所在も不詳となりました。
明治以降、御由緒の重きにより官幣大社として
下社(明治四年)、上社(明治二十九年)、中社(大正十一年)の三社が列せられました。

経緯
明治4年(1871)に至り、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、
これに対して寛平7年(895)の太政官符にのる「四至」に適合しないとして
むしろ現上社をあてるべきとする『大日本史』に従い、
同7年、高神社を官幣大社丹生川上神社奥宮とした。
* 『 寛平七年太政官符にのる四至に、
   丹生川上雨師神社の境界として『「東限 塩匂 南限 大山峯 西限 板波瀧 北限 猪鼻瀧」』

が、これにも異義の生ずるところとなり、明治29年、丹生川上神社を下社、奥宮を上社とした。
さらに東吉野村の蟻通神社が、その社辺をとおる高見川を「古代の丹生川」であるとして請願したことから
これを中社と認定するに至り、大正11に現在の中社を加え3社を一括して「官幣大社丹生川上神社」とする事になった。

御祭神は異なりますが、当然のこととして、創祀の経緯などは丹生川上神社三社とも基本的に同じです。
要するに宮柱を立てた場所が何処なのか?の、比定地に説が分かれているようです。
江戸時代に下社が、明治時代に上社が、大正時代に中社が比定地となり、三社を以て一社とする珍しい神社となりました。

上社 高龗大神(たかおかみのおおかみ)高神社
中社 罔象女神 (みづはのめのかみ) 蟻通神社 高見川(古代の丹生川)
下社 闇 靇 神 (くらおかみのかみ)  丹生大明神社 丹生川






1.下 社


一の鳥居




由緒

 
二の鳥居                     拝殿 


拝殿                  階段                  本殿
本殿 総桧 流造り 屋根・銅板葺き 建坪・731坪


拝殿から本殿への「日本最長木製七十五段の階(きざはし)」

  
手水舎                                   御神水

 


御神木の欅


黒毛の馬「祈雨」                              白毛の馬「止雨・祈晴」


『延喜神祇式』臨時祭祈雨神祭条  丹生川上神社のちには、貴布彌神社に黒毛馬、白毛馬奉納
続日本紀 天平宝宇七年(763)五月庚午条「奉幣帛千四畿内群神。其丹生河上社者加黒毛馬。旱也」
続日本紀 宝亀八年(777)5月癸亥条   「奉白馬及幣於丹生川上神。霖雨也。」      など
祈雨(旱也)、止雨(霖雨也)祭が、79回丹生川上神社で行われた記録が残されています。 

 
身に憑いた穢れを水に流す「人形祓いの石」
飛鳥で有名な「酒石」の謎のヒントになる?   


御朱印















































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