パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

「とんとん神社」

2017年05月29日 | 日記
三重県伊賀市にある「もくもく手づくりファーム」に行ってきました。
園内に楽しい神社がありました。


鳥 居                扁 額


由緒(霊験=物事がとんとん拍子によくなる)   本 殿


狛豚(こまとん)阿形?


狛豚(こまとん)吽形?


御 神 体 
(作法のイラストからすると「大国豚命(だいこくとんのみこと)?」)


参拝作法               おみくじ


何ともほっこりさせて貰える神社です。
園内には、有機野菜の直売所、cafe、レストラン、ベーカリー
山羊、豚、ミニ豚芸のアトラクション等もあります。
田植体験、椎茸狩り、泥んこ遊び、もみ殻広場遊び…等々親子連れが多かった…。
それにしても、やはり目玉は「ソーセージ」
ホットドッグは美味しかった

 


御霊祭(上御霊神社)と御所参内

2017年05月26日 | 日記
京都の三大祭りは葵祭、祇園祭、時代祭ですが、
葵祭、時代祭は何れも御所から祭列が出発します。
案外、知られていないのが、神輿が御所に入るのが2回あること。
一つは、時代祭では、御所から平安神宮までが祭列が進むのですが、
その前に、実は神幸列が平安神宮を進発し、京都御所の行在所に到着します。
御祭神の桓武天皇、孝明天皇の鳳輦です
主役が出発集合地に向かわれる、まあ…実家に里帰りするよなもの?
そもそも、時代祭の主役は、先の御鳳輦が孝明天皇、後の御鳳輦が桓武天皇で、
御神祭がこの京都を御巡幸になって、
市民の安らかな様を親しくご覧になるのであって、
全各行列は、この御神祭にお供をして行進するわけです。

もう一つの祭礼は「御霊祭(上御霊神社)」の還幸祭。
絵馬堂に掲示されていたパネルによると…
『元和7年(1621)御所に入り御水尾天皇や皇族様方が車寄せでご覧になりました。』
『宝永4年(1707)東山天皇、霊元上皇の希望により御所に巡行が行われました。』
『江戸時代後期には、御霊祭が毎年御所に参内し、天皇、皇族方にご欄いただくようになりました。』
『御霊神社が京都御所の氏神様にあたることから、江戸時代の御所参内を、明治維新以来
 平成21年、140年振りに復活』
京都御所内ではありませんが…
『昨年、宝ヶ池の京都国際会議場に北之御座(今出川口神輿)を運び、慶應2年の孝明天皇以来150年ぶりに
天皇皇后両陛下がご覧になられた…。』



 

 
今出川御門には「レッドカーペット」      


京都御所の朔平門(北門)

 
先頭の御霊祭「大榊」が到着

  
「蓬莱御鉾」         「鷹羽御鉾」

   
導きの猿田彦大神の御車(牛車)

 
南之御座(小山郷神輿) 「よいさ、よいさ」の掛け声

 
北之御座(今出川口神輿) 「ほいっと、ほいっと」の掛け声

  
中之御座(末廣会神輿)  「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」の掛け声

 


朔平門前に祭列が整列し、神主が祝詞を奏上

 
砂埃舞う神輿振り、担ぎ手衆は手拭でマスク


御所で最後の差し上げ

 
参内を終え「今出川御門」より出て再び巡行の後、神社へ還幸


おまけ
①御霊神社
京都には、疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として御霊神社は二社あり
御所を中心に
北に通称「上御霊神社」、
南に通称「下御霊神社」
と呼び分け、祭礼も別の日になります。

②鳳輦
小 山 郷神輿…後陽成天皇から、前の正親町天皇の鳳輦の御下賜
今出川口神輿…御水尾天皇から、御陽成天皇のご鳳輦の御下賜

③牛車
葵祭の2台の牛車(御所車)とともに貴重な1台が御霊祭の祭列で見られます。
この牛車は1600年ごろに後陽成天皇から寄進されたとされています。

④イチハツ
上御霊神社には「イチハツ」が咲いていました。
アヤメ・カキツバタ・ショウブとは異なります。
アヤメの仲間の中で一番早く花をつけることから「一初」の名がついたそうです。
みんなの花図鑑によると
『茎先に花径10センチくらいの青紫色の花をつける。
外側の大きい花びら(外花被)には、つけ根の部分から真ん中にかけて、鶏の鶏冠のような白い襞がある。
これが仲間と区別するポイントになる。
雄しべは3本である。
花柱(雌しべの一部で柱頭と子房とをつなぐ部分)は3つに分かれる。
根際から生える葉は艶のない剣状である。アヤメに比べると葉の横幅が広くて短い。』

 

新日吉神宮まつり

2017年05月15日 | 日記
京都東山七条の坂を登ると「新日吉神宮」があります。
「いまひえじんぐう」と読みます。
知らないと、「しんひよしじんぐう」と呼んでしまいそうです。

由緒によれば
『 祭神       後白河天皇
    山王七社   大山咋命 
         妃神 賀茂玉依姫命
           大己貴命(大国主命)
           田心比売命
           菊理比売命
           大山咋命荒魂 
           賀茂玉依姫命荒魂

    相 殿 大山咋命祖父神 素戔嗚命
        大山咋命 父神 大 年 神

   創祀
    永暦元年1160十月十六、後白河上皇が
    山王七社と相殿二坐とを御鎮祭、比叡山
    の妙法院を移して当神社の別当とせられ
    たので妙法院をまた新日吉門跡と称して 
    きた、鎮座八百年の前年の昭和三十三年
    1958十月十六日に新たに後白河天皇を
    鎮祭申し上げ翌三十四年十一月十一日を
    もって神宮号に改称されることが公許
    された。
           以 上
                 社 務 所 』

後白河上皇が、自らの院御所(法住寺殿)に、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、院御所の鎮守として新日吉社とした。
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。 
妙法院もすでに比叡山から移転しており、【延暦寺・日吉社(山王社)】・【妙法院・新日吉社】の天台宗ラインの関係があったのです。
 
5月14日は「新日吉神宮神幸祭(いまひえ祭)」。
東寺と伏見稲荷還幸祭と同じように、神仏習合が見られるとのことで出かけました。
12時から神幸祭前に出立祭が行われます。
拝殿の神輿は二基。
鳳輦の大きな神輿と「猿田彦命」の小ぶりな神輿が祀られています。
「出立祭」の神事が進みます。
神職・妙法院僧侶の着座、修祓、献饌…祝詞、祭文、

      
日吉大社の神職、妙法院の僧侶     神前に整列


修祓


大麻(おおぬさ)は風のお祓い      塩湯(えんとう)は水のお祓い

献   饌

神酒              餅        
 
海の幸(鯛)           乾物 


野菜              果物


塩・水          日吉大社のご神木「桂」     


神  饌

 
読経・「般若心経」

 
焼香                  玉串


柏手 


出立祭を終えてご挨拶と談話


神幸祭の祭列が巡行に出て行きます


正面橋を渡る鳳輦           巡行で稚児から貰った厄除けの粽

神幸祭は神域町内を遅くまで巡行し、剣鉾も電線を避けながら、鉾振りで鈴の音を響かせ厄払いを行います。

東寺・伏見稲荷大社、妙法院・新日吉神宮ともに、寺院の読経は「般若心経」でした。
東山山麓の「粟田神社」の神輿も、「青蓮院」前で寺院から読経を受けたと記憶しています。
神仏習合は生きています。

大原古知谷「阿弥陀寺」

2017年05月08日 | 日記
大原から途中方面に若狭街道を走ると、左側に禅寺風の山門が見えていました。
京都非公開文化財の特別公開で今回、初めて秘仏公開されていたのを機会に拝観してきました。

浄土宗  総本山 知恩院
山 号  光明山
院 号  法国院
寺 名  (古知谷)阿弥陀寺
本 尊  弾誓(たんぜい)上人自作の植髪像 
     阿弥陀如来坐像(重要文化財)
寺 紋  十六菊(閑院宮・有栖川宮家の御祈願所)

1609(慶長14)年、尾張出身の弾誓(たんぜい)上人が開創した如法念仏道場です。
弾誓上人は自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられ、
本堂には上人自ら刻んだといわれる弾誓上人像が、ご本尊として安置されています。






   
ご朱印「弾誓佛」        記念ご朱印「感得弥陀佛」

 
山門             扁額「光明山」

 
「弾誓佛一流本山」    「本堂六丁六五〇メートル」

 
六丁といえど登り始めから徐々に勾配が厳しく…距離以上に大変…
(特別公開中は進入禁止ですが、普段は上まで車で登れるそうです。)


登り口には、よく見かける「不許葷酒入山門」ではなく、「禁葷辛酒肉」

  
頭上に懸崖造りの建物(茶室「瑞雲閣」)が…

 
 
青葉も爽やかな樹齢400年を超すと言われるカエデ。

 
本堂            本堂扁額「法国院」

堂内は撮影禁止ですので堂内を文字で。
本堂須弥壇。
中央のお厨子に祀られているのが「本尊弾誓仏」。
上人自身の植髪も現在は両耳の近くに少し残っている程度らしいです。
なお、尊像の前には神社で見られる鏡が置かれていますが、
絵巻によれば、神道もの奥義を究められ「神」と崇められていることによる。
厨子の右に、もう一体の「本尊阿弥陀如来座像」(重要文化財)  
左に、宗祖「法然上人座像」


『弾誓上人絵詞伝(古知谷・阿弥陀寺)』
修行中、滝に打たれていると、春日、住吉、熊野、八幡、大神宮の5社の神が現れ、
弾誓の背骨を割って、凡骨(弾誓の骨)の代わりに神骨を入れる、換骨の儀式を執り行うという
『五社の神、形をあらはし出給ひ、汝に神道の秘奥を授くべし。
去ながら凡骨では成がたし。今換骨の法をなさんとて、(中略)
上人の背筋を裁割凡血を出し給ふ。此とき五社の神、異口同音に神道の奥義を授け給ふ』。



 
この建物奥の石窟の石廟に弾誓上人即身佛    庫裏玄関の雨水枡に使われている大釜

 
鐘楼      懸崖造りの茶室 「瑞雲閣」 
 

 
本堂前庭の石仏「五智如来」          本堂から見た庫裏の玄関

ここのお寺では、山野草苑のように珍しい野草を観ることができました。
ご住職が大切に育てておられるそうで、植木鉢の花は開花に合わせて、
鉢を入れ替えて、見せて頂けるているとのことでした。
 
  
ケマンソウ(華鬘草)・別名タイツリソウ(鯛釣り草)

 
クリンソウ(九輪草)

  
イワカガミ(岩鏡)       エビネ(海老根)        シュンラン(春蘭)

  
アマドコロ(甘野老)      イカリソウ(錨草)


 
クマガイソウ(熊谷草)

 
ユキモチソウ(雪餅草)    ミヤマオダマキ(深山苧環)   フウリンオダマキ(風鈴苧環)

 
  サラシナショウマ(晒菜升麻)?       ?        

 
ミヤマシャクナゲ(深山石楠花)

東寺・稲荷還幸祭

2017年05月08日 | 日記
京都や奈良には、今でも神仏習合の行事が彼方此方で観られます。
5月3日は伏見稲荷祭の還幸祭(おかえり)。
五基の神輿がお旅所を出発して車で東寺の東門(慶賀門)に到着します。
東寺もこの日は門前に供物(神供)と神酒を各神輿にお供えし僧侶の読経とともに、
稲荷大神をお迎えする儀式が行われます。
 五基の神輿
   田中社 
   上之社 (一之峰)
   下之社 (三之峰) (鳳輦)
   中之社 (二之峰)
   四之大神

 
慶賀門の前の供物(神供)・神酒、大根、人参、白菜、筍… 

 
車に載って供奉列、五基の神輿が到着

  
慶賀門の中央には唯一鳳凰を屋根に載せる
下之社神輿(鳳輦)

 
僧侶による出迎え


宮司も来られます

 
宮司による僧侶へのお祓い(修祓)


僧侶による読経「般若心経」「南無稲荷大明神」 


祭礼の列は産土地を巡幸し、伏見へ

 
神馬もお狐さんも皆乗車しています…


儀式が終わって僧侶は本坊に帰って行かれます

































「宇奈多理坐高御魂神社」

2017年05月01日 | 日記
平城京跡の東院の傍らに鎮座する神社ですが、毎月1日、15日の月2回しか開門されないとのこと。
「宇奈多理坐高御魂神社」と難し名前の神社ですが、平城京跡内にあることから由緒あるのではと気になって居ました。
5月1日参拝に行ってきました。

 

 
本殿への参道は少し鉤型       手水舎 

 
狛犬


御祭神 三座 (正面の掲示)

 高御魂尊(たかみむすびのみこと) (中座)
     高天原にましました神で、天御中主尊、神産日尊、と共に、造化の三神として、
     御徳極めて高く鎮魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、
     常に天照大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神

 天太玉命(あめのふとたまのみこと)(東坐)
     高御魂の御子、神事を掌り給う神で天岩戸の祈祷のとき、その御前で大玉を奉拝され
     祭祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神。

 思 兼 尊(おもいかねのみこと)(西坐)
     高御魂の御子、数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で、高天原に大事あった時
     画策してならなかった事は無いと言う。
 
 


流造三間社本殿は室町初期の建築(重要文化財)


由 緒 (正面の掲示) 
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。
古文書では、宇奈足とも菟名足とも菟足とも書いている。
武内宿祢の勧請と伝えられ
「日本書紀」によると持統天皇六年(692)二月には新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五社に奉るとある。
その一社で、この神社の神戸は正倉院文書の天平二年(730)大和税帳新抄格勅符抄に載っているが、
何れも神名は菟名足となっている。
江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは
近郷だけでの通称の略称である。
本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社、流造、桧皮葺で国指定の重要文化財である。
境内の一帯は、平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。

(他の資料による記述より転載)
『大和志』に宇奈多理坐高御魂神社法華寺村にあり、今楊梅天神と称すとあり、式内大社の当社にあてられているが、
  横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある。
  古来法華寺鎮守としてその管轄化にあったが、明治の神仏分離で紳域内の本地仏十一面観音は法華寺に移され、
  神社は地元村で祀られることになった。
  祭神は高皇産霊神・太玉神・思兼神。流造三間社本殿は室町初期の建築で、重要文化財。
『日本書紀』持統天皇の6年(692)12月24日太夫等を遣わして、新羅の調を大倭菟名足外四社に奉ったとあり、
『三代実録』貞観元年(859)4月の条に「従四位下法花寺坐神従四位上」とある外、
「延喜」の制では大社として月次・相嘗・新嘗と出ている。
  延宝9年(1681)の『和州旧跡幽考』の項に「法華寺西南辺に楊梅の天神という社あり。
  此のほとりにや。楊梅の宮をたてて天皇うつり給ふて後、五位以上を宴し給ふよし、くわしくは
『続日本紀』にあり」と、光仁天皇の宝亀4年(773)2月完成したという楊梅宮は天神社のほとりではないかといっている。
「楊梅」を転じて「桜梅」となったとみられ当社を桜梅天神ともいう。


「桜梅神社」の燈籠


境内社 
みな天孫降臨に随従された神々を祀る

 本殿向かって右
  天細女命神社(あめのうずめのみこと)天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
  (二座一殿)
  猿田彦命神社(さるたひこのみこと)天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
  手力男命神社(たじからおのみこと)天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で
                   天孫降臨に随従された神

 

 本殿向かって左
  大宮媛命神社(おおみやひめのみこと)太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
  豊岩窓命神社(とよいわまどのみこと)天太玉命の子で、亦の名を天石門別神、御門の神(門戸の守護神・ の神)、
                    天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、
                    思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給うた神



境内の神殿とは別に神饌がそなえられていました
  
右側に石仏のような…    左側の木の元に石が組まれたように(中央の石を囲むように?)


本殿には、林檎、大根、生米、神酒、清水が、境内社にも生米、塩が折敷の上に供えられ、傍には賽銭も置かれていました。
狛犬を見ていたら、ネクタイを締めた地元の老人や、年配の女性がお詣りに来られていました。月2の参詣でしょうか…。



武内宿禰の勧請とも言われ、法華寺の鎮守としての関わりや、
歴史の流れ中で遷宮を重ねながらも、
古文書の表記「宇奈足」の地に鎮座する由緒ある神社であること、
「宇奈多理」は、古文書で見られるように
「菟名足」・[菟足」・「宇奈足」などとも表記されたらしい。
地方の神社にあるように、神職「は土地の方が勤めているらしいこと、
平城京の中、東院の傍に鎮座していることなど興味が湧きます。

東院の塀越しに見る「宇奈多理坐高御魂神社」の叢林