パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

オリーブの記録

2024年03月15日 | 日記
開花から種子になるまでをまとめてみました

  
オリーブの開花
  

    
グリーンオリーブが結実しました
グリーンの実が少し色づき始めました



   
ブラックオリーブに色が変わりました



実の果肉部分の水分が無くなってきました



外果皮が裂け種子が見えてきました


    
枝から実が落下


 
外果皮から飛び出した種子 
この種子を絞るとオリーブオイルになります



伏見神寶(かんだから)神社

2024年01月09日 | 日記
伏見稲荷大社の千本鳥居を抜けていく途中の丘に鎮座。天照大御神を主祭として稲荷大神を配祠、十種の神宝を奉安。
創祀 は平安期にさかのぼり、かつては稲荷山上に祀られていた。
仁和年間(885~89)宇多天皇は、大神宝使を発遣するなど、皇室の信仰も篤かったが、政変などにより中世以降は廃れていった。
1957年(昭和32)に今の場所に再建された。

伏見神宝神社の読み方は「ふしみかんだからじんじゃ」です。
社殿や標柱には神宝は旧字体の「寶」が使われています。
地元では“神宝(しんぽう)さん”とも呼ばれています。
主祭は天照大御神で、稲荷大神を配祠、十種神宝を奉安しています。

十種神宝は、別名「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」とも呼ばれる 天孫の証となる10種類の宝物で、
三種の神器のルーツとされています。
物部氏の祖である饒速日命(にぎはやひのみこと)が天磐船(あまのいわふね)に乗り、天降りする際、
天神御祖(あまつかみみおや)から授けられた神器のひとつで、死者をも蘇らせる霊力を有する最強の神器です。

十種神宝(とくさのかんだから)
 ①沖津鏡(おきつかがみ)、②辺津鏡(へつかがみ)、③八握剣(やつかのつるぎ)、④生玉(いくたま)、⑤死返玉(まかるかへしのたま)、
 ⑥足玉(たるたま)、⓻道返玉(ちかへしのたま)、⑧蛇比礼(おろちのひれ)、⑨蜂比礼(はちのひれ)、⑩品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

三種の神器(さんしゅのじんぎ)
 日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、
  ①八咫鏡(やたのかがみ)              実物・伊勢神宮内宮  形代・宮中三殿賢所
  ②天叢雲剣(草薙剣)(むらくも・くさなぎのつるぎ) 実物・熱田神宮    形代・皇居「賢爾の間」
  ③八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)         実物・皇居「賢爾の間」

4/18神宝大祭鳴動神事、 7月土用中の日鎮魂大祭、11/3御火焚祭。
境内の摂社・末社には、龍頭社、八大龍王大神、白龍大神が祀られ、まさに龍神のパワースポットです。


  

千本鳥居


    

神寶神社参道




   本殿   


  

左右の狛龍



  

ここにも龍の「おもかる石」がありました


   

神寶神社参道口の向かいには「根上りの松」


(文章には観光案内等より一部転載編集)

宇治田原・禅定寺地区 「柿屋」

2023年12月11日 | 日記
宇治田原に曹洞宗の禅定寺という古刹があります。
参拝に行ってきましたが、参道の横に見慣れないものが建ててありました。

  



宝物殿の横の敷地で、ご婦人が莚に皮を剥いた柿を並べておられました。

   

何をされているのかお尋ねすると、
下の「柿屋」から降ろして、干しているとのことで、
「古老柿」つくりの作業をしておられるとのこと。
「柿屋」は宇治田原固有の干し柿を干すための「棚」で
刈り取りの終わった田の中に、11月上旬から組み立てられます。
農家の方が手作業で、丸木の骨組みに藁で屋根を葺きあげられます。

因みに柿は「鶴の子柿」という渋柿。

  


2~3週間柿屋で乾燥させると、柿の中の水分が表面に浸みだし糖分が出て白くなる。
ある程度乾いたら、柿屋から降ろし、1週間ほど莚に広げ柿を「躍らせ」柔らかくする。
「箕」で何度も踊らす作業をすると白い粉をまぶした感じに仕上がっていくそうです。

お聞きした話では、この地域でも高齢者が多くなり、柿屋の規模も小さくなり、
数も随分減ったそうで、「蓑で踊らす」作業も重労働だようです。

 
         箕                 箕に干した柿を入れて踊らす(転がす)


最近では、柿の皮剥きの機械、乾燥の機械、踊らす回転の機械・・・と
商品生産をされているお宅では合理化もされてきているとか。

お寺で作る古老柿は、12月18日の「終い観音」などで
檀家の皆様にお配りするため、全て手作業なので大変な作業と仰ってました。

<発祥伝承のお話>
むかし、渋柿を甘くする方法が知られていない時代・・・。
あるとき村に一人の娘が現れて、干し柿の製法を伝えた。立ち去る娘の後を村人がついていくと、
禅定寺(宇治田原町禅定寺)近くの岩場で姿を消したと思ったら観音の姿を現した。
娘は禅定寺の本尊、十一面観音の化身だった。以来その干し柿を「一人の娘の柿」という意味で「孤娘柿(ころうがき)」と読んだ。

ここまで行きませんでしたが
このお話で娘が観音の姿を現したという「美女石(びじょせき)」近くに「おとめ観音(柿の木観音)」と名付けられた像が
平成5年に「ころ柿の観音像」として安置されたそうです。
光背に柿の葉、台座は柿のへた、手のひらには柿、柿のネックレスを付けておられるとのこと。
「おとめ観音」は、京都府歴史的自然環境地域に指定されている禅定寺内に安置されています。



美女石近くの「おとめ観音(柿の木観音)」  

  
境内近くに新しい「おとめ観音(ころ柿観音)」


写真の一部に参考資料からの転写を含みます。

大和松尾寺修験道まつり

2023年09月05日 | 日記
「厄除け観音」として知られている松尾寺に行ってきました。
9月1日から10日まで修験道まつりが開催され、厄除け祈祷が厳修されます。
寺宝の特別公開も行われ、秘仏「役行者像」が拝観できるとのことで楽しみに行きました。

松尾寺
* 山号 松尾山
* 宗派 真言宗
* 寺格 別格大本山
* 本尊 千手千眼観世音菩薩
* 創建 伝 養老2年 (718)
* 開基 伝 舎人親王

行者堂
 役行者 (日本最大の役行者木造秘仏)
 像高130.3cm約6大ぶりな像
頭巾を被り、肩に蓑をかけ、高下駄を履き、
 錫杖を持って岩座に腰掛けるという典型的なもの
 比較的頭部が大きいためか親しみ深い感じを受ける。
杉材かとみられる木目の粗い材の寄木造りで、
胡粉地の彩色を施しています。
作風から室町時代中頃の作品と考えられています。

役行者は本名を役小角<えんのおずぬ>といい、
7~8世紀に実在した人物だと考えられています。
修験道<しゅげんどう>の開祖に位置づけられる。

「神変大菩薩」
   光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)

 左右に前鬼<ぜんき>、後鬼<ごき>を従える。
  後鬼の左横には役行者の母親の像






六地蔵巡り

2023年08月24日 | 日記
毎年8月22日から23日にかけて無病息災、家内安全などを祈願して
街道沿いに祀られた六体の地蔵菩薩を巡拝する年中行事があります。
六地蔵とは、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六道に迷い苦しむ衆生を救済せんと発願せられた仏様です。

六地蔵巡りの寺院
第一番札所 大善寺 (伏見六地蔵) 奈良街道
第二番札所 浄禅寺 (鳥羽地蔵)  西国街道
第三番札所 地蔵寺 (桂地蔵)    丹波、山陰街道
第四番札所 源光寺 (常盤地蔵)   周山街道
第五版札所 上善寺 (鞍馬口地蔵)  鞍馬街道
第六番札所 徳林庵 (山科地蔵)  東海道




六地蔵巡りは例年8月22日、23日に行われ、六地蔵を巡って、お札を受け取り玄関に吊るすと、
疫病退散、家内安全、福徳将来の御符になると言われています。
今回は、酷暑の中、六か所を巡るのは無理で、[第六番札所の徳林庵]をお参りしていました。

宗 派 臨済宗南禅寺派 
山 号 柳谷山 
寺 名 徳林庵
開 創 室町時代1550年に、人康(さねやす)親王の末葉、雲英正怡禅師が人康親王の菩提を弔うため開創


 
徳林庵             御朱印

   
本尊           秘仏・「大閻魔尊天像」(六地蔵巡りの日のみ開帳)



   
拝所・地蔵堂(六角堂)             六角堂(地蔵堂)              六角堂後方の六地蔵


  
「本尊・地蔵菩薩立像」


地蔵堂に安置している地蔵菩薩像は、平安時代初めに、参議小野篁が、一度冥土へ行った際に生身の地蔵尊を拝んだことで蘇った後、
木幡山の桜の大木から六体の地蔵を彫りだしたうちの一体という伝説があります。
初めは大善寺に六体の地蔵尊が安置されていましたが、平安時代末期の保元年間(1156~59)になり、
後白河天皇の勅命をうけた平清盛、西光法師によって、伏見六地蔵の大善寺も含め京へ出入りする街道口の6ヶ所に
分けて安置するようになり、旧東海道に沿う山科の地に分祀され「山科地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられています。
通称として「山科廻地蔵」、「四ノ宮地蔵」とも呼ばれています。


境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜があります。

 
蝉丸・人康親王供養塔
南北朝時代のものと伝わる宝篋印塔です。人康親王は仁明天皇(810~850)の第四の宮様です。
平安時代より琵琶法師達が当地に集まり二月に人康親王、六月にその母の橘嘉智子の供養をしたのは、
親王自身も目を患い四ノ宮に隠棲され、盲僧達を保護された事によります。
この琵琶法師達の集まりは、明治四年までつづきましたが、
長い時間の中に彼らの祖神である人康親王と蝉丸がこの供養塔を軸として同一化したのではないかと思われています。



  
茶所
お茶所の奥には鎌倉時代の作といわれる大日如来の四体石仏が安置されています。


  
運送往来・参拝の人々に茶をふるまった茶釜

 
井桁 
かつては東海道(もしくは街道)の運送往来の牛馬の水飲場として使われていました。
その石組には、「文政四巳年六月吉日、大阪 名古屋 金沢 奥州 上州 宰領中」という文字が刻まれ、
当時の往来のにぎやかな様子を想像することができます。


六地蔵巡りの御符



ブログ作成に当たっては、六地蔵会発行の案内書、各種観光案内を参考にしました。

シナノサイカチ(サイカチ)の豆果

2022年12月15日 | 日記
珍しい植物です。
京都の植物園で落下していたものを頂きました。

約15Cmの豆果がぶら下がっているようです(振るととカサカサ豆の音がします)

>シナサイカチ (支那皀筴)
マメ科サイカチ属 落葉高木(樹高15m程度)
中国西部が原産
幹には枝のように分枝した鋭い棘

葉は偶数羽状複葉で互生
花は5~6月頃開花 淡黄色の小花
果実は10月頃、『刀身状の筴果(豆果)』がつく
落葉後も枝に残ることが多い
果実には「サポニン」を多く含み、かっては薬用、洗剤としての用途


                 (GKZ 植物事典などをさんこうにしました)

参考イメージ
同じマメ科の「藤」の豆果

興福寺南円堂前、不動明王堂前の藤棚

謎の虫3

2022年10月09日 | 日記
「ハゴロモ」と教えていただきました謎の虫。

 

  

偶々、羽化するところを見つけました❕
  

 

 

  
羽化が終わり成虫になりました               
成虫の色からすると「アミガサハゴロモ」系と推定できそうです
写真では大きそうですが、体長は1.4cm程度と小さいです   

 
新たに他の幼虫を見つけました

藤の種?

2022年10月06日 | 日記
平日の興福寺境内



五重塔

 
東金堂                    中金堂

 
南円堂

興福寺南円堂の「右近の橘」の実が沢山ついています。
  

その斜め前にある小さなお堂。「不動明王堂」。



その前にある藤棚から大きな実ができていました。


 


実は・・・鞘の中の豆(種)は食べると美味しいそうです。         
詳しくは「いもとあずきの野草・雑草を食べてみたい」ブログをご覧ください。
https://imoazu.com/fujinomi/

謎の虫ですが判明?

2022年09月21日 | 日記

庭の木に付いている虫が判明❕
調べていくとどうやら「ハゴロモ」らしい。
(幼虫の正体は「むし探検広場」を管理されている方から
ご教示いただきました。)
学術的にはアブラムシ系ではなく
「カメムシ目頸昒亜目ハゴロモ科」
ハゴロモ科は更に
「ハゴロモ科」と「アオバハゴロモ科」などに分類されます。

「ハゴロモ科」           「アオバハゴロモ科」
  ・スケバハゴロモ        ・アオバハゴロモ
  ・べッコウハゴロモ       ・トビイロハゴロモ
  ・アミガサハゴロモ
  ・ヒメべッコウハゴロモ


ハゴロモ科の一種の幼虫と成虫
 


 
我が家の庭に居たハゴロモの幼虫

植物の汁を基本的に吸っている「カメムシ」の仲間ですが、臭い匂いを出すことはありません。
幼虫時代にはロウ状物質を分泌する種類が多く見られます。
白い「羽衣・ハゴロモ」は、この分泌されたロウ状物質なのでしょう。
ゆっくりと歩く虫なのですが、驚いたり刺激を受けると「跳ねて」逃げる昆虫です。
成虫でも跳ねてから飛んで逃げることもあるのですが、幼虫の時期でも跳ねるので、
観察していたら急に消えたように見えることがあります。

(ブログ作成にあたっては「「むし探検広場」などを参考にさせていただきました。)

名前が分かりませんが・・・

2022年09月19日 | 日記
植木屋さんにレッドロビンを剪定してもらいました。
剪定後刈り込まれた枝に「白い花」様の物が付いている?
綿?いや・・・翅?・・・良く観ると虫!
調べてみたのですが分かりません・・・
アブラムシ系かな?


 

 


比叡山延暦寺西塔椿堂

2022年09月16日 | 日記
西塔南谷に杉木立に囲まれた小さなお堂がありますが
普段は公開されていないので殆ど参拝する人も少ないようです。        
聖徳太子が比叡山に登った際に持っていた観音像を安置するために       
建てられのが始まりとされ、登る際い使っていた椿の杖を地面に        
さしたところ芽を出して育ったと言う伝説が「椿堂」の由来とされています。  
今年は聖徳太子の死後1400年となるのに合わせ公開されることになった。  

 

 

 
本堂前の柱の由緒掲示         駒札説明板

由緒 
ご本尊千手観世音菩薩を安置す  
昔聖徳太子帝良の郷にみ幸し給ふに
艮岳に宝塔を現するを見給い   
尋ねてこの山に登り給ふ時    
 堂を建て椿の御杖を堂の傍に立て給ふ
この杖枝葉繁茂す故に椿堂といふ 

駒札
昔、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた
椿の杖を此の地にさして置かれたところ    
  その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、
此のお堂が椿堂と名づけられました     
 お堂の傍に、それに因んだ椿の大木があります。
御本尊は千手観世菩薩をお祀りしています。

 

説明が重複しますが
・・・本尊についても聖徳太子にまつわる次のような言い伝えがなされている。
太子はかって如意輪観音像三体を奉安し、その後、その内の一つである   
栴檀六臂像は大和の橘寺にもう一つ白銀四臂の像はきょうの六角堂に安じた。
残る一は黄金二臂の金像で比叡山のこのお堂に安じた。          
ただしこの如意輪像は三寸(約9センチ)であったことから、後に別に二尺一寸 
(63センチ)の千手観音の木造を造って、本像の中に胎内仏として金像を埋め込んで
お祀りしたのが椿堂の本尊と言われている。               
ただし、中世の書物によると十一面観音だという説もある。         
焼き討ちの際は大泉坊乗慶が本尊を三井寺に隠していたが、焼き討ちの後の再興に
及んでこの地に戻したと伝えている。                   
江戸中期には本尊の他に、開基の聖徳太子像や不動明王、毘沙門天、降魔大師像も
安置されていたようであるが、現在は本尊千手観音と不動明王の二尊を祀っている。
なお境内にはかって、日吉王子宮を勧請した鎮守祠や宝蔵もあったと伝えているが
現在は鐘撞堂が残っている。                        



本尊 千手観音菩薩 
(63センチ)


「胎内仏 如意輪像」(約9センチ) 
 (写真は掲示物より)
国宝殿にて展示されています
(半迦思惟の弥勒像と書いてあるものもあります)

本尊の左右には二体の仏像が安置されています
 
 不動明王             千手観音


鐘撞堂


僧侶と話し込んで参拝記念特別御朱印を頂くのを失念してしまいました

瑜伽神社

2022年06月24日 | 日記
早速、瑜伽神社に行ってきました。

 

  









境内社

奈良時代の古社「飛鳥神並社」        飛鳥乃御井    一言稲荷社



猿田彦神社        久恵比古社


御祭神が宇迦御魂大神ですから狛犬でなく「狛狐」


寄進燈籠「瑜伽大権現」

扁額や燈籠を見比べると                              
石標「瑜伽神社」➜本殿扁額「瑜伽本宮」➜内陣扁額「瑜伽明神」➜寄進燈籠「瑜伽大権現」
掲げられた場所や寄進者の思いが伝わってきます。 
                  
余りの暑さに城跡見学は断念。はっきりしませんが遠望の写真を掲載します。


左端「奈良ホテル・鬼薗山城跡」道路を挟んで「西方院山城(瑜伽山城)跡」「天神社」


荒池越しに奈良ホテル・鬼薗山城跡を遠望 
築城の際は池はなくお城の南側に大乗院があったらしい


中央に奈良ホテルの屋根が見えます


こちらも荒池から瑜伽山城跡を遠望

 
奈良と言えば「鹿」                鷺池から荒池への水路 左岸側は瑜伽山裾






奈良公園・天神社

2022年06月16日 | 日記
飛火野から荒池辺りを散策していると「天神社」がありました。
興福寺境内、春日大社参道・・・ここに「天神社」があるとは。
小高い丘?山?の上に建立されているので、
観光で訪れる方には目に触れることが少なそうです。


天神社略縁起

 
正面の鳥居 

  
中門 と玉垣  中門には「天満 天神社」と表記

 
中門の左右の狛犬獅子


狛犬ならぬ「狛牛」?

 

  
拝殿と左右の狛犬獅子

 
拝殿から本殿を参拝

 
本殿横側            神楽殿


境内に住吉社・祓戸社・稲荷社・秋葉社・柿本社などの末社
  
浅間社         秋葉社

  
  柿本社             池          住吉社       

 
稲荷社          総霊社

 
裏参道の鳥居        東門

  
          東西の参道坂道       遠方には「頭塔」が

天神社について
 草 創  承保5年(1078年)
 御祭神  少彦名命    別名「手間天神'(てまのあまつがみ)」
  相殿  菅原道真公

瑜伽神社が近くにあります。飛鳥神奈備が平城奠都とともにこの地に移り、
この周辺を「平城の飛鳥」と呼んだという。
瑜伽神社、もとは元興寺禅定院の鬼門除鎮守の社で、
後に興福寺大乗院が山麓に建ち、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けたところ。
ところで、この奈良天神社の後日談となりますが、高台にある神社・・・
実は、この辺りの丘陵に「丘城」が築かれていた場所だと知りました。

気に留めていなかったのですが、「呉座勇一著・応仁の乱」に記述されていました。
奈良ホテルが建っている場所に「鬼薗山城(きおんざんじょう)」
今では道路を挟んで「西方院山城(さいほういんざんじょう)」が築かれていたとのこと。
応仁の乱」の産物だったらしい。
「鬼薗山城」は、現在遺跡としては残されていないが、荒池からホテルの建物をみると
お城が想像できそうです。
(荒池は後年灌水用につくられたもので、当時は崖の上の城)
応仁の乱の大和での戦場となり、興福寺大乗院の境内にあり、城の争奪戦の後、廃城。

他方、「西方院山城」は「鬼薗山城」の東、瑜伽神社の裏山に。
別名「瑜伽山城(ゆうがざんじょう)」とも言われ、曲輪、土塁、堀切、空堀が残っている。
城マニア以外の者には知られていないはずで、存城期間は僅か「3日間」。

瑜伽神社には改めて参拝し、「西方院山城」跡にも足を伸ばしたいと思っています。







奈良押熊町・常光寺「大聖歓喜天尊」特別公開

2022年06月07日 | 日記
秘仏・「大聖歓喜天尊」特別開扉
毎年6月6日に特別開扉されます。
コロナ禍もやや下火状態なので、小雨のなか拝観してきました。
当然ながら、堂内は「撮影禁止」なので写真で紹介できませんが・・・・・。

宗 派 真言律宗
総本山 勝寶山 西大寺
大本山 生駒山 宝山寺
 塔頭 篠尾山 常光寺 
      (真言律宗単立と紹介しているものもあります。)


先ずは、頂いた拝観案内を
 

 

 

案内書によると本尊・大聖不動明王像、秘仏・大聖歓喜天尊像、弁財天像、鬼子母神像、愛染明王像
画像・不動三尊など「生駒山開山 宝山湛海律師の手によるものが多く見られます。        


御朱印

拝観順路と諸仏説明書                
大聖歓喜天を中央に取り巻くように狭い堂内に満席?
拝観には助かります。              
  

通称「聖天さん」と呼ばれていますが          
「聖天」とは略称であり、               
大聖➪「聖」  歓喜天➪「天」            
正式には「大聖歓喜双身天王」と言います。       
また、大聖歓喜天・大聖歓喜大自在天・象鼻天・天尊とも。

聖天様は男天と女天の双身です。          
男天の起源は、インドはヒンドゥー教のガネーシャ神であり、
女天は仏教の十一面観音(化身)です。           
双身で仏教に帰依された、神様というわけです。      
像のお姿から「愛合、夫婦和合」の神ともいわれています。 
秘仏 人身象頭双身 双身歓喜天
  
秘仏想定・・・記憶を頼りに・・・(ほかのブログ画像より)

  
こちらは秘仏ではありませんので「パチリ!」 
陶器の和合人形と陶器の象の行列 


山門はなく、入山案内のみで参道に続く

  
  参道           正面         振り返ると

 




 

  

  

 
西門

  


西門を出ると「辨天池」


裏参道から回ると

 
  天神社        庫裏の鬼互

  
裏参道の案内       野仏

  
   裏参道付近の「ブラシの木」       色付いた「ウメの実」








京都出町・妙音堂

2022年05月19日 | 日記
出町と言えば、高野川と賀茂川が合流地点で水の都を象徴する光景が見られます。
子供の頃から見覚えのあるのが、種苗園芸店と小さなお堂。
散策の途中、立ち寄りました。

  
賀茂川上流             鴨川下流

 
左 賀茂川 右 高野川 合流点・三角州(デルタ)

  
高野川欄干      賀茂川・鴨川の架橋名    「鯖街道口」石標


「青龍妙音弁財天」

宗派 臨済宗相国寺派 大本山相国寺塔頭 大光明寺飛び地境内
 本尊 「青龍妙音弁財天画像」(伝空海筆)           

 

『 本殿の本尊は青龍妙音弁財天画像で、西園寺公衡(1264~1315)の長女西園寺寧子(大光明院殿・広儀門院)が、
第93代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、   
光厳、光明、崇光天皇と伝承されて来た霊像である。                                
その後享保年間、伏見宮家第14代貞建(さだたけ)親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、  
同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、         
再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。                                     
世に伏見御所の弁財天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の勝益をもたらすものである。』    

 


本堂 本尊 弁財天像


本堂前立の「己」

  
六角堂(本堂裏)
本尊 絹本着色「青龍妙音弁財天画像」安置
(本尊画像は御朱印左下にうかがえます


御朱印.


「京洛七福神」の一つ 弁財天

 
境内には、豊川稲荷陀枳尼天が祀られています


弁財天はインドの神様で仏教の守護神(仏様)ですから、弁財天がまつられる所は、
お寺のはずです。でも、妙音弁財天の正面には鳥居があります。        
お寺と神社のどちらなんでしょうか。 正解は「お寺」です。         
現在、妙音弁財天は相国寺の飛び地になっていて、入口にこそ鳥居がありますが、
中は仏教式になっています(鈴でなく鉦を鳴らして拝む。線香台があります)。
ただし、弁財天は、一般的に仏教と神道が混合した形で祀られていて、     
   明確に線が引けるものではありません。  (出町観光ページより)          


  
六角堂本尊「青龍妙音弁財天画像」 本堂本尊「弁財天像」
(ブログの転載画像のため不鮮明ですが・・・)


掲額の相国寺有馬頼底管長による御朱印

参考 賀茂川鴨川架橋名前
柊野堰堤 庄田橋 志久呂橋 賀茂川通学橋 西賀茂橋 御園橋 上賀茂橋 
北山大橋 北大路橋 出雲路橋 葵橋 出町橋
賀茂大橋 荒神橋 丸太町橋 二条大橋 御池大橋