パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

櫛まつり(安井金毘羅宮)

2017年09月28日 | 日記
時代風俗の着付けと 結髪の正しい伝承を目的として京都美容文化クラブが設立され
櫛まつり実行委員会が設置され 時代風俗行列を交えたお祭りとして発展してきました。

先ず、安井金毘羅さんで、お使い古した櫛やかんざしに、感謝を込めてお清めし供養する神事が斎行されます。。
昭和36年9月に境内北側に久志塚(櫛塚)が建立されてより、女性の命である髪の美しさを引き立てる櫛をお祀りし、
女性の美容美顔美髪にご利益があるとされています。
午後1時より塚の前で神事が執り行われ、寄せられた櫛などを塚内へ納め、拝殿で地唄舞「黒髪」が奉納されます。
長い黒髪を櫛削りながら 恋しい人に捨てられた女の淋しさが舞われます。
2時頃より、京都美容文化クラブより、伝統の髪型と風俗衣装の解説の後、時代風俗行列が神社周辺祇園界隈を練り歩きます。
古墳時代から現代の舞妓の髪型まで、伝統の髪型は全て地髪で結い上げられるそうで、大変習熟した結髪の技術を要します。
伝統の髪型が現代に再現されています。
東大路の鳥居前から出発、祇園石段下、白川通り、大和大路から白川沿いに、巽橋辺りで休憩、花見小路「一力亭」、祇園甲部歌舞練場前を経て金毘羅宮に戻ります。
日本髪の美しさと結髪技術のすばらしさ、京都らしい町並みの祇園界隈を進む時代絵巻、「女時代祭」そのものです。


駒札


本殿


くし(久志)塚前の祭壇

 
埋納される櫛など      神饌

時代風俗と髪型の女性達の入場
  

 

 
舞妓の髪型と襟足      武家娘の髪型と襟足
       

髪型とともに襟足にも様々な形が…


 
宮司による神事


献花された花で祭壇が華やかに

奉納舞 地唄舞「黒髪」
 

時代風俗行列
      


八坂神社・石段下①


八坂神社・石段下②

 
新橋通り元吉町のお茶屋さんの前を進みます

 
白川沿い…       木陰で一息

 
四条花見小路の「お茶屋 一力亭」前を進みます


今年の「顔見世興行」は南座でなく岡崎で

時代行列は、古墳時代から、大正時代までの髪型、衣装で、配布された資料(技術者の出展名)によると、
 古墳時代 ①みずら(男) ②古墳島田(女)
 奈良時代 ③高髻髷  ④双髻髷
 平安時代 ⑤白拍子 
 鎌倉時代 ⑥虫の垂れ衣 ⑦侍女
 室町時代 ⑧巻き髪
 桃山時代 ⑨唐輪
 江戸時代前期 
      ⑩元禄島田  ⑪元禄笄髷  ⑫元禄勝山髷  ⑬玉川島田  ⑭お梶
     中期
      ⑮笄髷中村蔵之助の妻  ⑯春信風・島田  ⑰横兵庫  ⑱円山鬢・笄髷
      ⑲円山鬢・島田 ⑳円山鬢・丸髷  ㉑葵髱・つぶ髷
     後期
      ㉒葵髱・下げ上げ  ㉓葵髱・片はずし  ㉔長船(武家母親)  ㉕勝山髷(武家姉娘)
      ㉖奴島田(武家妹娘) ㉗両輪(町家母親)  ㉘先笄(町家若嫁)  ㉙娘島田
      ㉚おしどり(町家)  ㉛おそめ(町家)   ㉜お俊(町家)    
      ㉝稚児髷      ㉞割り鹿の子    ㉟布天神      ㊱丸髷
 明治時代 ㊲花嫁       ㊳芸鼓       ㊴桃割れ
 大正時代 ㊵花嫁色直し
 奉納舞踊 ㊶西川流先笄

41人のモデルさん(美容学生さんも含む)が衣装をまとって歩かれました。暑い中お疲れ様でした。
しかも、モデルさん達は「地毛結い」とのことで驚きです。

髪型の読み方も難しい…「髪」の絡んだ漢字が出てきます…
髷(まげ)    髪を束ねたり結ったりして頭頂に髻(もとどり)をかたどった、日本の伝統的髪型。
  
髻(もとどり) 髪の毛を頭の上に束ねた所。たぶさ。
鬢(びん)   耳ぎわの髪。また、頭髪の左右側面の部分。
髱(たぼ)   日本髪で、襟足にそって背中の方に張り出した部分。

笄(こうがい) 本来整髪具だが,江戸時代の女性用髪飾りの一。
        髷(まげ)などに挿す。金・銀・鼈甲(べつこう)・水晶・瑪瑙(めのう)などで作る。

女性の髷を構成するのは「髷(まげ)」、「髱(たぼ)」、「鬢(びん)」、そして「前髪」の四つの部分です。
髷は古くは「わげ」といい髪をわがねるという意味をつめて言ったものだそうです。
同様に髱は後頭の髪がたわめられて癖がついた様を表現したもので、はじめは「たわ」と言ったものが「たぼ」に転訛したものだそうです。 上方では一般に「つと」と言いました。 (EDONONIHONGAMIより)

作品の髪型は、史料が多くあるせいか、江戸時代のものが多くありましたが「遊女」から始まったものが多いようです。
江戸時代の主なパターンを調べてみました。
兵庫髷 遊女を代表する髪型
島田髷 日本髪の代表とも言える髪型になりました。現代の花嫁が結う文金高島田もこの系統に属します
勝山髷 勝山髷は形を変えて「丸髷」と呼ばれるようになり、一般女性の髪型として急速に広まっていきます。
    幕末には既婚女性の髪として定着し、「丸髷に結う」といえば結婚を意味する
笄 髷 代表的な笄髷の一種である「先笄(さっこう)」は、上方で若い女性の髷として結われ、新婦の髪として定着。
    江戸の「丸髷」に対して、上方の既婚女性の髷として、近代まで長く愛好された。

髪型の名前は「島田」「丸髷」「桃割れ」など聞き覚えがありましたが、歴史物映画、TVなど見たときの楽しみができました。






 
  

堀川通り散策

2017年09月24日 | 日記
紫式部、小野篁の墓の隣に赤穂義士遺髪塔跡の…碑が…。



 




この辺りは(堀川鞍馬口)元「瑞光院」の境内で、赤穂義士遺髪塔があった場所とのこと。

由来によれば、
『元禄15(1702)年12月、赤穂浪士吉良邸に討入 本懐を遂げし後、翌年2月に義士四十六人が切腹する2日前、瑞光院々主の 使僧、栄海禅師は細川、松平、毛利、水野の四家の大名に預けられた四十六人から髷の髪をもらい受けた。
帰京後、大石内蔵助良雄の遺志により主君、浅野内匠頭長矩候の墳墓の傍に四十六士の遺髪の甕の器に納めて埋め、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。石塔には四十六人の姓名と戒名が刻まれている。
義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。
この遺髪塔は昭和37(1962)年,当地より山科に移転した瑞光院において現在も祀られている。』

瑞光院
 慶長18(1613)年浅野長政候の旧蹟地に因州(鳥取県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛候が、大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。明暦3年山崎家断絶後、第二世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩候の内室瑶泉院と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、赤穂浅野家の祈願寺となる。元禄14(1701)年3月長矩候江戸城において、吉良上野介への刃傷におよび浅野家は断絶となる。同年8月大石良雄當院に長矩候の衣冠を埋め亡君(冷光院殿)の石塔を建立し、以後墓参の都度同志密議の処とした。
(瑞光院由緒より) 平成17年12月13日


「義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。」とありますが、四十七士ではなかった?
泉岳寺にある四十七士の墓では、赤穂浪士は「刃」「釼」のついた戒名ですが、寺坂吉右衛門の戒名は、「逐道退身信士」となっていて、いかにも逃亡した人物というような戒名となっています。本懐後、姿を消し切腹していないのは事実のようで、「逃亡説」や「密使説」があったようですが、最終的には自首したが、 幕府の処分は受けず,のち姫路藩士につかえ,晩年は江戸麻布曹渓寺の寺男となった。延享4年10月6日死去。83歳。名は信行。意識の中では、大当たり狂言の「忠臣蔵」と史実が混同していますが 、武士道では「切腹」は武士としての名誉を保ちつつ自身の命をもって責任を取るということ。武士としての「崇高な死に方」と言われており、諸事情もあった中、「足軽」の身分と言われている「寺坂吉右衛門」には、「切腹」が与えられなかったのかも…。諸説の史料もあるようですが、「忠臣蔵」的には、浅野大学への本懐速報「密使」説が映えますね?

「刃」「釼」のついた戒名
当時の住職が、碧巌録の傑出した人物を表す箇所で『滑り易い氷の角でも平気で歩くことも、油断すれば足を切るような剣刃(やいば)の上を行くような常識で考えられない働きも自由にできる』「不可能なことを成し遂げた」というところから「刃」と「劔」の文字を、戒名に使用したとのことです。(ブログから転載)尊称として戒名に使われているのですね…。

紫式部・小野篁の墓所

2017年09月16日 | 日記
堀川北大路から堀川通りを今出川まで散策していると…
島津製作所紫野工場の一角に狭い通路に「紫式部墓所」の墓標があり、季節柄「ムラサキシキブ」が少し覆うように垂れていました。


参道を進むと…

紫式部の墓


前に墓石と後ろに石塔その間は少し土盛りがあります。


顕彰碑

何故ここに墓所が?紫式部と言えば、住居跡とされる「蘆山寺」、源氏物語を構想したと言われる石山寺が有名ですが…没年については、「顕彰碑」には『長元四年(1031年)とする説が有力である』とあり、紫式部の墓は、『「河南抄」その他の古記録は、雲南院の塔頭の白毫院の南、すなわち北区紫野南御所田町に存したと伝えてゐるが、この所傳には信憑性が多い』とあります。また説によれば、此の地は、比叡山東塔竹林院の里坊「安居院」の周辺にあたるとされ、終焉の住居地から推定されているようです。
が、史実検証はその分野に任せておけばいいと思いロマンに浸りました。

*雲林院は紫式部が晩年を過ごした寺と言われ、「源氏物語」第10帖「賢木(さかき)」の巻では「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで 給へり」と記されており、紫式部墓所もかつて此の境内にあったと言われています。




紫式部の墓の隣に「小野相公」の墓


入口は紫式部墓所の参道の横「小野篁卿墓」


「小野相公墓」


「参議小野公塋域碑」

自分では判読できないので、ブログに載せられておられる方の大意を再掲します。
『慶応四(1868)年の夏,わたし(筆者金田清風)は金沢藩家老の横山様に従い京都へ出張した。ある日横山様がわたしに語ったことは「わが家は小野篁公の子孫である。臣下に下った者のうち,子孫が現存している家は数少ないが,幸いにわが家は前田家という大大名に仕え今日に至った。ひとえに先祖のおかげである。しかし篁公は遠い先祖であり,その葬られた土地が判らないのが残念である。京都の西の郊外に墓があるとは聞いたので,本家の子である隆淑に捜しに行ってもらったところ,紫野にあることをつきとめた。年来の願いがこれで果たせた。そこで記念する石碑を建てたいが,あなたにその文を作ることをお願いしたい」と言われた。わたしは承諾したが,果たさないまま金沢に帰ることになった。
 翌年,石碑を建てる準備が整い,いろいろと調べてみると,墓は野原の中に久しく放置され,ろくに保存もされていない。ここだということを示すような石碑もないありさまである。ただ寛政年中(1789~1801)に秦なにがしという人が残念に思い「小野相公墳」と記した石標を建て,墓への通路を作り,始めてそれと判るようになった。
 墓は塚の西北の一角がなくなっていて,あたかも二つの塚があるように見える。そこで近くの人々は一方が小野篁公の墓で,一方は紫式部の墓だと言うようになった。そもそも篁公と式部は時代も違えば,たがいに関係のない人物である。こういう説はいっこうに理屈に合わない
 ここに石の柵を新たに作り,きちんとした通路を作り,お参りする人にもはっきり判るように墓地を補修した。これ以降は墓が荒らされるようなことはないであろう。しかし古いありさまを改めることはしていない。ただ秦氏の建てた石標を墓所への入口へ移しただけである。横山様が墓所を補修できたのも先祖のおかげだが,秦氏の功績も忘れてはいけない。秦氏が何者かは明らかではないが,さだめて徳のある人格者であろう。
 これ以降,秦氏のような人々がかわるがわる墓の面倒を見ていけば,墓は将来にわたり保存されていくであろう。横山様が碑文をわたしに依頼したのも,この志があるからであり,わたしが未熟でありながら,あえて引き受けたのもこのゆえである。横山様は名は政和,篁公の四十四世の子孫,本家の隆淑は四十六世の子孫である。』

朱書したところは、二つの墓について、篁一族の見解による謎の提起かな…式部の墓はあとから建てられた…。
少なくても、慶応五年には同じ場所に墓が在ったことは確かだし、篁853年、式部1031年、と篁が早く亡くなっているのも確か。
雲南院の塔頭の近くに式部の墓が在った説の場所がどのように重なるのか…
紫式部は源氏物語において,煩悩の世界を描いたことで、死後地獄に落ちたと言われていた…一方で小野篁は閻魔大王のもとで裁判の補助をしていたと言われ、「六道皇珍寺」の井戸から、あの世とこの世を行き来していたという伝説があります。
そんなこんなで、地獄に落ちた紫式部を小野篁が閻魔大王に取り次いで彼女を地獄から解放した、というのが彼女のお墓が小野篁の隣にある理由だとする説も。
秀吉の京都市街大改造で多くの寺院などが移転しており、式部の墓も移転の折、意気な計らいで、源氏物語で有名な紫式部の、極楽往生を願って墓が移されたのではないだろうか…?


*「相公」;宰相・相公は、参議の中国風の呼び方で、篁がこの職にあったことから、
そのように呼ばれます。相公は宰相公を略したもの

興福寺中金堂「法相柱」展

2017年09月01日 | 日記
大阪難波高島屋で開催中の「興福寺の寺宝と畠中光享展」に行ってきました。
 


300年振りに再建中の中金堂の柱は、14本で西第一柱を、特に「法相柱」と言い、
高さ10m、周り2.45m(直径約80Cm)もありますが国内では採れず、
カメルーン産「アフリカケヤキ」とのこと。
この「法相柱」に法相の教義「唯識」を確立し発展させったの十四祖師の画で祀られるのです。
中金堂が完成し、絵が柱に貼られると十四祖師画像は殆ど見ることができないそうです。
この祖師像を奉納されたのが画家で、印度佛教研究家の「畠中光享」画伯。

14祖師は、4,3,3,4祖師の四段に分けて貼られるそうです。

 

上段
 ②解脱上人 ③権別当蔵俊 ④真與上綱 ⑤別当行賀
 
  ②解脱上人は勅謚号 貞慶(鎌倉時代)法相教学の確立
  ③権別當蔵俊 鎌倉時代初期における興福寺の法相学匠はほとんどが蔵俊の門流
  ④真與上綱 ?
  ⑤別當行賀 唐に渡り31年間唐にとどまり、唯識・法華の両教学を学んだ

二段目
 ⑥善珠僧正 ⑦玄昉僧正 ⑧濮陽大師

  ⑧濮陽大師 中国法相宗二祖
  ⑦玄昉僧正(奈良時代)学僧として入唐、濮陽(法相二祖)に法相を学ぶ
  ⑥善珠僧正(奈良〜平安時代)玄昉に師事、法相、因明に通じた

三段目
 ⑨淄州大師 ⑩慈恩大師 ⑪玄奘三蔵

  ⑧〜⑪は中国の僧
  法相宗唯識教学の根本は、印度から
  ⑪玄奘が中国(唐)に持帰り、門下第一の
  ⑩慈恩大師がまとめ上げ、法相宗を開創(法相初祖)
  ⑧濮陽大師(法相二祖)、
  ⑨淄州大師(法相三祖)と言われている。

四段目
 ①戎賢論師 ⑫護法論師 ⑬世親菩薩 ⑭無着菩薩

  いずれも印度の僧で、無著、世親が法相宗唯識教学を大成し、
  戎賢、護法により発展
  ①戎賢論師 護法に師事して唯識を極め、「正法蔵」と尊称される。
  ⑫護法論師 古代インドの大乗仏教の僧であり、唯識派の学僧。唯識十大論師の一人。
        世親の『唯識三十頌』を護法が注釈した学説は、弟子の戒賢から玄奘を通じて
        その弟子の慈恩大師基の『成唯識論』によって後世に伝えられた。
  ⑬世親菩薩 古代インド仏教瑜伽行唯識学派の僧で、無著の弟 は説一切有部から唯識派に転向して大成
  ⑭無着菩薩 インドの大乗仏教唯識派の学者で唯識思想流布の端緒


 法相教学の法脈を辿って構成されています。
 玄奘三蔵により、印度から中国(唐)、慈恩大師により中国法相宗が開創され
 玄昉はじめ唐への留学僧により高僧に師事し、奈良、平安時代に日本にもたらされ、
 鎌倉時代、解脱上人(貞慶)により我が国の法相教学が確立したと言われています。
 「法相柱」はまさに法相教学の積み上がっていく様子が表されているのですね。

 会場には、畠中画伯もおられ、お話しをさせて頂く機会もあり感激の鑑賞となりました。
 『無著・世親像は、北円堂の仏像を参考に、例えば無著像の手にしている袋の中には、
 何が入っているのか…と想像し、「舎利」との想いで、舎利を手にした姿にした…。』等。
 (チラシの表紙を飾る無著菩薩の指先の白い粒が舎利とのこと。)

興福寺会館会場の入場券も舎利を手にした無著菩薩

 14祖師の全てに散華が舞っている意味とかをお聞きしたりしました。
 祖師画の他にも代表作、新作も展示されていましたが、「雲上散華」という作品があり
 天女が雲の上から華を撒いている…、お話しの後もう一度見直しに行きました。

おまけ…
 興福寺の寺宝の一つとして「大織冠画像」が展示されていました。

  

写真中央の大きな人が鎌足です。小さい方の右が貞慧(長男)、左が不比等(二男)です。
談山神社の「多武峰曼荼羅」の構図と同じ感じです…。

 法相教義の祖師ですが…、
 興福寺曼荼羅に名前が記されているのは…
 無著菩薩、世親菩薩、護法菩薩、陳那菩薩、戒賢論師の印度五祖師
 玄奘三蔵、慈恩大師、淄州大師、濮洲大師の中国四祖師
 善殊僧都、玄寶僧都、行賀僧都、基操大徳、信叡大徳、常騰僧都、真與僧都の興福寺七祖師

 また、南円堂の法相六祖師座像は…
 常騰、神叡、善殊、玄昉、玄寶、行賀

(写真は全て展覧会チラシを加工)
(資料は主としてウィキペディア等を参照)
(祖師の尊称は引用の都度、資料に従ったので不統一です)
(*「真與上綱」については調べきれませんでした)
(H29.6.26 奈良会場のブログも参照ください)