パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

清浄華院での畳供養

2015年04月29日 | 日記
駅の案内PFで「畳供養」が行われるとのことで行ってきました。

4月28日は春の「畳の日」。秋にも9月24日が「畳の日」だそうです。
その28日、「畳寺」(執事のお話では、畳産業振興会が名付け親?)と言われる「総本山 清浄華院(しょうじょうけいん)」で、畳に因んで2012年から、『古い畳には大切な思い出が染みついているから、丁寧に処分してほしい』という声から供養が行われ始めた新しい京都での行事。今年から京都市の後援となったそうです。
「畳寺」…
清浄華院の大殿は、通常板敷である内陣が畳敷きとなっている。これは江戸時代に大殿が御所の建物の下賜を受けて再建されるのを例としていたため、居住空間であった名残であると考えられている。こうしたこともあり畳と縁深く、全国畳産業振興会より畳供養の法要を依願され、平成25年より毎年春に勤められている。また宗内では比較的珍しく内外陣の境に段差があるのも、貴人の住居であった名残り、あるいは皇族参拝のために格式を設けたものという。《ウィキペデイア》



大殿(内外陣に200畳敷き詰められている)


勅旨門
法要は、振興会会長、京都市(副市長)、清浄華院執事の挨拶に引き続き始まりました。
通常の護摩壇と異なり、四つの古畳でつくられた火炉に、古茣蓙を丸めて組まれた壇にたいまつで点火、読経の中、畳職人さん達が、家内安全、商売繁盛などの願いを書いた「畳の切れ端(護摩木に変えた)」を僧侶たちが入れ、白い煙が立ち上り、境内はイ草のにおいに包まれました。




法要が終わって記念品をいただきました。
畳の縁で創られた「お守り入れ」と「刷毛のような卓上箒」のようです。
 


生活様式が変わり、絨毯、フローリングでの生活のウエイトが高まってきていますが、新しい畳の匂いを嗅ぐと、日本人であることを再認識して安堵する人も沢山おられると思うのですが…
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もう一つの東寺

2015年04月21日 | 日記
東寺の「弘法さん」は毎月21日に「市」が開かれ賑わっていますが、平日に立ち寄ると、参詣者も少なく静かな東寺をゆっくりと散策できます。縁日では見落としていたポイントがありました。大きな柳の木の元に
『伝 小野道風ゆかりの柳 歌舞伎 小野道風青龍硯 「柳ヶ池蛙飛の場の舞台より」』の案内板
歌舞伎の演目では余り耳にしたことがありません…

ウィキペデイアによると
『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり)とは、義太夫浄瑠璃の作品で歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦4年(1754年)10月に大坂竹本座にて初演。竹田出雲・吉田冠子・中邑閏助・近松半二・三好松洛の合作。

初段[編集]
(大内の段)陽成天皇の御代のこと。隠岐島へと流罪となり、その地で没した小野篁の遺児道風と頼風は零落し、折からの大極殿造営に大工として出入りしていたのを見出され、それぞれ公家と武士に取り立てられる。

二段目[編集]
(東寺門前の段)五月の雨降る中を、頼風と女郎花姫が相合傘で道行する。道風は公家姿で下駄を履き傘をさしてひとり散策する途中、蛙が高い柳の葉に飛びつこうとしてついには葉につかまる様子を見て、早成の反逆も実らぬことと油断してはついには成就してしまうと悟る。そこへまた早成抱えの相撲取りたちが現れ道風に挑むが、道風に難なくあしらわれて逃げる。そのあと駄六があらわれ、早成に一味せよというも道風は返答しない。ならば腕づくでと駄六は道風と立回りとなるが、最後は川に投げ込まれる。これより早成のところへ行き、一味になるかならぬかは直接話そうと道風はその場を去っていった。



花札の「柳に小野道風」
花札をしたことがある者ならば、枝垂れ柳の下に蛙と傘をさした公家姿の人物が描かれた札は見覚えのあるものであろう(ただしこの図柄は明治以降になってからのものらしいが)。その原拠はこの『小野道風青柳硯』にあるといってよい。もっとも小野道風が柳の枝に取り付く蛙を見て思うのは、本来は筆の腕が上がらぬわが身を省みることであるが、柳の葉に掴まろうと何度も飛び上がり、最後にはそれを成し遂げる蛙の様子に、思わず傘を落として驚く道風。
この作品では、橘早成の謀反が成功する恐れがあることに気づかされるというものである。橘早成のモデルとなったのは三筆のひとりとされる橘逸勢であり、小野道風も三蹟のひとりとしてともに能書とうたわれる人々であるが、浄瑠璃作者の手にかかると天下を覆す大悪人となったり字が書けなかったりと、思わぬ設定を負わされることになる。ことに立ち居振舞いの優美であるべきお公家様が大力を誇り、相撲取りなどを相手に大立回りをするという趣向が奇抜である。歌舞伎で二段目口に当たる場面(俗に蛙飛びの場という)だけがのちのちまで残ったのも蛙の故事だけではなく、その奇抜さによるところが大きかったともいえよう。なお記録によればこの二段目の口は、当時浄瑠璃作者としてはまだ若手だった近松半二の執筆であると記されている。

しかし花札の図柄としての知名度とはうらはらに、この作品自体は現在ほとんど上演されることがない。宝暦4年の初演以降、翌年の宝暦5年(1755年)には京都と大坂で歌舞伎に移され上演されており、江戸でも宝暦8年(1758年)の中村座において、四代目市川團十郎の道風で上演されている。しかし現在は文楽のほうではもはや演目としての上演は絶えているようであるし、歌舞伎においても古くは蛙飛びの場を上演する際は、次の場面の道風館もあわせて出すのが普通だったが、大正10年(1921年)5月の大阪中座での興行以降、道風館は上演されていない。ちなみにこの大正10年の時の役割は、道風が初代中村鴈治郎、駄六が四代目片岡市蔵、頼風が林長三郎、健宗が初代市川箱登羅、法輪尼が二代目中村梅玉であった。その後は初代中村吉右衛門の道風で蛙飛びの場だけが上演されることもあったが、近年の東京では平成20年(2008年)に歌舞伎座で上演されるのみという希少さである。歌舞伎の演目としては今後もめったに出ないものといえる。

このような来歴のある「舞台」。雨の降る日に、傘を差して柳の傍で佇んでみては…

因みに、名古屋、大須にある青柳総本家は、尾張徳川家17代徳川慶勝から「青柳」の家号を受け、明治12年創業の「青柳ういろう」にも「柳と蛙」のマークが印されています。

境内散策

宝 蔵





北 大 門
 

善 女 大 龍 王



弁 財 天 堂


不 動 明 王


大 元 帥 明 王 堂


大元帥明王堂近くの八重桜

コメント
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