パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

眉刷毛万年青

2021年10月19日 | 日記
今年も眉刷毛万年青が3つ咲きました。

 ヒガンバナ科マユハケオモト属
 学名:Haemanthus albiflos
 別名:ハエマンサス(ハエマンサス・アルビフロス)
 アフリカ原産で,眉刷毛というのは,白粉を塗った後に眉毛などについた白粉を払うためのハケだそうです。
ネギ坊主のような花がつきます(ユリ科ではありません)。
 たくさんの白い雄しべの先に黄色の葯がついています。



  

 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原京跡・コスモス

2021年10月19日 | 日記
奈良にはあちこちでコスモスの花を見ることができます。
阿部の文殊院、元中宮寺跡、法起寺、馬見丘陵公園・・・
でも、藤原京跡のコスモスはスケールが凄いのと、景観。
大和三山また藤原京を取り囲む外周の山々。

大和三山とは
畝傍山  198m 西
耳成山  139m 北
天香久山 152m 東
何れも低い山で南が開けているのが藤原京。

藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城。
持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年。
新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ
中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。

京の規模は、最初は大和三山に囲まれた地域と考えられていましたが、
発掘調査によりその大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、
10里四方(1里は約7㎞)の京域(都の範囲)に、
東西10の条坊(碁盤の目のように区画した街の道すじ)を備なえた、
大規模な範囲に広がっていたことが解ってきました。
平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。

藤原京の中心が藤原宮です。都の中央約1km四方を占め、まわりは高さが5.5mもある瓦葺きの塀が巡り、
各辺には門が3ヶ所ありました。そして、塀に平行して内堀と外堀がつくられていました。
藤原宮の内部は、中央に政治・儀式の場である大極殿
貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、
大極殿の北は天皇の住まいの内裏でした。
大極殿と朝堂は宮殿で初めての瓦葺きで、礎石の上に柱が立つ建物です。


藤原京跡は現在でも発掘調査が行われ、確認された建物跡には柱が復元されています。


 



 
耳成山

            
畝傍山                                    天香久山

  



   
         二上山                     金剛山・葛城山遠望&畝傍山

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日出づる処の天子 聖徳太子」

2021年10月12日 | 日記
今年は、 聖徳太子1400年御聖忌ということで、聖徳太子縁の寺院では様々な法要が行われています。
法隆寺、叡福寺の法要、生誕の橘寺など巡ってきましたが、来春まで法要は続きます。

(四天王寺HPより)

大阪市立美術館の「日出づる処の天子 聖徳太子」特別展に行ってきました。


展示は5つのテーマに分けられています。

第1章 聖徳太子の生涯 太子の面影を追って

       第2章 聖徳太子信仰の広がり 宗派を超えて崇敬される太子

           第3章 大阪・四天王寺の1400年 太子が建立した大寺のあゆみ  

       第4章 御廟・叡福寺と大阪の聖徳太子信仰 太子が眠る地

              第5章 近代以降の聖徳太子のイメージ・・・そして未来へ つながる祈り

  

  
(写真は日経新聞よりコピー)


聖徳太子といえば、「一万円札」と連想する世代、教科書に載っていた
「聖徳太子及びニ王子像」を思い出します。
しかし、今ではこの像の絵がどこで、いつの時代に描かれたものか決着しておらず、
文部省の新学習指導要領で、『社会科では歴史研究の進展に合わせ、小中学校で用語の表記を変える。
『「聖徳太子」は小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に変更。』               
小学校では人物に親しみ、中学校では史実を重視する観点から表記を入れ替えている。
聖徳太子は死後につけられた称号で、近年の研究では厩戸王に当たる可能性が高いとされている。

今回の展示物では、縁の寺院の所蔵する「絵図」が多く展示されていますが、
四天王寺の「絵堂」の絵を、僧侶の絵説きを何度も聞いていましたが、
展覧会展示物や所蔵する寺院で、京都人として興味深く思ったことがありました。

1.紫雲山 頂法寺六角堂・池坊・小野妹子
紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、
 一般に「六角堂」の名で親しまれている。
 開基は、聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子が山城国愛宕(おたぎ)郡の杣(そま)に入った。
 夕方、御持仏「如意輪観音」を多良の木に懸け、泉で沐浴をされた。
 浴後枝にかけた持仏が木から離れず、光をはなって
「我は汝の本尊となって七世を経たがここ衆生に利益をあたえるにふさわしい地であるから
 御堂を建てて欲しい」というお告げがあり、この地にお堂が建立されたと伝える古跡です。
 霊告によってこの地に御堂を建て、同道した小野妹子に太子持仏の如意輪観音を本尊として
 これを守るよう命じたという。
「小野妹子専務」と称し六角堂最初の住職となった妹子は、
 朝夕、仏前に花を供え始めたことがのちの華道の祖とされました。
 その後、歴代住職である「池坊」は仏前への花の添え方を工夫し続け、
 以来、代々家元は「専務」から「専」の一文字を取って受け継いできたとされる
 華道「池坊」が現在に至っているということです。(池坊「華道の祖」伝承)
                            
 小野妹子と言えば「遣隋使」と習いましたが、池坊との関わりがあったのですね。
 今では、六角堂の後方の池に「太子堂」が建てられています。

2.絵伝中「山城楓野に行幸」と広隆寺
 廣隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立された山城最古の寺院であり、
 四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の1つです。
 日本書紀にも建立の件が載っている。
  七大寺
   1.法隆寺 2.広隆寺 3.法起寺 4.四天王寺 5.中宮寺 6.橘 寺 7.葛木寺
   (斑鳩寺)(蜂丘寺)(池後尼寺)      (尼寺) (誕生地)(尼寺) 

 聖徳太子が楓野別宮(かえでのべつぐう)を起こされた所と伝えられている。
 広隆寺縁起によると、聖徳太子が大和の斑鳩の宮において、秦河勝(川勝)に次のように語られた。
「わたしは昨夜不思議な夢を見た。これより北に十里余りを過ぎると一つの里に至る。
 楓の林がおい茂り香りが香ばしく満ちている。
 その林の中に大きな桂の枯木があり、そこには五百羅漢が集まりお経を読んでいる。
 又、天女が飛来し、妙香、妙花をもって羅漢に供養をしていて、その枯木より光を放ち、
 微妙の声で仏法を説いている。
 秦河勝はその夢の土地は我々の住む葛野(かどの)の事であると申し上げると
 太子はすぐにその土地を見に出かけられた。
 確かにそこには楓林に大きな桂の枯木があり無数の蜂が飛んでいた。
 太子の目にはそれが羅漢に見え説法をするように見えたのである。
 そこで太子はここに仮宮殿を造られ、これを楓野別宮と名付け、後に寺に改め桂宮院と称された。

 この秦河勝(川勝)は、聖徳太子に同動し、物部氏との合戦で守屋を仕留め、曽我氏陣営の勝利に貢献した人物。

3.聖徳太子の予言と平安京
 「未来記」によると
 「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかってない壮麗な都になり、
 戦乱を十回浴びてもそれを越えて栄え、一千年の間、遷都はないだろう。」

 太子が25歳の頃、宇治(現在の京都府)を旅した際に予言したものである。
 そこには、桓武天皇によって794年に平安京がつくられ、以降、1000年に渡り都として栄えることを、
 見事に予言されている。                (『聖徳太子「未来記」の秘予言』より)





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大寺 転害会秘仏特別公開開扉

2021年10月06日 | 日記
東大寺では、10月5日毎年「手向山八幡宮」とともに、八幡殿にて「転害会」が行われますが、
昨年同様、コロナ禍で規模が縮小され、転害門は公開されますが「神輿」もなく神事のみ。
東大寺勧進所の秘仏特別開扉は堂内入場数を制限しながらですが行われました。


国宝「僧形八幡神坐像」(八幡殿)
       重要文化財「五刧思惟阿弥陀如来像」(阿弥陀堂)
  重要文化財「公慶上人坐像」(公慶堂)

国宝「僧形八幡神坐像」
勧進所の門を入りそのまま真っすぐ進んだ先にある「八幡殿」に安置されている国宝「僧形八幡神像」は、建仁元年(1201年)に有名な仏師である「快慶」が造ったと伝わる像高87センチほどの「神像」であり、彩色もよく残されている大変美麗な像は、八幡神のお姿が神仏習合・本地垂迹説の影響により「僧侶」の姿で表現されている像となっています。なおこの像は、かつては東大寺八幡宮(現在の手向山八幡宮)にご神体として祀られていましたが、明治期の神仏分離によって東大寺の所有となり、この地に祀られる形となっています。

僧形八幡神坐像の造立にあたっては、快慶が造像を行ったとされるのみならず、南都焼討から東大寺を復興させた重源上人が造立させたとされているほか、後鳥羽天皇・七条院・八条院・仁和寺守覚法親王をはじめ多数の結縁者がいたとされており、墨書銘にはその名前が多数記されています。


  

重要文化財「五刧思惟阿弥陀如来像」
勧進所内「阿弥陀堂」に安置されている鎌倉時代(13世紀頃)に造立されたとされる重要文化財の「五刧思惟阿弥陀如来像」は、悟りを開くために時間を費やしている間に伸びた「アフロヘア―」のような髪が特徴的な阿弥陀如来であり、どこか愛らしい表情にも感じられる像となっています。なお、近隣の寺院では「五劫院」にも似た像が安置されていますが、全国的には五劫思惟阿弥陀如来は作例に乏しく大変貴重な存在となっています。


 


重要文化財「公慶上人坐像」
勧進所内「公慶堂」に安置されている重要文化財「公慶上人坐像」は、この勧進所を拠点として勧進活動に精を出した「公慶上人」ご本人の像であり、宝永3年(1706年)に公慶上人の死を悼みその偉業を讃えるために遺弟である公盛により造立されたものとなっています。なお、造像は町仏師の性慶が彫刻を行いつつも、公慶上人の弟子である即念が「頭面」部分を彫り上げたとされており、全体として強いリアリティを感じさせる像となっており、弟子の強い思いを感じさせるものとなっています。


   
(写真、解説は、配布されたパンフレットによる)


  
勧進所の赤門を潜ると、右に舟形の手水所、左に鐘楼


勧進所の境内から大仏殿を望む


左に公慶堂、石畳に沿って進むと八幡殿の門

 
   公慶堂                    堂前に大きな栗の木が沢山実をつけていた


八幡堂、阿弥陀堂への門


八幡殿といえば「バラバラ心経」
鎌倉時代に東大寺の僧が大仏様やお堂を復興するために勧進を行っていたころ、
偽坊主が勧進と偽り横行するようになったことから、神道の語句と般若心経をバラバラに組み合わせて
僧侶に暗号のような経を読ませ、東大寺の僧かを証明するためにつくられたお経なのだとか。
「口伝」で東大寺の僧侶のみが唱えることができるそうです。
10月5日東大寺八幡殿では「僧形八幡神像」前での法要で唱えられているそうです。

(2017.11.5の「宇佐新興フェスタ」の際、東大寺中門前で東大寺僧侶による「迎講(むかえこう)」があり
「バラバラ心経」が唱えられ、般若心経…かと思いきや、聞きなれない読経を耳にしたことがありました。)


「指図堂」

法然上人二十五霊場の第十一番の寺
鎌倉時代に東大寺の復興に尽力された重源上人は、法然上人の推挙で大仏復興の大勧進職となりました。
かつてこの辺りは復興事務所ともいうべき勧進所が立ち並んでいました。
その時、中門堂跡地に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたお堂が建てられ、指図堂の名が付いた。

勧進所の東側に浄土宗の建物があり、
堂内には、墨染の衣で念珠を掛け合掌される法然上人(画像)がまつられている。
華厳宗東大寺の境内に浄土宗の寺院があるとは何んとも不思議な光景です。
建物は江戸時代のもので、正面五間、側面四間、広縁・向拝を配し、中央の正面には格子戸をはめているが、
正面左右に一間の大きな花頭窓(かとうまど)を設けてこのお堂の姿を特徴付けている。
また堂前には「圓光大師二十五霊蕩」の石標がある。
1791年の大風で倒壊した後、浄土宗関係者から「この地は法然上人ゆかりの霊場であるので、
上人の画像を本尊とするお堂を再建したい」との申し出があり、1852年に現在の指図堂が完成しました。
現在の指図堂が再建された経緯から東大寺は本来華厳宗であるが、
この指図堂だけ浄土宗と同じ法然上人を祀っています。
現在でも浄土宗徒による参詣が続いています。



指図堂


ご詠歌の扁額 
「さへられぬ 光(ひかり)もあるを おしなべて
 へだて顔(かほ)なる 朝(あさ)がすみかな」


ご本尊 法然上人画像


阿弥陀三尊像 正面に座すと目線が合います。そのため横から見ると前傾姿勢。


阿弥陀如来坐像


指図堂から勧進所門越しに興福寺五重塔を遠望


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北野天満宮・瑞饋神輿

2021年10月04日 | 日記
北野天満宮の10月1日の神幸祭に始まり4日の還幸祭
秋季例大祭ですが今年も新型コロナウイルスの関係で巡行は中止。
通称「瑞饋祭」と言われ、今年も本殿での神事のみですが、
巡行先の「北野天満宮(西之京)御旅所」では、周辺農家で育てられた野菜を飾り物に
「ズイキ」で屋根を葺いた「瑞饋神輿」が製作されていました。
元々、この御旅所は、幼稚園から大学まで住んでいた家の近くにあり、
境内や道路(上の下立売り通り・妙心寺道)に沿って出る「縁日の屋台」は楽しみでした。
久しぶりに「瑞饋神輿」を見に行ってきました。
屋台もなく、静かに神輿を見ることができました。
本殿には、鳳輦が座し、神幸祭が行われた状態でお詣りできました。


   神輿舎                 前面飾り 上・因幡の白兎 下・蛇足


 

     左側面飾り 上・九尾の狐 下・妖怪        右側面飾り 上・注文のない料理店 下・わに




後面飾り 上・スーパーマリオ 下・ハシビロコウ



瑞饋神輿説明板

 
屋根葺き 上・唐の芋(赤ズイキ) 下真芋(白ズイキ)  麦わら細工の千木と梅鉢紋

 
真紅 紅白千日紅・加茂なす型の鈴・麦わら梅鉢紋

 
     獅子頭 唐の芋の頭芋       すみ瓔珞 五色唐辛子・赤茄子他

瑞饋子供神輿

 
正面                   右側面


 
左側面                     後面

西之京御旅所
 
正面 鳥居&瑞垣

 
左右の狛犬

 
鳳輦の駐輦所


鳳輦  第ニ鳳輦  第一鳳輦  第三葱華輦

 
導山・猿田彦命                    お羽車

 
梅鉾&松鉾                  鉾先の剣
                         

 
(北野天満宮境外末社) 御輿岡神社 
御祭神・大巳貴命 少彦名命 菅原大神(道真公)

御旅所の少し東に「四之保社跡 威徳水」がありますが、以前とは様変わりしていました。
ここは、学問の神様として知られる菅原道真公が太宰府へ左遷された後、現地で無念の死を遂げたことを悼み、
随従の人々が帰京して、右京の地に建てたと言われている七ケ所(北野七保)の御供所。
その中の4番目にあたる、四之保社跡。元文5年(1740)には廃社に。



現在の古跡として保存されている所

 
駒札  石標「北野天満宮七保ノ内 新長谷寺古跡」

H15.10.2 撮影 

撮影当時は、階段を降りると、祠や威徳水の名残がありました

 

かっては、威徳水に因んで?「威徳湯」という銭湯が隣接していたと記憶しています。
少し東の通りの向かいには元阪神監督吉田義男さんのご実家がありました。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする