今年は、 聖徳太子1400年御聖忌ということで、聖徳太子縁の寺院では様々な法要が行われています。
法隆寺、叡福寺の法要、生誕の橘寺など巡ってきましたが、来春まで法要は続きます。
(四天王寺HPより)
大阪市立美術館の「日出づる処の天子 聖徳太子」特別展に行ってきました。
展示は5つのテーマに分けられています。
第1章 聖徳太子の生涯 太子の面影を追って
第2章 聖徳太子信仰の広がり 宗派を超えて崇敬される太子
第3章 大阪・四天王寺の1400年 太子が建立した大寺のあゆみ
第4章 御廟・叡福寺と大阪の聖徳太子信仰 太子が眠る地
第5章 近代以降の聖徳太子のイメージ・・・そして未来へ つながる祈り
(写真は日経新聞よりコピー)
聖徳太子といえば、「一万円札」と連想する世代、教科書に載っていた
「聖徳太子及びニ王子像」を思い出します。
しかし、今ではこの像の絵がどこで、いつの時代に描かれたものか決着しておらず、
文部省の新学習指導要領で、『社会科では歴史研究の進展に合わせ、小中学校で用語の表記を変える。
『「聖徳太子」は小学校で
「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「
厩戸王(聖徳太子)」に変更。』
小学校では人物に親しみ、中学校では史実を重視する観点から表記を入れ替えている。
聖徳太子は死後につけられた称号で、近年の研究では厩戸王に当たる可能性が高いとされている。
今回の展示物では、縁の寺院の所蔵する「絵図」が多く展示されていますが、
四天王寺の「絵堂」の絵を、僧侶の絵説きを何度も聞いていましたが、
展覧会展示物や所蔵する寺院で、京都人として興味深く思ったことがありました。
1.紫雲山 頂法寺六角堂・池坊・小野妹子
紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、
一般に「六角堂」の名で親しまれている。
開基は、聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子が山城国愛宕(おたぎ)郡の杣(そま)に入った。
夕方、御持仏「如意輪観音」を多良の木に懸け、泉で沐浴をされた。
浴後枝にかけた持仏が木から離れず、光をはなって
「我は汝の本尊となって七世を経たがここ衆生に利益をあたえるにふさわしい地であるから
御堂を建てて欲しい」というお告げがあり、この地にお堂が建立されたと伝える古跡です。
霊告によってこの地に御堂を建て、同道した
小野妹子に太子持仏の如意輪観音を本尊として
これを守るよう命じたという。
「小野妹子専務」と称し六角堂最初の住職となった妹子は、
朝夕、仏前に花を供え始めたことがのちの華道の祖とされました。
その後、歴代住職である「池坊」は仏前への花の添え方を工夫し続け、
以来、代々家元は「専務」から「専」の一文字を取って受け継いできたとされる
華道「池坊」が現在に至っているということです。(池坊「華道の祖」伝承)
小野妹子と言えば「遣隋使」と習いましたが、池坊との関わりがあったのですね。
今では、六角堂の後方の池に「太子堂」が建てられています。
2.絵伝中「山城楓野に行幸」と広隆寺
廣隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立された山城最古の寺院であり、
四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の1つです。
日本書紀にも建立の件が載っている。
七大寺
1.法隆寺 2.広隆寺 3.法起寺 4.四天王寺 5.中宮寺 6.橘 寺 7.葛木寺
(斑鳩寺)(蜂丘寺)(池後尼寺) (尼寺) (誕生地)(尼寺)
聖徳太子が楓野別宮(かえでのべつぐう)を起こされた所と伝えられている。
広隆寺縁起によると、聖徳太子が大和の斑鳩の宮において、秦河勝(川勝)に次のように語られた。
「わたしは昨夜不思議な夢を見た。これより北に十里余りを過ぎると一つの里に至る。
楓の林がおい茂り香りが香ばしく満ちている。
その林の中に大きな桂の枯木があり、そこには五百羅漢が集まりお経を読んでいる。
又、天女が飛来し、妙香、妙花をもって羅漢に供養をしていて、その枯木より光を放ち、
微妙の声で仏法を説いている。
秦河勝はその夢の土地は我々の住む葛野(かどの)の事であると申し上げると
太子はすぐにその土地を見に出かけられた。
確かにそこには楓林に大きな桂の枯木があり無数の蜂が飛んでいた。
太子の目にはそれが羅漢に見え説法をするように見えたのである。
そこで太子はここに仮宮殿を造られ、これを楓野別宮と名付け、後に寺に改め桂宮院と称された。
この秦河勝(川勝)は、聖徳太子に同動し、物部氏との合戦で守屋を仕留め、曽我氏陣営の勝利に貢献した人物。
3.聖徳太子の予言と平安京
「未来記」によると
「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかってない壮麗な都になり、
戦乱を十回浴びてもそれを越えて栄え、一千年の間、遷都はないだろう。」
太子が25歳の頃、宇治(現在の京都府)を旅した際に予言したものである。
そこには、桓武天皇によって794年に平安京がつくられ、以降、1000年に渡り都として栄えることを、
見事に予言されている。 (『聖徳太子「未来記」の秘予言』より)