パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

甲賀市・櫟野寺(らくやじ)

2018年11月08日 | 日記
33年に一度の大開帳で公開中の櫟野寺を参拝してきました。
随筆家・白洲正子さんが愛した「かくれ里」としても知られています.
新聞で紹介されたあとでもあり、多くの参拝者が訪れていました。

櫟野寺について(櫟野寺HPより転載)

山号 福生山
寺号 自性院櫟野寺
宗派 天台宗延暦寺末寺
本尊 十一面観世音菩薩(日本最大木造座仏)
創建 792年
寺伝 桓武天皇の延暦十一年に比叡山の開祖伝教大師様が根本中堂の用材を得る為に甲賀郡杣庄おいでになりました時、
霊夢を感じて此の地の櫟の生樹に一刀三礼の下彫刻安置されました。日本最大坐仏十一面観音菩薩がご本尊様です。
(世に生えぬきの観音様と称されております。)

   当寺は、天台宗総本山延暦寺の末寺で、往古は甲賀六大寺の筆頭と云われ、この地方の天台文化の中心寺院であり、広大な境内地を有し、
   その末寺には阿弥陀寺(櫟野)・仏生寺(神)・常楽寺・地蔵寺(櫟野)・成道寺(櫟野)・安国寺(櫟野)・詮住寺(櫟野)など数々の坊がありましたが、
   年月不詳荒廃に帰したのであります。(転宗、合併し一部現存)
 
 
参道


参道と山門の扁額「南無観世音菩薩」 

 
本堂十一面観音と結縁紐で結ばれます 回向柱(結縁柱)



木造十一面観音菩薩座像
重要文化財に指定された木造十一面観音坐像としては日本最大


木造薬師如来座像
櫟野寺の筆頭末寺であった、油日岳奥の院 詮住寺の本尊と伝わります。
作風は、定朝様の寄木造りで平安時代後期の周丈六仏です。
台座、光背も当時のものが残る滋賀県下最大のお薬師さまです。 
甲賀三大仏の一つ、像高312cm


木造毘沙門天立像
征夷大将軍坂上田村麻呂公、等身大(五尺八寸)の御分身と伝わる尊像。
特に江戸時代には、田村麻呂公の信仰が盛んとなり、鈴鹿山麓の田村麻呂公を
祀る田村神社と櫟野寺の二社寺を詣でる田村参りが盛んに行われました。
 

地蔵菩薩座像
櫟野寺の末寺の地蔵院寛澤寺の本尊で、体内に文治三年(1189)の銘記があります。
このお地蔵さまは、腹帯を結んでおられるため、安産のお地蔵さまとして信仰され、
地元ではお地蔵さまから腹帯を授かる風習が残っています。

(写真は堂内撮影禁止ですので櫟野寺HPより転載)          



拝観券と拝観案内


通常御朱印と特別御朱印「大悲閣」 「薬師如来」と散華


  
境内


土俵
相撲は神事を起源にすると言われ、神社に土俵を見ることがありますが…
お寺としては、珍しく立派な土俵が櫟野寺にはあります。
(大阪のお寺には三月場所の宿舎になるところには常設されていますが…)


櫟野寺と相撲の縁起
延暦二十一年、征夷大将軍を拝命の坂上田村麻呂公は夷賊を討伐の為、杣ヶ谷を櫟野まで登られ、
櫟野観音の御力により兇賊を退治することが出来たのであります。
それ故将軍は当寺を祈願寺と定め、大同元年七 堂伽藍を建立、
永く当山守護の為に自ら等身の毘沙門天の尊像を彫刻、そして家来に命じて国技の相撲を奉納
是が現在まで継続しております大会式十月十八日の奉納相撲なのであります

過日開かれた奉納子供相撲大会には、相撲甚句の「大至」さんが来られ、披露されたそうです。




  
鐘楼と集落に告げる「消防信号」表示



鐘楼の柱に貼られていました

消防信號(滋賀県)
近火(部内)     連点
区域内(組内)   三点
応援区域      二点
鎮  火       一点戸二点
演習招集      一点と三点
風水害其他◯◯異常  四点

お寺の鐘は重要な地域防災情報発信源だったのですね。


  
霊木「櫟木」の縁起と枯れた櫟の大木の切株
『樹齢二千有余年、櫟野寺の歴史一千二百余年を見守ってきた霊木「櫟木」
比叡山延暦寺建立の際、木材を求め良材の山地であると内を訪れられた
宗祖伝教大師は、立ち並ぶ櫟の巨木に霊夢を感じ、その中の一本の霊木を
以て御本尊十一面観音さまを彫刻あんちされ、ここに櫟野寺を建立された
のであります。』 
                        
地元の方の話では、枯れ木の輪切りを使用して大きな卓を造られたそうです。
木の切り株の根元から 「ひこばえ(孫生え)」が生えてきていました 。
 


櫟について
この櫟を樹木図鑑などで調べてもよく解かりません…

◯『ウィキペディア(Wikipedia)』
イチイ(一位、櫟、学名:Taxus cuspidata)は、イチイ科イチイ属の植物。
またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。別名はアララギ。北海道や北東北の方言ではオンコと呼ばれ、アイヌからはクネニと呼ばれた[2]。
英語ではJapanese Yewと呼ばれ、同属のヨーロッパイチイ T. baccataは単にYewあるいはEuropean Yewと呼ばれる。

属の学名 Taxusはヨーロッパイチイのギリシャ語名で弓を意味する taxosから、種小名 cuspidataは「急に尖った」の意味。


◯三省堂 『大辞林』
くぬぎ [0] 【櫟▼・椚▼・橡▼・櫪▼】
ブナ科の落葉高木。雑木林に多い。葉は狭長楕円形で縁に鋸歯(きよし)がある。秋、球形の「どんぐり」がなる。
どんぐりの皿には線形の鱗片(りんぺん)が多数つく。材をシイタケ栽培の原木に用い、また薪炭材とする。
樹皮は染料に用いる。古名ツルバミ。

◯櫟 イチイガシの別称。
ブナ科の常緑大高木

◯櫟 読み方:イチイ(ichii)
イチイ科の常緑針葉高木、園芸植物、薬用植物

針葉樹べあるイチイ科イチイ属の植物ではなく、
葉の形、常緑大高木から推測するとブナ科「イチイカシ」なのでしょうか…。
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義仲寺(ぎちゅうじ)

2018年11月02日 | 日記
芭蕉のお墓が義仲寺にあるとのことで出かけてきました。
当日は、植木屋さんが入っておられ写真に苦労しました。

義仲寺について
お寺としては、天台宗の単立系寺院である円満院の末寺とのこと。
パンフレットによると、
当寺は、木曽義仲が信濃で平家討伐の挙兵をし、北陸路に平氏の大軍を打ち破り京都に入ったが、
源頼朝の命で都にのぼって来た範頼、義経の軍勢と戦い享年31歳で討ち死に。
その後、御墓所のほとりに、尼僧(義仲側室巴御前の後身)が草庵を結び供養していたが、
尼の没後、この庵が「無名庵」ととなえられ、巴寺、木曽塚、又は「義仲寺」と呼ばれた。
貞享年間(1684〜8)大修理された記録があり、芭蕉翁が来訪し宿舎としたのは、この頃から。
芭蕉は、この義仲寺や幻住庵に暮らしながら、湖南の門人に俳句の指導をしていました。
芭蕉は元禄7年(1694年)10月大阪にて客死しましたが、
遺言には「ここは東西のちまた、さざ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也」と記されており、
その遺骸は門弟達に運ばれて義仲寺境内に埋葬されています。

 



 
木曽義仲公供養塔         俳聖松尾芭蕉の墓

「木曽殿と背中合せの寒さかな」 又玄(ゆうげん)

 
宝篋印塔(木曽塚)              墓標


 
木曽八幡社


本堂「朝日堂」
本尊 木彫聖観世音菩薩 
左 義仲、芭蕉…位牌 右厨子 義仲、義高公父子の木造

 
「翁堂」


翁堂の扁額


翁堂正面


芭蕉座像上部に「正風宗師」の扁額


丈艸居士               芭蕉翁座像              去来先生


天井には伊藤若冲筆「四季花卉の図」
左右の壁上には「蕉門三十六歌仙」の画像  

 
伊藤若冲筆「四季花卉の図」・解説

 
「無名庵」
芭蕉は何度も訪問、滞在したお気に入りの場所。
東海道に面し、かっては琵琶湖も眺望できた…。
元禄四(1691)年新庵落成。
1691.6.25〜9.28芭蕉は滞在。

 
現在の室内の様子

 
山門の右にある「巴 地蔵堂」
義仲の側室で、巴御前を祀る。
尼となって義仲を懇ろに供養。


芭蕉に因んで境内には「バショウ」が植えられ、花を咲かせていました

根元の句碑 「行春をあうみの人とおしみける 芭蕉桃青」

 *芭蕉の俳号は、当初は本名「松尾宗房」から「宗房(そうぼう)」と名告っていましたが、
 次に「桃青(とうせい)」と名告りました。この俳号を称した意味には諸説あるようです。
 江戸に出て俳諧師となったときに結んだ庵の名が「草庵」、そこに芭蕉の木を植えたのが大きくなって
「芭蕉庵」と呼ばれるようになったことから、 後、俳号に「芭蕉(はせを)」をつかうようになっています。
 あらたまった場では「桃青」の俳号を用いていたようです。また「桃青芭蕉」の署名もあります。
 年代的には、近江に滞在していた頃「はせを」としていたと思われますが…
 自筆の書と言われているこの句は「芭蕉桃青」

年表による俳号
 1667  寛文7 24歳 松尾宗房
 1675  延宝3 32歳 桃青
 1682  天和2 39歳 芭蕉


史料館にて販売されていた自筆の拓本の軸
(ごめんなさい、パチリとしました)


バナナではありません。バショウの苞は黄(褐)色、バナナの苞は赤紫色だそうです。
上方に雌花を付け、花茎はさらに伸び、やがて先端部には雄花を次々と付けます。

 
翁堂の縁側より、気合を込めて撮りました。


境内見取図


御朱印 芭蕉翁「正風宗師」          義仲公「朝日将軍」




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