パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

京都祇園東花街散策

2019年02月28日 | 日記
花見小路周辺、白川巽橋周辺は観光客が多いのですが…
節分の豆撒きで、祇園東の舞妓さんの豆をキャッチしたこともあり、
その花街を中心に散策してみました。

祇園東花街(ぎおんひがしかがい)

祇園東花街は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた
水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。
京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、
八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。
その後明治時代に祇園東は祇園甲部から分離独立し、祇園乙部と言われていたが、
戦後に祇園東新地、そして祇園東に名称を変更しました。

南北は四条通から新橋通の間、東西は東山通から花見小路まで。
一帯は、膳所藩邸があった場所とされています。

  



  

 

 




観亀稲荷社の由来

當地は御所警衛の近江の国膳所藩主
本多俊次公へ、万治二年十月に賜わ
った膳所藩の京都屋敷跡で、その区域
は、東は今の東大路、西は花見小路、
北は新橋町通り、南は富永町通りに
囲まれた約四千三百五十坪であった。
それから五十年後の宝永六年に膳所
藩主本多康慶公は、郡山、淀、亀山
(今の亀岡)藩と共に御所火の番の
ため京詰を将軍より仰付かり、四藩
が隔月交代で幕末までおくなっていた。
 観亀稲荷社は康慶公の子、康命が御
所火の番の膳所藩で火を発しては恐
多い、火伏せの神、遠州秋葉山の秋
葉権現に勧請せよとの父の遺言によ
り、享保三年に膳所茶臼山に勧請し
更にその御分霊を當地に移祀したも
ので、創建当時付近は竹藪でこれを
伐り開く時、亀が出てきて歓んだと云う
因って観亀または歓喜神社と
称したが、その後館亀稲荷社と称し
火伏せ(防火)の神として崇敬者が
頗る多い。 現在地は膳所藩京屋敷の
中庭に當る。


    昭和四十五年五月十五日
観 亀 稲 荷 社


観亀稲荷社(かんきいなりしゃ)
祭神 ・加具都智命 火伏の神(愛宕権現)
    ・宇賀御魂命 稲荷の神(素戔嗚鵜の御子神)

この観亀稲荷神社は、祇園花街にとっては氏神さんのような存在です。

慶応元年の新地焼けでは神社の西で火は止まり、
大正四年頃の火事でも乙部のお茶屋が一軒も焼けなかったのは
この神社のご加護と言われています。
勧請の経緯からして「火伏の神」に、商売繁盛の「稲荷の神」が
祭神として祀られるようになったようです。

周辺は小路が幾つもあり迷路のようでもありますが、
稲荷神社の西の小路「楽宴小路」に火の見櫓が在りました。
実際江戸時代、大きい平屋建てでそこに火防道具が置かれ、
馬場があり、平屋の屋上には背の高い火の見櫓があったそうです。

  
夜になると間違えそうです…                      「火の見櫓」

 
日常的に本物の舞妓さんが歩いている風景
(最近レンタル着物で観光するのが人気らしく紛らわしい…)

 
駐車お断りの三角コーンに竹の覆いが


京都の春、秋になると花街の「をどり」の会が開催され、それぞれの花街では
お茶屋さんの玄関先に紋のはいった赤い提灯が吊るされ風物詩を楽しませてくれます。

花街の紋章(トレードマーク)。
茶団子(四つ団子)が輪となっている紋が祇園。
甲部は団子の中に甲の字が入ります。甲(都をどり)。東(祇園をどり)
三ツ輪の紋は宮川町。(京おどり)
先斗町は鴨川と高瀬川という二筋の川に挟まれ水辺であるため、紋が千鳥。(鴨川をどり)

祇園と離れた北野天神さんの傍の花街
みたらし団子(五つ団子)紋は上七軒。 (北野をどり)

宮川町以外は、『「を」どり』と表記されています…
何となく舞妓さんの決めポーズのように感じます…。

 上から祇園甲部 宮川町 先斗町 上七軒 祇園東

(「京都花街」などを参考に作成いました)
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木津川市「泉橋寺と石造地蔵菩薩」

2019年02月27日 | 日記
国道24号線の木津川に掛かる「泉大橋」の近くに
日本一大きな地蔵石仏[山城大仏」があるとのことで出かけました。
近くには、お茶の「福壽園」本店はじめ、多くの茶問屋街がありました。

泉橋寺概略
宗 派 浄土宗
山 号 玉龍山
寺 号 泉橋寺(せんきょうじ)
本 尊 阿弥陀如来

開 山 行基 天平十二年(740年)に開いた泉橋院(発菩薩院、隆福尼院)が前身


木津川の堤から泉大橋を遠望


  
山門

 
観音堂


地蔵堂跡にある石造地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に造られたもので高さ4.58メートル

 


「山城大仏」とも称されるほど大きな石のお地蔵さん
四方に応仁の乱で焼けた地蔵堂跡を示す礎石が…

 
通りからの全景                                木津川の堤から



『泉橋寺は、奈良時代の高僧行基によって、
木津川に架けられた泉大橋を守護・管理する
ために建立された寺院である。
その門前にある地蔵石仏に、永仁三年(1295)
に石材が祀り始められて、その十三年後の徳治
三年(1308)に地蔵堂が上棟・供養された
もので、またその願主は般若寺の真円上人
であった。 その時、地蔵石仏の本体はほぼ
完成していたとみられるが、台座と光背は、
その後に完成が目指されたもので、この地蔵
石仏の造立がいかに大がかりなものであったかが
偲ばれる。
1470年頃から応仁の乱の影響が南山城
地域にも及び、文明三年(1471)に大内
政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて
焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼か
れて石仏も焼損それ以来、地蔵石仏は
露座のままとなっている。
現在の地蔵石仏の頭部と両腕は、
元禄三年(1690)に補われたものである。』

泉橋寺は行基建立の五畿内四十九院の1つで、
天平十二(740)年(一説には十三[741]年)に行基が木津川に架橋の際、
その供養のために創建したと伝わっています。
行基がここに橋を架けたのには、聖武天皇による恭仁京造営に関わって、
平城京と恭仁京との間の交通の便を確保する目的があったとされます。
ところが、木津川は氾濫の多い川で、その度に橋が流されて通行不能になってしまったことから、
遂に貞観年間に現地の人々が泉橋寺に舟を施入し、渡し舟での渡河に移行しました.
                      (『三代実録』貞観十八[876]年三月三日条)

木津川を渡る要所で、大雨になれば交通が途絶え、
行路病者たちや多くの人々が渡しの近辺に滞留せざるをえなくなるため、
そういう人々の救済に行基が建てたものでしょうか。
泉橋寺は、渡し場の維持・管理(橋守寺院)だけでなく川を渡る人々に宿も提供していたようです。
「橋守寺院」としては、古くは推古天皇の頃、宇治川畔の常光寺放生院も宇治橋の管理をしていたそうで、
場所によっては、寺院が橋の管理機能も果たしていたようです。

拝観中、地元の方が線香とお花を供えに来られており、
生活の中に信仰として生き続けていることを実感しました。
この地蔵菩薩は元禄年間に補修されたとありますが、
風雨に曝されているので傷みが進んでいるようです…。

                            (木津川市観光ガイドなど参考にブログ作成)
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四天王寺「庚申堂」

2019年02月24日 | 日記
四天王寺の南大門から少し離れたところにあるのが「庚申堂」
四天王寺が「大日本佛法最初」であることから「本邦最初庚申像」とされています。
三大庚申堂として、ここ大阪(荒陵山四天王寺)四天王寺庚申堂、京都(黒山延命院金剛寺)八坂庚申堂、【東京(喜宝院)入谷庚申堂 現存せず】。
他にもなら町庚申堂が有名ですが、四天王寺庚申堂の「青面金剛童子」以外は、本尊は何れも「青面金剛明王(夜叉神)」がお祀りされています。

本尊・青面金剛童子像は秘仏として厳封されています。
ご開帳は60年毎(庚申年毎、直近は昭和55年1980年)とかで、
次回の開帳は、2040年…もう拝観は無理です…。
ただし、庚申日(庚申さん)に掲げられる掛軸の絵で、「青面金剛童子」の面影を見ることができるそうです。
この掛軸には、中央上段に火炎を背負う一面六臂の青面金剛童子が邪鬼を踏まえて立ち、
その左右に童子2躰、その下に夜叉4躰、最下に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が描かれています。
かつて各地の庚申講で集まりの場に掲げ礼拝の対象としたものだという。



 



 

 

                 『今から1200余年前、人皇題42代、文武天皇のみ代、
                 大宝元年春庚申の日はじめて本地を示し、我朝に降臨し給う。
                 その由来をたづねると、このまえ、日本にいろいろと疫病が流行り、
                 諸人大いにこれをなやみ、良医の薬をもとめ、高僧のいのりなど、
                 さまざまであったが、なんの効験もなかった。
                  この頃津の国、四天王寺に民部の郷僧都毫範という貴い御僧があって、
                 慈悲の心ふかく、広く人間の悩みをたすけようと、天にいのる丹誠のあまり、
                 あらたなる霊験を得て、諸人のなやみをまぬがれしめた。
                 時に正月七日庚申の日であったが、
                 年の頃が16才ぐらいとおもわれる童子があらわれて、
                 僧都のみまえで、帝釈天のおつかいのの者であるが、
                 天の命によって、汝が人間の悩みをあわれむ、
                 その至誠を感じて、我を天より下さしめ、
                 除災無病の方便をあたえようとのお告げがあった。
                 以来毫範阿闍梨の感得した青面童子を、祀ることとなった。…』
                                         (上掲パンフレット)
 
本堂とお百度石

  
お百度石の頂部 「見ざる・言わざる・聞かざる」


 
新しく「三猿堂」が建ちました                         「センターは言わざる!」


御朱印 (書体が変っています)


今年の庚申さんの日




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法隆寺「西円堂」

2019年02月18日 | 日記
「南円堂」、「北円堂」と言えば興福寺…良く知っています。
「西円堂」?
法隆寺にある有名なお堂であることを初めて知りました。
何度も法隆寺を参拝しているのに…。
寺務所の方も、観光の流れが西伽藍の中門西入口から入って
金堂、五重塔、大講堂…
御朱印の頂ける聖徳院、大宝蔵院次いで夢殿の東伽藍へと…。
夢殿と同じく八角形の「西円堂」まで来られないですね…と。
小高いところにあり、天気が良ければ大和三山も望めるとか。
不覚!

この西円堂は奈良時代(718年/養老2年)に、東大寺大仏建立の立役者・僧侶の行基によって創建。
詳しくは光明皇后の母親である橘夫人(県犬養橘三千代)が行基に御願して行基の指揮のもとに創建。

法隆寺は伽藍が奈良の中心部から郊外に位置することが幸いしてか、付近周辺では戦争が起こらず、
軽度な火災はあったものの現在に至るまで創建近くの伽藍が現存。

この西円堂も歴史が古く、それを物語るのが後述する薬師如来像です。
この薬師如来像は寺伝によれば奈良時代の創建当初から西円堂に存在する仏像と云われています。
しかし永承三年(1048)に破損転倒し二百年を経た鎌倉初期1250年(建長2年/鎌倉時代)に再建された。

西円堂は八角円堂造りですが、堂舎出入り口には一間向拝が付いている。
向拝の下には板扉がついており、その奥に御本尊「薬師如来」が安置。

法隆寺の修二会は2月1~3日の3日間。旧暦ではなく今の2月に、西円堂で営まれます。
結願の3日には節分「追儺会」も行われることから主要な堂宇の一つなのでしょう。
東大寺二月堂の修二会が奈良時代から始まったのに対して、
法隆寺西円堂の修二会は鎌倉時代である弘長元(1261)年から始められたと伝えられます。






西円堂には向拝が付いています


「峰薬師」           (向拝の柱に)           「西円堂」


西円堂でもっとも目につくのが連子窓です。
連子窓は現在では日本中の多くの寺社で見られますが、
その歴史は古く一説では仏教伝来と共に日本へ流入した建築様式だと伝えられている。
尚、この連子窓は法隆寺の回廊にも据えられている事実からしても古式の窓。

連子窓の上には組物として簡素な出三斗で組まれ堂舎の周囲を取り巻いている。
屋根は瓦葺で中央には擬宝珠が据えられています。

御本尊薬師如来は行基の作で、「峰の薬師」と呼ばれ、わが国最大の脱乾漆像
像高;約2m25cm


(写真は他のブログより転載)


東側には鐘楼がある。
この鐘は、かの詩人の正岡子規も聞いていたとされており、毎日の刻を告げる鐘です。
子規が存命中であった頃は、「朝6時から夕方18時までの間」で、約2時間の刻を梵鐘で告げたそうです。
しかし、現在では残念ながら拝観のできる時間帯の「朝8時から夕方16時までの間」まで。
西円堂の梵鐘を聞くことができる時間;朝8時、朝10時、正午(12時)、午後2時、午後4時

「時の鐘です。撞かないでください」の表示があります。

ちなみに子規の有名な句に「柿食えば鐘が鳴るなり・・」があります。
一説には、この句の中の「鐘」とは「西円堂の梵鐘」を指し示すとも言う説も。

西円堂修二会
・2月1日~3日(午後1時・午後5時)
西円堂鬼追式(追儺式)
・2月3日(午後7時)


西円堂からの眺望


御朱印「峰薬師如来」


八角形のお堂…法隆寺には東に夢殿と鐘楼、西に西円堂と鐘楼そして時の鐘。
興福寺には、北円堂と南円堂と鐘楼。南円堂の鐘は今も時の鐘を撞く…

奈良県には多数の八角円堂があります。その殆どが国宝や重要文化財です。
八角は中国の八方位陰陽説から来ているとされています。
ほかにも栄山寺八角堂・薬師寺玄奘塔がある。

法隆寺東院夢殿・法隆寺西円堂・栄山寺八角堂(奈良県五條市)・興福寺北円堂の4箇所が国宝。
興福寺南円堂が重要文化財。
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法隆寺「涅槃会」

2019年02月18日 | 日記
お釈迦様が入滅(亡くなられた)された日である2月15日に、世界遺産である法隆寺の大講堂で「涅槃会(ねはんえ)」が行われました。
涅槃会は、京都の寺院では旧暦の3月15日に行われるところが多いようですが、興福寺など奈良では2月15日が多いようです。

1711年に西岸寺の明誉古澗が描いた大涅槃図「大涅槃像八相成道絵像」(三幅・絹本着色)が、大講堂に奉献されます。
涅槃図とは、お釈迦様のご臨終の御姿を表現したもので、
四方を沙羅双樹に囲まれた宝台に、
北を枕に横臥するお釈迦様を取り囲み、
悲嘆にくれる諸菩薩、仏弟子や眷属、鳥獣が描かれています。

法隆寺「大涅槃図」
中央の涅槃図は
579.3×455.7cm。
釈迦の主な事蹟を顕わした釈迦八相図は
右572.5×290.9cm、左570.5×290.8cm。

 
(堂外から失礼)

大講堂の本尊は平安時代の国宝の薬師三尊(薬師如来坐像、日光・月光菩薩像)なのですが、
この日だけは、大涅槃像を中央に、左右に八相成道絵像が内陣の手前に掛けられて、
本来の仏像はその後ろに隠れて正面からは全く見えなくなっていました。
この涅槃会の日だけ見ることの出来る涅槃図を、今回初めて見る事ができました。


南大門


行事予定

 
本坊

 
「法隆寺本坊」「聖徳宗宗務所」
  

中門

 
 吽 形 像        中門の仁王像        阿 形 像 
 「仁王像」は現存最古でしかも天平時代唯一の遺構

 
五重塔                             金堂

 
涅槃会の行われる大講堂

 
経蔵                                鐘楼


入堂の際の履物

堂内で法会の開式を待っていたので、本坊からの入堂の写真は撮れませんでした。


【舎利礼】
午後1時半、西院鐘楼の梵鐘がならされて、本坊を出発した僧たちが大講堂へ入堂(西側入り口から)してきます。
会奉行の合図で、唄、散華、梵音、錫杖の四箇法要がありました。
続いて、論議台(高座)の上に座った管長によって、釈迦の遺徳を讃え、法会の由来を述べる表白が奉読。
読経…、般若心経、舎利和讃「一身頂礼」…真言「南無釈迦牟尼仏 」唱和

式衆が退堂して本坊へ

 

  


入堂者には散華を頂くことができました。
散華を裏返すと、寺名の印影が三枚とも異なる?

 
散華裏の法隆寺名と「法隆寺印」と刻印された印影

  

散華裏の法隆寺名と「鵤寺倉印」と刻印された印影

 
散華裏の法隆寺名と「以龢為貴」と刻印された印影

「以和為貴(和を以て貴と為す)」
[龢(ワ、カ)]は「和」の本字。読みも意味も「和」と同じ
変化;龢⇒咊⇒和

光仁天皇宝亀2年(771)8月26日、法隆寺などの諸寺の印を鋳造して、それぞれの寺に頒布

*散華の印影について

大宝元年(701)官印が用いられるようになりましたが、
官印に準じた公印として神社、寺院にも印があります。
宝亀2年(771)初めて、法隆寺以下畿内の12諸寺の寺印を鋳造し、それぞれの寺に頒布のことがみえる。(e国宝より)
(薬師寺。東大寺。興福寺。新薬師寺。元興寺。法隆寺。弘福寺。四天王寺。崇福寺。法華寺。西隆寺。?)。

最古の印と言われている「法隆寺印」、「鵤寺倉印」は国立博物館・法隆寺宝物館に収蔵されています。
散華の印影はレプリカと思われます。
(以下、東京国立博物館データより)

「法隆寺印 重文 銅製鋳造 飛鳥時代 7世紀」
法隆寺印は、印面方形で周縁は欠損。印文の鋳出し深く、鈕は幅広の高い撥形。
印面の寸法、書体からみて諸国印の制に倣った。当時の官印を思わせる。
大和古印中古様を示すが、火中損しているのが惜しまれる。



「鵤寺倉印」は、印台が扁平で、印文の鋳出し浅く、鈕は切り込み浅い幅広の鶏頭鈕で低い。
寺伝は光仁天皇下賜とあるが、製作年代は下る。




御朱印「以和為貴」(於;聖霊院) 
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神戸元町南京町「春節祭」

2019年02月12日 | 日記
神戸市元町南京町の春節祭に行ってきました。
神戸元町には「南京町」と呼ばれる中華街があります。
横浜中華街・長崎新地中華街と並んで日本三大中華街の一つです。

でも…
実は「南京町」という行政上の町名は無いことを初めて知りました。
元町通から栄町通くらいまでのエリア(地図参照)を「南京町」と呼んでいる、
いわば通称名だったのです。
(平成9年「南京町」が南京町商店街振興組合の商標として登録)

旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝います。
この時期の中国は爆竹が鳴り響き、
祝い事にはかかせない龍や獅子が舞い踊り、おおいに賑わいます。
南京町でも旧暦の正月に合わせ、1987年(昭和62年)から
「春節」をアレンジし「春節祭」として開催が始まりました。
その後、昭和天皇崩御の年と阪神淡路大震災の年の2回は中止となりましたが、
2019年は33年目、31回目の開催となります。
1997年(平成9年)には、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されました。

 

 
大丸神戸店側・{長安門」(東の門)  東西路を結ぶ    「西安門」(西の門)
 
 
「海榮門」(南の門)

長安門は昭和60年に建てられた中国河北省の大理石の東楼門・扁額「敦睦」
大理石・漢白玉は、中国では財運など運気をアップし邪気を払うパワーストーンとしても知られています。
つまり、長安門をくぐれば、邪気が払われ運気が上がるということに。
平成7年阪神淡路大地震で半壊、平成8年再建。高さ9.85m、幅7.4m

西安門は平成17年、中国北宋時代の門をモデルにして
高さ約9メートル、幅約5メートルで、金色の瓦、大理石の柱で建立された。
(西安門は阪神淡路大震災から10年の節目を迎える時に、
復興から飛躍へのシンボルモニュメントとして建立・扁額「光復」)

西安門の内側


南楼門は南京南路南端に、昭和57年に建てられた南京町で最も古い門で、台湾製の高さ7.6m。
平成18年に「海榮門」と改称。扁額「飛翔」


各門の柱の「春聯」


あずまや六角堂のある南京町広場(メイン会場)

 
舞台では、獅子舞、舞踊、太極拳などが演じられていました

 
長安門傍の大きな「布袋様」と広場には小財神「財財」・「來來」
手を重ねるのは左手が上?

中国の時代劇を見ていると片手をもう片方の手で包んでそれをやや振り、感謝の意を表している姿をよく見ます。
これは拱手(こうしゅ)の礼と言います。

拱手は今でもよくやりますが、一般には男性の仕草で、右手の拳を左手で包むのが普通です。
感謝や依頼、「頼みます」ということなどを表します。

「中国古代、春秋戦国の思想家、老子が“文人は左手が高貴で、兵は右手が高貴”と説いたそうです。
また一般的に右手で武器を扱うため、右手を包み込むことは古代の“平和を愛し、平和を願う”ということを象徴している」とか。

小財神というお金の神様。ふれると 幸せになれる言い伝えがある。 神様の女の子は「來來」、男の子は「財財」という名前。
夜は、お店でおやすみになるとか…。
因みに、來來ちゃんの拱手は右手で左手を包んでいる…?


 
広場近くの行列の絶えない、豚饅頭(ぶたまんじゅう)の「老祥記」、焼き小籠包のお店「yun yun(ユンユン)」。
「テレビ取材の店」の貼紙だらけ、グルメ情報全盛で店には列が…豚まん、小籠包、餃子…

 
小籠包、限定神戸コロッケ、北京ダックなど食べ歩き…


記念に干支の「剪紙(せんし)」を購入;制作「谷田有似」

「200円で空くじなし!」の「ポチ袋くじ」には長蛇の列が…残念ながらパスしたので、
長安門を潜りましたが、このくじでの「財運・福」にはめぐり会えず…。

(ブログは南京町振興会HP,観光案内などを参考に編集、作成)
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節分詣3と御朱印

2019年02月06日 | 日記
元祇園社に詣たのだから、当然、祇園八坂神社へ節分詣。
京都市バスは壬生寺のバス停から吉田神社行のバスもありましたが祇園で下車。
八坂神社に、いまさら説明は無用。

 
祇園石段下                     舞奉納、豆撒きのある舞殿

 
参道屋台・舞妓さんも「豚平」食べるのですね…


「祇園さんの節分祭」の案内 これからの奉納舞踊は、花街「祇園 東歌舞会」

 
舞妓さんが舞殿へ


奉納舞踊の前にお祓い


奉納は「春の雨」、「祇園小唄」

 

 
いよいよ舞妓さん、烏帽子装束の年男、年女による豆撒き 


舞妓さんから「厄除 福豆]を空中キャッチ❣・「豆政」

 
舞奉納、豆撒きが終わり

 
お楽しみの福引へ

   
生憎の雨空、南楼門から傘姿で帰路へ

御朱印には長蛇の列でパスしちゃいました。

節分詣のはしご
 
四条大和大路近く、「目病み地蔵尊」の仲厳寺と御朱印

 
聖護院では採燈大護摩供


お子様向け…

   

御朱印

 
聖護院の東に隣接する積善院準提観音堂

 
向かいの「西天王 須賀神社」の懸想文売りの姿



東大路通りのバスの車窓から、京都熊野神社、満足稲荷神社でも節分の幟が見られました。 
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節分詣2と御朱印

2019年02月05日 | 日記
坊城通りを南に行くと新選組壬生屯所縁の史跡。
次の節分詣では「壬生寺」。
子供の頃から節分と言えば、「壬生寺」、「吉田神社」、「盧山寺」…を巡りったものでした。

壬生寺(みぶでら)京都市中京区壬生にある律宗大本山の仏教寺院である。
本尊 地蔵菩薩、
開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。
中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。
古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。



 
山門



  
本堂

 
扁額「地蔵尊」

当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、
1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。
現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。


 
千体仏塔


  
歯薬師如来
由来は薬師如来の「微笑みが、は、は、は…」と笑っているように見えるからとか
歯の病に霊験あらかたとされる。

 
壬生寺と言えば「厄除けほうらく」奉納

壬生狂言・炮烙割り(ほうらくわり)-4月の大念仏会の公演では、必ず毎日の最初に催される演目。
2月の節分会の際に奉納された炮烙が、この演目の最後に割られる。
炮烙が割れると願い事が成就するとされている。


御朱印と特別御朱印(壬生狂言)


道中、「節分お化け」と言われる仮装の一団に遭遇?

節分お化け(せつぶんおばけ)、あるいは単にお化け。
オバケとは、節分の夜に(立春 前夜)の厄祓い(厄除け)として行われる日本の儀式。
普段と違う服装で、社寺参拝を 行う異装儀式である。
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節分詣1と御朱印

2019年02月05日 | 日記
今年の節分は、京都に行きました。
多くの神社仏閣で、節分法楽、法会、星祭…として行事が行われました。
先ず最初は、「元祇園梛神社」に。
あまり聞いたことが無い「梛神社」

梛神社(なぎじんじゃ)は、四条通から壬生寺に行く坊城通りの角にある神社で通称「元祇園社」。
境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社(はやぶさじんじゃ)が鎮座する。

境内北側に御供石があり、祇園祭の山鉾巡行の際にこの石の上に神饌を置いて神に供える習わしになっている。
もとは下京区万寿寺通烏丸西入ル、御供石町にあったが、1932年にこちらに移された。

社伝では、貞観11年(869年)3月朔日に京での疫病流行により
播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、
牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という。

その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、
梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、
これが祇園会の起源であるとしている。
また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。

祭神
主祭神 素戔嗚尊

配祀神 宇賀御魂命
     伊弉冉命
     誉田別尊

隼神社(はやぶさじんじゃ)は、梛神社境内にある神社。式内社(大社)。

祭神
主祭神 建甕槌神(たけみかづちのかみ)
配祀神 経津主神(ふつぬしのかみ)

延喜の式内社では上記の祭神とされているが、
実際は隼を祀ったものである。(ウィキペディア参照にしました)



 
坊城通りの鳥居と石標

 
四条通の石標


梛神社と(左)と隼神社(右)本殿

 
御供石

 


御神楽は「花鎮めの舞」

 
節分の特別御朱印


隼神社は、先日、なら町を歩いていた際、三条通りと小西通(中街道)の交わるところにも有りました。

 
中街道の駒札           隼神社(左)と延命地蔵尊(右)

 


この由緒書によれば,『平安遷都と共に特に京師に遷し給ふた隼神社の本社は此方で…』と記されています。
御祭神 角振隼総別命(仲哀天皇の大和平定に寄与し大神で、昔から柿を神木として神殿を設けず)
    配祀 市寸島姫命

その昔は「春日山」にあったとも言われている。
またその後は有名な治承4年(1180年)の平重衡による南都焼き討ちで、
当初の祠が失われて以降は「御神木」をお祀りするようになったと言われており、
13世紀末の興福寺の火災で焼失して以降は現在と同じような小さな神社になったとされている。
また時期は不詳で、途中からは現在も祀られている「宗像神社(市杵島姫命)」も設置された。

御祭神は角振隼総明神(つのふりはやぶさみょうじん)と呼ばれる珍しい御祭神をお祀りしており、
この御祭神は春日神に深く関わる「春日大社を守護する神様」としてこの神社と
春日大社本殿近くの末社「椿本神社」のみに祀られている。
なお、この御祭神は「角振神」とその父であり「隼人」の祖神である「火酢芹命(ほすせりのみこと)」の
父子それぞれをお祀りする上での名称となっている。

「京師に遷し給ふた」とあることから、平安京の隼神社、つまり四条坊城にある隼神社になるのでしょうが、
御祭神が異なります。京都では「春日の神・建甕槌神」となっています。
奉安されている壬生周辺は、平安京の表鬼門にあたり、藤原氏縁の春日の神・武神を置き、都を守護したのかも?

「元祇園・梛神社」「隼神社」調べれば調べるほど興味が湧いてきます…。
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