花見小路周辺、白川巽橋周辺は観光客が多いのですが…
節分の豆撒きで、祇園東の舞妓さんの豆をキャッチしたこともあり、
その花街を中心に散策してみました。
祇園東花街(ぎおんひがしかがい)
祇園東花街は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた
水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。
京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、
八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。
その後明治時代に祇園東は祇園甲部から分離独立し、祇園乙部と言われていたが、
戦後に祇園東新地、そして祇園東に名称を変更しました。
南北は四条通から新橋通の間、東西は東山通から花見小路まで。
一帯は、膳所藩邸があった場所とされています。
観亀稲荷社の由来
當地は御所警衛の近江の国膳所藩主
本多俊次公へ、万治二年十月に賜わ
った膳所藩の京都屋敷跡で、その区域
は、東は今の東大路、西は花見小路、
北は新橋町通り、南は富永町通りに
囲まれた約四千三百五十坪であった。
それから五十年後の宝永六年に膳所
藩主本多康慶公は、郡山、淀、亀山
(今の亀岡)藩と共に御所火の番の
ため京詰を将軍より仰付かり、四藩
が隔月交代で幕末までおくなっていた。
観亀稲荷社は康慶公の子、康命が御
所火の番の膳所藩で火を発しては恐
多い、火伏せの神、遠州秋葉山の秋
葉権現に勧請せよとの父の遺言によ
り、享保三年に膳所茶臼山に勧請し
更にその御分霊を當地に移祀したも
ので、創建当時付近は竹藪でこれを
伐り開く時、亀が出てきて歓んだと云う
因って観亀または歓喜神社と
称したが、その後館亀稲荷社と称し
火伏せ(防火)の神として崇敬者が
頗る多い。 現在地は膳所藩京屋敷の
中庭に當る。
昭和四十五年五月十五日
観 亀 稲 荷 社
観亀稲荷社(かんきいなりしゃ)
祭神 ・加具都智命 火伏の神(愛宕権現)
・宇賀御魂命 稲荷の神(素戔嗚鵜の御子神)
この観亀稲荷神社は、祇園花街にとっては氏神さんのような存在です。
慶応元年の新地焼けでは神社の西で火は止まり、
大正四年頃の火事でも乙部のお茶屋が一軒も焼けなかったのは
この神社のご加護と言われています。
勧請の経緯からして「火伏の神」に、商売繁盛の「稲荷の神」が
祭神として祀られるようになったようです。
周辺は小路が幾つもあり迷路のようでもありますが、
稲荷神社の西の小路「楽宴小路」に火の見櫓が在りました。
実際江戸時代、大きい平屋建てでそこに火防道具が置かれ、
馬場があり、平屋の屋上には背の高い火の見櫓があったそうです。
夜になると間違えそうです… 「火の見櫓」
日常的に本物の舞妓さんが歩いている風景
(最近レンタル着物で観光するのが人気らしく紛らわしい…)
駐車お断りの三角コーンに竹の覆いが
京都の春、秋になると花街の「をどり」の会が開催され、それぞれの花街では
お茶屋さんの玄関先に紋のはいった赤い提灯が吊るされ風物詩を楽しませてくれます。
花街の紋章(トレードマーク)。
茶団子(四つ団子)が輪となっている紋が祇園。
甲部は団子の中に甲の字が入ります。甲(都をどり)。東(祇園をどり)
三ツ輪の紋は宮川町。(京おどり)
先斗町は鴨川と高瀬川という二筋の川に挟まれ水辺であるため、紋が千鳥。(鴨川をどり)
祇園と離れた北野天神さんの傍の花街
みたらし団子(五つ団子)紋は上七軒。 (北野をどり)
宮川町以外は、『「を」どり』と表記されています…
何となく舞妓さんの決めポーズのように感じます…。
上から祇園甲部 宮川町 先斗町 上七軒 祇園東
(「京都花街」などを参考に作成いました)
節分の豆撒きで、祇園東の舞妓さんの豆をキャッチしたこともあり、
その花街を中心に散策してみました。
祇園東花街(ぎおんひがしかがい)
祇園東花街は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた
水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。
京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、
八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。
その後明治時代に祇園東は祇園甲部から分離独立し、祇園乙部と言われていたが、
戦後に祇園東新地、そして祇園東に名称を変更しました。
南北は四条通から新橋通の間、東西は東山通から花見小路まで。
一帯は、膳所藩邸があった場所とされています。
観亀稲荷社の由来
當地は御所警衛の近江の国膳所藩主
本多俊次公へ、万治二年十月に賜わ
った膳所藩の京都屋敷跡で、その区域
は、東は今の東大路、西は花見小路、
北は新橋町通り、南は富永町通りに
囲まれた約四千三百五十坪であった。
それから五十年後の宝永六年に膳所
藩主本多康慶公は、郡山、淀、亀山
(今の亀岡)藩と共に御所火の番の
ため京詰を将軍より仰付かり、四藩
が隔月交代で幕末までおくなっていた。
観亀稲荷社は康慶公の子、康命が御
所火の番の膳所藩で火を発しては恐
多い、火伏せの神、遠州秋葉山の秋
葉権現に勧請せよとの父の遺言によ
り、享保三年に膳所茶臼山に勧請し
更にその御分霊を當地に移祀したも
ので、創建当時付近は竹藪でこれを
伐り開く時、亀が出てきて歓んだと云う
因って観亀または歓喜神社と
称したが、その後館亀稲荷社と称し
火伏せ(防火)の神として崇敬者が
頗る多い。 現在地は膳所藩京屋敷の
中庭に當る。
昭和四十五年五月十五日
観 亀 稲 荷 社
観亀稲荷社(かんきいなりしゃ)
祭神 ・加具都智命 火伏の神(愛宕権現)
・宇賀御魂命 稲荷の神(素戔嗚鵜の御子神)
この観亀稲荷神社は、祇園花街にとっては氏神さんのような存在です。
慶応元年の新地焼けでは神社の西で火は止まり、
大正四年頃の火事でも乙部のお茶屋が一軒も焼けなかったのは
この神社のご加護と言われています。
勧請の経緯からして「火伏の神」に、商売繁盛の「稲荷の神」が
祭神として祀られるようになったようです。
周辺は小路が幾つもあり迷路のようでもありますが、
稲荷神社の西の小路「楽宴小路」に火の見櫓が在りました。
実際江戸時代、大きい平屋建てでそこに火防道具が置かれ、
馬場があり、平屋の屋上には背の高い火の見櫓があったそうです。
夜になると間違えそうです… 「火の見櫓」
日常的に本物の舞妓さんが歩いている風景
(最近レンタル着物で観光するのが人気らしく紛らわしい…)
駐車お断りの三角コーンに竹の覆いが
京都の春、秋になると花街の「をどり」の会が開催され、それぞれの花街では
お茶屋さんの玄関先に紋のはいった赤い提灯が吊るされ風物詩を楽しませてくれます。
花街の紋章(トレードマーク)。
茶団子(四つ団子)が輪となっている紋が祇園。
甲部は団子の中に甲の字が入ります。甲(都をどり)。東(祇園をどり)
三ツ輪の紋は宮川町。(京おどり)
先斗町は鴨川と高瀬川という二筋の川に挟まれ水辺であるため、紋が千鳥。(鴨川をどり)
祇園と離れた北野天神さんの傍の花街
みたらし団子(五つ団子)紋は上七軒。 (北野をどり)
宮川町以外は、『「を」どり』と表記されています…
何となく舞妓さんの決めポーズのように感じます…。
上から祇園甲部 宮川町 先斗町 上七軒 祇園東
(「京都花街」などを参考に作成いました)