パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

お水取り・追っ駆け2

2015年02月27日 | 日記
縄に幣と樒を挟んだ独特の注連縄で修二会エリアを結界します。

「注連縄撒き」
修二会を神仏習合の色濃い象徴するひとつとで、二月堂修二会で使われる注連縄は幣(神道)と樒(仏教)を挟んだ東大寺独特のもの。 

二重巻きに束ねた「輪注連」は遠敷社(おにゅうしゃ)・飯道社(いいみちしゃ)に供えて堂童子がお祓いしたあと、社の石段の上から撒き、下で待つ童子がこれを受け取る「注連撒き」。(受取損なった注連縄は「穢れ」として廃棄されるそうです。)
受け取った「輪注連」は練行衆の自坊をはじめ塔頭などの門口に、修二会の期間中掛けられます。
遠敷社
 
飯道社






法華堂(三月堂)正面の燈籠

「注連掛け」ひも状の注連縄は修二会の期間中、二月堂の石段、三昧堂横の石段、中性院前参道に張って結界します。
 


中性院付近


注連縄による結界


大徳寺

2015年02月24日 | 日記
京都仏教会主催の対談と大徳寺の特別拝観に行ってきました。
 
対談は狩野探幽の襖絵のある大方丈でありました。それだけでも特別な空間に居ることを実感。

<対談のメモ>
戸田実山師
  臨済宗大徳寺派宗務総長
大徳寺は多くの戦国武将を祀る寺
応仁の乱の際、一休禅師は堺に避難 堺は南蛮貿易の町で豪商と交流=パトロン
伽藍再興 大燈国師305年遠忌
勅使門-山門-仏殿-法堂-(庫裡)-方丈(本堂)
      法堂=通常使用
杉本歌子氏
  京都市生まれ。杉本家九代目の三女。    
財団法人奈良屋記念杉本家保存会学芸員。杉本家古文書の調査研究主任。
京都造形芸術大学非常勤講師。
奈良屋杉本家住宅
1743年(寛保3)8月5日  別家独立 呉服商「奈良屋」を創業
1864年(元治元年) 元治の大火により、再建
明治時代
1870年(明治3)4月23日 上棟 現在の杉本家住宅に。 
平成
1990年(平成2) 2月 杉本家住宅、京都市指定有形文化財に
           文化遺産の総体を崩壊、散佚から防ぎ、綜合的かつ恒久的に継承保存するべく、「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」を設立。
2010年(平成22)6月 杉本家住宅、重要文化財に指定
2011年(平成23)2月 杉本家住宅庭園(杉本氏庭園)、国指定名勝に指定
         建物保存の危機⇒ 保存会 「切り株から芽を出し、育てていく」
仏像=美として鑑賞するのでなく、信仰の対象として観て欲しい
形あるものの中の無形のものを捉える
茶師の大徳寺=利休にちなみ塔頭等に多くの茶室
一休―武野紹鴎―利休=禅茶  ⇔ 闘茶
        茶道=参禅⇒形成
           宗教=体験⇒自分のものとして取り入れる
                  茶道、華道…学んだことを、教室だけでなく日常生活に取り入れる
 浄土宗系 念仏「南無+阿弥陀仏」=阿弥陀仏に「預ける」=阿弥陀経読経
 禅 宗系 座禅=只管打座 公案を通じて仏性に気づく
 
対談の後、普段は非公開の方丈、一般では立ち入れないエリアを通り、三門、法堂、唐門を拝観。
人が通らないので、石畳の間にまで苔が見事に密生していた。
難しい問題です。熊野古道もブームで参詣者が激増し石、木の苔が踏み荒らされたような状態とか…。
でも道は歩くところ…。
「三門」 天皇、上皇、秀吉など極一部の人が通ることができたそうで、
     最近では新管長の普山式の際以来開かれたことの扉が特別に開かれた。
     扉が開き、仏殿が正面に現れ、感動の一歩で朱塗りの三門をくぐる。
「法堂」 天井の絵の補修工事の際、丸太の足場で行われたこと、
     このことは、文化財補修に欠かせない技術の継承に繋がること、
     絵の具の剥離を防止する新しい接着材も検討したが、今後の補修を考え、従来の膠を用いることになったとの説明。
「唐門」 門の前の囲いを開けてもらって中に入り鑑賞。
     彫刻細工は勿論、西日に彫金金具が輝き素晴らしかった。
     僧侶の、門に彫刻があると言うよりも、「彫刻の門」との説明には納得。
     日光東照宮の「陽明門」建造のの参考になったとか。
(写真は、特別拝観で方丈、三門、法堂等での撮影禁止のためパンフレットや他のブログから転用・金毛閣の写真のみオリジナル)   

概略・歴史
 臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
 室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。
 桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、
 それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
 勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。
 山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい
 利休居士自決の原因となった話は有名。
 本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。
 方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。
 方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。
 什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。
(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、
 それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。


伽藍
勅使門(重要文化財)
 山門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
 平成12年、屋根等修復。


三門(山門)(重要文化財)
 創建不詳。亨徳2年(1453)焼失。応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、享禄2年(1529年)竣工した。
 その後天正17年(1589)千利休居士により二階部分が設けられ[金毛閣]と名づけられた。二階二層門となる。
 楼上は、広い一室で釈迦迦葉阿難三像や利休寄進の十六羅漢像が安置され、天井龍は長谷川等伯筆。
 この楼上に利休木造を置いたことから、秀吉の逆鱗に触れ切腹の因と言われている。
 利休の質素な茶道と、秀吉の豪華な茶室好みなどの嗜好と合わなくなっていったことに加え、讒言に因ったとの説もあり。
 山門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のこと。
 一端、山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを。
 1589年、利休は等伯の力を見込んで、京都の名刹・大徳寺に利休が寄進する「金毛閣」の天井と柱の装飾画を依頼した。
 大徳寺という絵師にとっての大きな桧舞台で、狩野派を押しのけて一介の絵師が絵を描いた このことで紛れもなく、
 有名絵師の仲間入りをすることとなった。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。
しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり)

 
 金毛閣の軒丸瓦
 *金毛閣:金毛とは、金毛の獅子のことで、衆生を救うべき禅僧をいう。(仏教では金毛の獅子とはお釈迦様自身をさす.)
  上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう);自分より上(上の境涯)のものに向かっては菩提、悟りを求めて一心に修行をする。
  自分より下(下の境涯)のものに向かっては親切に指導してあげる。仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。

仏殿(重要文化財)
 1世徹翁義亨(てつとうぎこう)が創建。亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が法堂を兼ねて再建したが、
 応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。文明11年(1479)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である
 泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により再興。旧来どおり法堂を兼ねていた。
 その後寛文5年(1665)156世江月宗玩(こうげつそうがん)により、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。
 仏殿は、寺院の本尊を祀る。
 禅宗寺院では仏殿はなく法堂だけだったが、宋代に至ると仏殿を中心にして、その後方に法堂が置かれるようになる。
 桁行三間・梁間三間・一重裳階・入母屋造・本瓦葺。重文。
法堂(重要文化財)
 開山大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、嘉暦元年(1326)赤松氏の建立により落慶し、
 龍寶山の山号を掲げ寺号を大徳寺と定め、嘉暦2年(1327)開堂。
 亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が佛殿を兼ねて再建したが、応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。
 文明6年(1474)勅請により大徳寺住持となった47世一休宗純等により佛殿を兼ねて再興。
 156世江月宗玩(こうげつそうがん)の勧化により小田原城主稲葉正勝(1597~1634)が建立を約したが、没したため、
 その遺命によって寛永13年(1636)その子正則(1623~1696)が建立した。
 法堂は、住持または導師が上堂し修行者に説法する場所で、説法堂。
 天井の雲龍図は35歳の狩野探幽筆。 天井の龍は、手を打つと龍の鳴くがごとく聞こえることから、「鳴き龍」とも言われる。
 桁行五間・―梁間四間・入母屋造・本瓦葺。重文。
唐門(国宝)
 今は方丈前庭にあるが、明治の中頃まで勅使門の西にあった。村上周防守が聚楽第の遺構を譲り受け、明治になって、明智門があった今の場所に移建された。
 聚楽第とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示した。のち関白を養子秀次にゆずり、秀次の居宅になった。
 のち秀次に謀反の罪をきせ断罪、聚楽第を破却した。その時、破却をまぬがれたと伝えられる。
 この唐門は、彫刻や金具の豪華さ、豊富さに特徴があり、日光東照宮の日暮門の模型となっている。
 一日中見ていても見たら無いほどの門であるところから、一名「日暮の門」とも言われる。
      (6枚転載写真)

京都の三大国宝唐門(豪華絢爛桃山文化の粋)
 豊国神社の唐門・伏見城の遺構
 西本願寺の唐門・伏見城の遺構
 大徳寺の唐門 ・聚楽第の遺構


修二会(お水取り)追っ駆け

2015年02月22日 | 日記
東大寺二月堂の修二会(お水取り)で21日、前行(「試別火」入りして精進生活を送る行)に入った練行衆が、開創にかかわる諸堂を巡拝し、参籠中の無事を祈る「社参」がありました。
 娑婆から離れ、土の上に降りることも許されない「総別火」入りしている新入の1人を除く10人が、最高位「和上」役の狹川普文・北林院住職を先頭に、午後1時頃、戒壇院の別火坊を出発。
 時折、ほら貝を吹き鳴らしながら、戒壇堂を初め、勧進所、大仏殿、天皇殿、開山堂と参拝していきました。一担、二月堂下の湯屋で「試みの湯」の後、二月堂の舞台に上がって聖武天皇陵を遥拝されました。
コンパクトデジカメを手に、年齢も返り見せず追っ駆け、先駆けしてきました。天気も良く多くの観光の人々が僧侶の行列に何事かも分らず、先導の東大寺職員さんのお願いに参道を譲っておられました。

二月堂修二会別火坊


二月堂修二会別火坊・戒壇院庫裡


 社参出発


戒壇堂を経て勧進所参拝


大仏殿西廻廊に沿って


大仏殿中門から参拝


天皇殿へ


天皇殿参拝


大仏殿回廊に沿って1


大仏殿東廻廊に沿って2


猫段を上り


鐘楼、念仏堂を通り開山堂へ


鹿もお見送り


開山堂へ


開山堂参拝を終えて


二月堂湯屋へ


試みの湯


その間、お松明の青竹が次々と


お松明の青竹が立ち並ぶ


社参再開


二月堂北の石段を上り


聖武天皇陵遥拝を終えて


法螺貝を携え


二月堂より帰参1


二月堂より帰参2


二月堂より帰参3


興成神社前を通り帰参






 

興福寺の涅槃会

2015年02月18日 | 日記
2月15日は釈迦入寂の命日で、各寺院では「涅槃会」が開かれます。今まで、涅槃図はあちこちで拝観してきました。
京都の三大涅槃図①泉涌寺(明誉古礀筆・16m×8m)②東福寺(明兆筆・12m×6m)③本法寺(長谷川等伯筆・7.9m×5.3m)は、まさに大涅槃図で巨大さに圧倒されました。最大の泉涌寺の涅槃図は東大寺に奉納予定だったそうで、本堂に掛けきれず折曲がっていたほどでした。今年は、単なる涅槃図の拝観ではなく、興福寺の「涅槃会」に参座して来ました。
興福寺 涅槃会のご案内《HP》
2月15日はお釈迦様が入滅された日であります。
興福寺では釈尊の遺徳をしのぶ法要を厳修いたします。
どなたでもご参拝いただけますので、ぜひお参り下さい。
また参拝後は甘酒をご接待させていただきます。
◇◆興福寺涅槃会◇◆
【日 時】 2月15日(日) 10時~16時  ※法要は10時~11時頃
【場 所】 興福寺本坊(通常は非公開)
 ※参拝無料



本坊の表門


前 庭


玄 関

 
玄関に飾られた「斗の枡」(漆塗り?)

箱書き「斗枡五合」「一笑繁盛」

玄関で「涅槃会次第」を頂き矢印に沿って奥へ。
法要の行われる「北客殿」は、襖が外された大広間。奥中央に「八相涅槃図」が掛けられ、「舎利厨子」が安置、供花、供物等が置かれ、横の間には、雅楽楽器が並んでいました。「南都楽所」の方が演奏されます。また、NHKの取材で慌しくカメラテストや涅槃図の前撮りをされてました。
お寺の方から法要中の撮影、涅槃図等の撮影は禁止との注意があり、雅楽楽器などは良いとのことで撮らせてもらいました。


北客殿


雅楽楽器

涅槃会次第」(クリックすると拡大します)
 


「涅槃会次第」   
  入道場       (奏楽 皇麞急・おうじょうのきゅう)     
  三 礼
  着 座
   唄
  散 華 中段釈迦  (奏楽 林歌・りんか) 
  舎利三段講式
     (般若心経一巻経頭<経題発声後>)
  舎利和讃      (奏楽)<裏面>
  釈迦念佛 二十一返
  如来寿量品・唯識三十頌
  舎利礼
  退道場       (奏楽 鶏徳・けいとく)

僧侶に倣って合掌、礼、また般若心経は小さな声で唱えたり、
舎利和讃を目で追いながら釈迦如来の遺徳を偲ぶ法要に溶け込んでいる感じがしました。
法要は1時間余り、楽所の皆様のお参りの後、一般参座のお参りです。素晴らしい雰囲気を感じさせて頂いた感謝の気持ちを込めてお賽銭、焼香、合掌。
参拝記念に焼香盆に添えられた散華を手にして退室。南客殿で甘酒の接待を受けました。
雅楽衣装から着替えられた楽所の方もおられました。


散 華
(南円堂での大般若転読で貰った散華を加えています)


接待の甘酒


饅頭の祖

2015年02月07日 | 日記
建仁寺塔頭の両足院方丈の襖絵には、中央に花を手に説法する釈迦如来、右に建仁寺開山の栄西禅師と白象、左に両足院開祖の龍山徳見禅師と獅子と共に「林淨因」が描かれています。
「林淨因」とは…
龍山徳見禅師が、1349年宋から帰朝する際、禅僧17名、船主以下中国人11名を随侍した。その中にいたのが俗弟子「林淨因」。
林淨因は、中国浙江省の人、林和靖の末裔で、龍山徳見禅師に従って来朝し、その後、奈良漢国神社社頭に居を構え、故国で習いおぼえた饅頭を作りました。我が国へ初めて「饅頭」を伝えとされています。
中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げました。林淨因は、龍山徳見禅師のもとへ饅頭を携え上洛したそうです。
お饅頭の、ふわふわとした皮の柔らかさ、小豆餡のほのかな甘さが、寺院に集う上流階級に大評判となりました。
将軍足利義政公より直筆の「日本第一番饅頭所」の看板を、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領。その後、林家は、将軍のおひざ元、京都烏丸三条の北家と、奈良林小路の南家の分かれ繁盛したそうです。
以後代々「塩瀬」を家号とし、江戸に移っては将軍家の御用、明治初年より、宮内省御用となり、現在も東京で「塩瀬総本家」として有名老舗です。
奈良市内「漢国神社」境内に「林神社・林淨因命」として祀られています。店のあった場所(林小路)と言われ「饅頭塚」も社の横に在ります。
また、林神社には「菓祖神・田道間守命」も合祀され、饅頭・菓子の祖神となりました。毎年4月19日「饅頭祭」が盛大に行われています。
京都の吉田神社の参道にも「林神社」などが分祠され、「菓祖神社」として祀られてており、「饅頭祭」や節分の際、京都菓子卸商業組合の方たちの接待があります。

「塩瀬総本家年表」
寛正元年(西暦1460年) 四代惟天盛祐が京都に移ったことにより、奈良の南家(後に転業)と京都の北家とに分かれる
応仁元年(西暦1467年) 京都を焼け野原にした応仁の乱による戦火を逃れ三河国塩瀬村に移る 苗字を「塩瀬」と改姓
天正3年(西暦1575年) 長篠の合戦にて、七代目林宗二が徳川家康に本饅頭を献上
元和元年(西暦1615年) 大坂夏の陣、徳川家康が真田幸村に攻めたてられた際、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだの が、林浄因が、かって居を構えていた所
            (漢国神社に奉納された鎧が宝物としてあります)

<徳川家康公御鎧由緒略記>
慶長19年11月15日、大阪陣の際、徳川家康公木津の戦に破れ、当社境内の桶屋に落忍ばれ九死に一生を得給う。依って報賽祈願の為、翌16日当社に御参拝、御召鎧一領を御奉納遊ばさる。其の後鎧蔵を建立し、累世の将軍家は年々使者をお立てになりました。                     (鎧は現在 国立奈良博物館に出陳中)
                               平成9年11月吉日 漢国神社
             
文明九年(西暦1477年) 屋号を「塩瀬」と改め再び京都に戻り、宮中や将軍家に出入りを許され大変繁昌する
万治2年(西暦1659年) 塩瀬清兵衛が江戸に上り日本橋一丁目に店を出し、徳川家綱の御用を承る
明治元年(西暦1868年) 塩瀬総本店の仁木準三が宮内省の御用を拝命
昭和25年(西暦1950年) 現本店所在地に渡辺亀次郎が合資会社塩瀬総本家を設立

「林家」と「塩瀬家」
日本の饅頭の起源には1つに塩瀬家がある。林浄因三世の妻が、三河塩瀬を領地としていた豪族の娘という縁で,三河国塩瀬村(現在の愛知県新城市)に身を寄せました。
両足院の墓地に昭和6(1931)年に建立された饅頭屋町合塔の碑文には、林浄因が饅頭屋町の始祖であり、その子孫が奈良と京都に住み、のちに塩瀬と改称したなど、同家の歴史が記されています。
なお、昭和61(1986)年に中国に林浄因碑が立てられて以来、毎年10月初旬に碑の前で紅白饅頭2000個を配るという「饅頭祭」を続けられています。
そして、昭和61(1986)年、塩瀬総本家34代当主によって「日本饅頭創始人鹽瀬始祖林淨因記念碑」と刻まれた碑が中国に建立され、平成5年(1993)には、中国側からの打診により家祖・林和靖の眠る西湖・弧山に記念碑が移転されている。

林小路入口


漢国神社


扁額


林神社


饅頭のお供え


饅頭塚


御朱印


中国に建立された「日本饅頭創始人鹽瀬始祖林淨因記念碑」と刻まれた碑(転載)


徳川家康公御鎧由緒略記


徳川家康公御鎧(パンフレットより)