京都仏教会主催の対談と大徳寺の特別拝観に行ってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/c8/a39671b7905194adedba9b43929ce71d.jpg)
対談は狩野探幽の襖絵のある大方丈でありました。それだけでも特別な空間に居ることを実感。
<対談のメモ>
戸田実山師
臨済宗大徳寺派宗務総長
大徳寺は多くの戦国武将を祀る寺
応仁の乱の際、一休禅師は堺に避難 堺は南蛮貿易の町で豪商と交流=パトロン
伽藍再興 大燈国師305年遠忌
勅使門-山門-仏殿-法堂-(庫裡)-方丈(本堂)
法堂=通常使用
杉本歌子氏
京都市生まれ。杉本家九代目の三女。
財団法人奈良屋記念杉本家保存会学芸員。杉本家古文書の調査研究主任。
京都造形芸術大学非常勤講師。
奈良屋杉本家住宅
1743年(寛保3)8月5日 別家独立 呉服商「奈良屋」を創業
1864年(元治元年) 元治の大火により、再建
明治時代
1870年(明治3)4月23日 上棟 現在の杉本家住宅に。
平成
1990年(平成2) 2月 杉本家住宅、京都市指定有形文化財に
文化遺産の総体を崩壊、散佚から防ぎ、綜合的かつ恒久的に継承保存するべく、「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」を設立。
2010年(平成22)6月 杉本家住宅、重要文化財に指定
2011年(平成23)2月 杉本家住宅庭園(杉本氏庭園)、国指定名勝に指定
建物保存の危機⇒ 保存会 「切り株から芽を出し、育てていく」
仏像=美として鑑賞するのでなく、信仰の対象として観て欲しい
形あるものの中の無形のものを捉える
茶師の大徳寺=利休にちなみ塔頭等に多くの茶室
一休―武野紹鴎―利休=禅茶 ⇔ 闘茶
茶道=参禅⇒形成
宗教=体験⇒自分のものとして取り入れる
茶道、華道…学んだことを、教室だけでなく日常生活に取り入れる
浄土宗系 念仏「南無+阿弥陀仏」=阿弥陀仏に「預ける」=阿弥陀経読経
禅 宗系 座禅=只管打座 公案を通じて仏性に気づく
対談の後、普段は非公開の方丈、一般では立ち入れないエリアを通り、三門、法堂、唐門を拝観。
人が通らないので、石畳の間にまで苔が見事に密生していた。
難しい問題です。熊野古道もブームで参詣者が激増し石、木の苔が踏み荒らされたような状態とか…。
でも道は歩くところ…。
「三門」 天皇、上皇、秀吉など極一部の人が通ることができたそうで、
最近では新管長の普山式の際以来開かれたことの扉が特別に開かれた。
扉が開き、仏殿が正面に現れ、感動の一歩で朱塗りの三門をくぐる。
「法堂」 天井の絵の補修工事の際、丸太の足場で行われたこと、
このことは、文化財補修に欠かせない技術の継承に繋がること、
絵の具の剥離を防止する新しい接着材も検討したが、今後の補修を考え、従来の膠を用いることになったとの説明。
「唐門」 門の前の囲いを開けてもらって中に入り鑑賞。
彫刻細工は勿論、西日に彫金金具が輝き素晴らしかった。
僧侶の、門に彫刻があると言うよりも、「彫刻の門」との説明には納得。
日光東照宮の「陽明門」建造のの参考になったとか。
(写真は、特別拝観で方丈、三門、法堂等での撮影禁止のためパンフレットや他のブログから転用・金毛閣の写真のみオリジナル)
概略・歴史
臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。
桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、
それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。
山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい
利休居士自決の原因となった話は有名。
本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。
方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。
方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。
什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。
(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、
それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。
伽藍
勅使門(重要文化財)
山門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
平成12年、屋根等修復。
三門(山門)(重要文化財)
創建不詳。亨徳2年(1453)焼失。応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、享禄2年(1529年)竣工した。
その後天正17年(1589)千利休居士により二階部分が設けられ[金毛閣]と名づけられた。二階二層門となる。
楼上は、広い一室で釈迦迦葉阿難三像や利休寄進の十六羅漢像が安置され、天井龍は長谷川等伯筆。
この楼上に利休木造を置いたことから、秀吉の逆鱗に触れ切腹の因と言われている。
利休の質素な茶道と、秀吉の豪華な茶室好みなどの嗜好と合わなくなっていったことに加え、讒言に因ったとの説もあり。
山門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のこと。
一端、山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを。
1589年、利休は等伯の力を見込んで、京都の名刹・大徳寺に利休が寄進する「金毛閣」の天井と柱の装飾画を依頼した。
大徳寺という絵師にとっての大きな桧舞台で、狩野派を押しのけて一介の絵師が絵を描いた このことで紛れもなく、
有名絵師の仲間入りをすることとなった。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。
(
しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/7f/2049ea2945e56b860e6e9b7b2e2e22c9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/9f/a6e4ee980dab5b9b9331c115b32d06f6.jpg)
金毛閣の軒丸瓦
*金毛閣:金毛とは、金毛の獅子のことで、衆生を救うべき禅僧をいう。(仏教では金毛の獅子とはお釈迦様自身をさす.)
上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう);自分より上(上の境涯)のものに向かっては菩提、悟りを求めて一心に修行をする。
自分より下(下の境涯)のものに向かっては親切に指導してあげる。仏道修行者が必ず実践しなければならない事だと言われています。
仏殿(重要文化財)
1世徹翁義亨(てつとうぎこう)が創建。亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が法堂を兼ねて再建したが、
応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。文明11年(1479)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である
泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により再興。旧来どおり法堂を兼ねていた。
その後寛文5年(1665)156世江月宗玩(こうげつそうがん)により、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。
仏殿は、寺院の本尊を祀る。
禅宗寺院では仏殿はなく法堂だけだったが、宋代に至ると仏殿を中心にして、その後方に法堂が置かれるようになる。
桁行三間・梁間三間・一重裳階・入母屋造・本瓦葺。重文。
法堂(重要文化財)
開山大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、嘉暦元年(1326)赤松氏の建立により落慶し、
龍寶山の山号を掲げ寺号を大徳寺と定め、嘉暦2年(1327)開堂。
亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が佛殿を兼ねて再建したが、応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。
文明6年(1474)勅請により大徳寺住持となった47世一休宗純等により佛殿を兼ねて再興。
156世江月宗玩(こうげつそうがん)の勧化により小田原城主稲葉正勝(1597~1634)が建立を約したが、没したため、
その遺命によって寛永13年(1636)その子正則(1623~1696)が建立した。
法堂は、住持または導師が上堂し修行者に説法する場所で、説法堂。
天井の雲龍図は35歳の狩野探幽筆。 天井の龍は、手を打つと龍の鳴くがごとく聞こえることから、「鳴き龍」とも言われる。
桁行五間・―梁間四間・入母屋造・本瓦葺。重文。
唐門(国宝)
今は方丈前庭にあるが、明治の中頃まで勅使門の西にあった。村上周防守が聚楽第の遺構を譲り受け、明治になって、明智門があった今の場所に移建された。
聚楽第とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示した。のち関白を養子秀次にゆずり、秀次の居宅になった。
のち秀次に謀反の罪をきせ断罪、聚楽第を破却した。その時、破却をまぬがれたと伝えられる。
この唐門は、彫刻や金具の豪華さ、豊富さに特徴があり、日光東照宮の日暮門の模型となっている。
一日中見ていても見たら無いほどの門であるところから、一名「日暮の門」とも言われる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/9e/7379666e9667d3f124bfc58702cb2927.jpg)
(6枚転載写真)
京都の三大国宝唐門(豪華絢爛桃山文化の粋)
豊国神社の唐門・伏見城の遺構
西本願寺の唐門・伏見城の遺構
大徳寺の唐門 ・聚楽第の遺構