パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

令和元年「戸津説法」

2019年08月23日 | 日記
三十三間堂仏教文化講座で「戸津説法」の聴聞に参加してきました。
戸津説法とは、天台宗の高僧が「法華経」の説法を、坂本の「東南寺」で
行うもので、かっては「30日間」に亘って、坂本の生源寺、下坂本の観福寺と
東南寺で行われていたが、「元亀の法難(信長の比叡山焼き討ち)」以降、
東南寺のみとなり、江戸時代初期には「10日間」に、明治以降は「5日間」になったと
頂いたしおりに記されていました。
歴史は、宗祖伝教大師最澄が、叡山鎮守山王日吉権現への地恩報謝と、ご両親への
孝養回向の一つとして、琵琶湖畔の戸津浜で民衆に法華経を説いたのが始まり、
千二百余年に亘り続く、宗門の最も重要な行事の一つ。
説法師をつとめることが、天台座主への登竜門とされています。
今年は穴太寺(亀岡市)住職の穴穂行弘氏(78)が説法師を務められました。


坂本周辺の里坊地図。左下が東南寺で、比叡山の東南に位置する寺名とか。

 
「戸津説法のしおり」            御朱印


説法の行われる本堂正面

 


説法師 穴穂行弘大僧正

 
本堂屋根の狛犬

 
東南寺を示す「東」の瓦の鐘楼


境内中央の地蔵菩薩



 

この地は坂本城の二ノ丸跡とされ、境内には坂本城が落城する際戦死した武士の供養塔(首塚)や石仏があります。
2020年のNHK大河ドラマが「明智光秀」ということで、縁の東南寺を訪れる人が多くなるのでしょう。

説法師・穴穂大僧正の住職をされているお寺は「穴太寺」で東南寺は坂本にあり、
坂本の町には石垣の塀などが多く残されています。
ここは城の石垣積みなどで活躍した「穴太衆」の出身地というこで、
ここで見られる石垣の多くは穴太衆の積んだ石垣のようです。(穴太積)
何か縁があるのでしょうか?
字こそ異なりますが姓も「穴穂」大僧正。

付録?
織田信長の比叡山焼き討ちは日本史で習いましたが・・・
延暦寺では「元亀(げんき)の法難(元亀2年)」と言うのですね。

鎌倉時代の有名な僧侶の流刑でも、日本史では学ばなかったけれど、
宗門から見れば「◯◯の法難」表記されているのを目にしたことがあります。

今年は、京都では大政奉還・明治維新150年とよく目にしましたが、
会津の友人は、「戊辰戦争150年」とか言ってました・・・

主体が変ると表現も変わるのですね?



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クサギ(臭木)とクロアゲハ

2019年08月23日 | 日記
大改修中の延暦寺根本中堂拝観の際、昼食をした延暦寺会館の前に
「クロアゲハ」の群舞する花が咲いている木がありました。
木に「クサギ シソ科」と名札が付けられていました。
会館の方にお聞きすると、花が咲くと集まって来るそうで、
苦さい匂いがするので「臭木」と言うらしいとのことでした。
葉を採って臭いで•••確認は遠慮しました•••。

先ずその木について (植物事典より)

・和  名 クサギ
・漢字表記 臭 木
・古  名 ウグイスノイヒネ(宇久比須乃以比禰)
・語  源 和名は、葉に悪臭があることから。
・植物分類 シソ科クサギ属(以前はクマツヅラ科とされていた。)
・園芸分類 洛陽承高木
・用  途 染料(実)、用材(下駄、薪等)
・解  説 真夏の山野に白い花を見せるのでよく目立つ。
      花は白いが、それを支える萼は赤紫色。 
      歯には強い悪臭。
      実は紫色で、赤紫色の星形の萼がそのまま残る。
      日本全国のほか朝鮮、 中国に分布


カラスアゲハ?              モンキアゲハ?


クロアゲハ                                    

 

さて、このクサギの花に集まる「クロアゲハ」、コンデジで撮ってトリミングしたので不鮮明ですが・・・
よく見てみると、少しずつ異なっているように見えます。
詳しくは知りませんが、雌雄の区別も含め、クロアゲハ、カラスアゲハ、モンキアゲハ・・・等が
混ざっているようです。
生態のこともことも知りませんが、かなりのスピードで追いかけまわしているのもあるように見えました。
これだけ多くのクロアゲハが飛び交うのを見るのは初めてです。
フジバカマの花に飛来する「アサギマダラ」を彷彿するものが有り興奮しました。

「蓼食う虫も好き好き」と言いますが、「クサギの花に集まるクロアゲハも好き好き」?
蝶マニアの方のブログによれば、葉は悪臭でも花は甘い匂いとか・・・ならば納得出来ます。
因みに、あく抜きをすれば食べることもできるとか・・・

クサギの実(写真は他の方のブログより転載)
  

       山を散策していると、この実は見かけたことがあるように思います・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「反薄明光線」(天割れ・裏後光・表後光)と言われる現象

2019年08月05日 | 日記
2019.8.4PM7:00頃車のフロントガラス越しに変った西空(生駒方面)の光景が…
大きな雲の後ろ側から西日が差し、あたかもバックライトで雲が鮮やかに縁取りされ…
その上に空の雲を分断けるような光景が見えました。
走行中でしたので、写真が上手く撮れませんでしたが、
学研登美ヶ丘駅から電車に乗る時、ホームから
鮮やかさでは少し落ちましたが、何とか撮影できました。
空の雲が一部切れているのは分ります…

「天使の梯子(反薄明光線)」はよく見ますが、これは初めてでした。


ホームからの一枚





走行車中から(乗せて貰ってましたので)


Wikipediaによると、
「反薄明光線(はんはくめいこうせん、英:anticrepuscular rays)は、
太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、
太陽と正反対の方向に光線の柱(光芒)が放射状に収束して見える現象。
太陽の周囲にできる薄明光線とは逆。
裏後光(うらごこう)、裏御光(うらごこう)とも呼ぶ」
だそう

テレビでも同じ頃の写真映し、視聴者の質問に気象予報士の方が説明されてました。

同じ光景を写しているる人が…

「枚方つうしん」掲載より転載
◇お名前
ベルモットさん
◇コメント
生駒側の方の山から空に向かって
影のようなものがありました。
不思議な現象だったので写真を撮ってみました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疫神社夏越祭

2019年08月05日 | 日記
八坂神社祇園祭のフィナーレ!
疫神社夏越祭に行ってきました。
祇園祭は山鉾巡行だけでなく、年々神幸祭、還幸祭の人出が増えているようですが、
7月31日に斎行された、疫神社夏越祭の参拝者も年々増加しているように感じます。

そもそも…疫神社夏越祭とは?
多くの神社では「大祓」の神事として、6月30日に茅の輪くぐりが行われますが、
神社によっては、旧暦により斎行されます。疫神社も旧暦によるものです。
そもそも祇園会は、御霊会として7月1日吉符入りから始まり、
31日の疫神社夏越祭茅の輪くぐりをもって締めくくりとなるものです。



摂社 疫神社の駒札


八坂神社西楼門(祇園石段下)
楼門から入ると正面が疫神社
 
 
夏越祭の案内と鳥居に掛けられた「茅の輪」 

 
注連縄に付けられた「蘇民将来之子孫也」


参拝を待つ長蛇の列
神事、関係者参拝の後に一般参拝


疫神社の御朱印

 
御霊会の特別御朱印

 
茅の輪のお守り

 
「祇園祭1150年」の記念千社札・参拝記念カードを頂きました


かたずけの際列を止められたので

くぐる「茅の輪」とは別に「茅」が置かれていて頂くことができます。
参拝者の皆さんと同じように自作の茅の輪作りに挑戦したのですが…
上手く輪になりませんでした

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博多承天寺と開山聖一国師

2019年08月03日 | 日記
承天寺(じょうてんじ)(承天禪寺とも)は、臨済宗東福寺派の寺院で、
1242(仁治3)年に、公家の高官である大宰少弐・武藤資頼(むとうすけより)が
臨済宗の僧・円爾弁年(えんにべんねん)を招き、宋出身の貿易商・謝国明(しゃこくめい)の援助により創建されました。
1243年(寛元元年)には勅願所官寺となりました。

承天寺の開祖聖一国師にまつわる話。

国師とは国の師を意味する称号で、
日本では鎌倉時代の高名な禅僧、聖一国師(円爾・えんに・1202~80)に初めて贈られた。
宋(中国)で学び帰国した聖一国師には、
深草上皇、亀山上皇、北条時頼、謝国明をはじめとする多くの人々が帰依しました。
また国師は、博多の承天寺や京都の東福寺などに開山として招かれています。

宋で学んだ円爾は多くの宋の文化・技術をもたらし、
承天寺は、うどん、蕎麦や饅頭などの製法が最初に伝えられた場所とも云われています。


 参拝パンフレット 

「萬松山 勅賜承天禪寺」




御朱印

 


「饂飩・蕎麦発祥の地の碑・御饅頭所の碑・満田彌三右衛門之碑」

•「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑

仁治2年(1241)中国の宋から帰国した円爾弁円は、「水磨」と言う水車による製粉技術を持ち帰り、
うどん・そばの作り方を日本に広めたことから、承天寺はうどん・そば発祥の地とされています。
また、謝国明が大晦日、貧しい人々にそばをふるまったことが、「年越しそばの始まり」と言われています。

•「御饅頭所」の石碑

仁治2年(1241)中国の宋から帰国した円爾弁円は、托鉢の途中で親切にもてなしてくれた
茶店の店主に南宋から持ち帰った饅頭の製法から「酒饅頭」の作り方を伝授し
「御饅頭所」の看板まで書与えました。
店主・栗波吉右衛門は「虎屋」の屋号で酒饅頭を売り出しました。
円爾弁円の「御饅頭所」の看板は現在東京の虎屋に保存されています。
その古い複製が博多松屋に伝えられています。

•「満田彌三右衛門之碑」

鎌倉時代の嘉禎元年(1235)円爾弁円と共に宋に渡った弥三右衛門は
6年後、仁治2年(1241)宋から帰国した満田弥三右衛門は
織物・じゃ香・素麺・箔・朱の製法を持ち帰りました。
その中の織物技術のみ家伝とされ、唐織の技術が博多織の始まりとされています。
江戸時代初代藩主・黒田長政が幕府への献上品となった
博多織の献上柄と言われる独鈷と華皿の模様は
円爾弁円の発案によるものと言われています。

•「山笠発祥之地」の石碑

博多祇園山笠は、通説によると、1241(仁治2)年、承天寺の円爾弁円(開祖聖一国師)が
当時博多に流行した病魔退散の祈願をした時、「施餓鬼棚」に棒を付けて、
町人が担ぎ、棚に乗って祈祷水を撒いた故事が祇園祭に取り入れたものと言われている。

追い山笠のコースになっており、舁き手は門前に並んで待つ住職に一礼する。



ちなみに承天寺では国師が中国から「羹・饅・麺」をもたらしたとして、
今も命日に羊羹、饅頭、うどんをお供えしているそうです。

饅頭といえば…
奈良の漢国神社内にある
饅頭の祖と言われている「林浄因」が祀られている「林神社」

こちらも、臨済宗黄龍派、建仁寺の開祖栄西の流れを汲む「龍山徳見禅師」が
宋からの帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。
それが「林浄因」で、中国の饅頭に改良を加え、
自然薯を使った「小豆餡の饅頭」を考案(1349年)し、饅頭の祖と称され、
現在でも末裔が東京「塩瀬総本家」で「志ほせ饅頭」として伝承しています。

承天寺の「御饅頭所」の石碑を見るにつけ
日本の和菓子の老舗「塩瀬総本家(小豆餡饅頭)」「虎屋(酒饅頭)」の歴史を振り返ると興味が湧きます。

              (櫛田神社、承天寺、福岡市観光パンフレット等参考に作成しました。)










コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする