パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

綱越神社例大祭と引き馬の神事

2017年07月31日 | 日記
7月31日(旧六月晦日)大祓「夏越祓(なごしのはらえ)」が厳粛に行われました。
大神神社大鳥居の南側に位置する摂社綱越神社で行われ、
夏を無病息災で過ごすことを祈る「夏越(なごし)の祓」の祭典です。
綱越神社は平安時代の『延喜式神名帳』に記載される古社で祓戸の四神を祀り、
街道筋から大神神社に参拝する際に先ずお参りするお祓いの社です。
神社の名前の「綱越」は「夏越し」が訛ったものと言われます。
祭典名の「おんぱら祭」も「御祓い」の転訛で、神社は親しみを込めて
「おんぱらさん」と呼ばれています。
祭典では、大祓詞を神職が唱える間に神馬が境内を三周する「神馬(しんめ)引き」や、
「水無月の 夏越しの祓へ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」という
古歌を唱えながら「茅の輪」をくぐるお祓いの神事が古式に則り行われます。



木立の中に本殿      綱越神社正面


本殿左側より       本殿右側より


東の茅の輪内側より大鳥居 西の茅の輪内側より大鳥居


東の茅の輪正面       西の茅の輪正面

    
引き馬の神馬      馬の背に神様の依代「金箔の御幣」

  
大祓詞の奏上される中、お社境内を三周します

 
茅の輪の横を通り、くぐりません


三周すると神馬の奉仕は終わります(後方に三輪山)

 
神事

 
巫女さんによる神楽「浦安の舞」

 
榊(さかき)の尖った枝先に神様が降りてくる依代(よりしろ)として榊

 
神楽の「楽太鼓」      神楽舞の「振鈴(神楽鈴)」

 
榊の依代を先頭に茅の輪くぐりが始まります

 
先ず正面の東の茅の輪をくぐります 

 
境内を進み西の茅の輪くぐり三周します

 
参拝者は自由に人形(ひとがた)に託して罪・穢れを祓い遣り、息災を祈って
「水無月の 夏越の祓いする人は 千歳の命 延ぶといふなり」と
古歌を唱えながら神職に続きます。

神職は、三輪川での「垢離取り(禊ぎ)」、大神神社の「三鳥居に因んだ三連茅の輪」、
摂社綱越神社の「二つの茅の輪」、「三周する引き馬神事」
何れも珍しい神事は古式に則り斎行されています。
引馬に因んだ「駒繋松」があるらしいのですが…気が付きませんでした

また…雑記のおまけ…
①神楽鈴
 招霊(おがたま)の木が原型と言われています。
和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したもの。
日本神話においては天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った
天鈿女命(アメノウズメノミコト)が手にしていたとされ、
古くには榊などとともに神前に供える木として用いられました。
このことから地方に於いては、真榊とも言います。
果実がはぜて中の真っ赤な種子が見える姿より
「神楽鈴」が考え出されたと伝えられています。

②大神神社の鳥居ですが、一の鳥居は、あの日本三大鳥居ではありません。
実は、綱越神社の前の細い小路が参道で、その奥に木造りの「一の鳥居」があります。
鳥居をくぐると小さな石の太鼓橋「渕本橋(ふちもとばし)」がかかり参道は続きます。
   
木造りの「一の鳥居」 「大和國一宮官幣大社大神神社」

 
小さな石の太鼓橋「渕本橋」

祇園祭後祭…

2017年07月30日 | 日記
後祭で、四条通を各々鉾町に帰っていく鉾、山を観てきました。
斜めから見た?後祭の様々な雑感。

其の1 赤い房の付いた指示棒?を持った車方を発見。鉾町の狭い通りでは特に重要な役目。

 


其の2 前祭を終えた四条通りの長刀鉾、函谷鉾、月鉾の保存会の皆さんが、
    後祭の山、鉾の還ってくるのをお出迎えされています。

 
長刀鉾 前に止まった橋弁慶山に冷たいお茶の接待


函谷鉾 


月鉾


其の3 巡行は籤で決まりますが、鉾町は狭いので奥(北側)から順番に帰ります。
    新町通は、北から「八幡山」「北観音山」「南観音山」の鉾町があります。
    後祭の巡行の順番は、
    「北観音山」「南観音山」「橋弁慶」「役行者山」「鯉山」「八幡山」…
    先頭の「北観音山」は最初に新町通に来ますが「八幡山」が来るまで待機します。
    「八幡山」は烏丸通から室町通の道幅が広くなったところで、
    前の四基の山を追い越します。
    新町で先に曲がりますが、その時は「北観音山」囃子も止めて見送ります。
    曲がり終わると最後の「辻回し」の準備に入ります。
    室町通でも同じように、「黒主山」が「鯉山」を追い越して先に曲がります。



左に「黒主山」、右によけた「鯉山」

 

    四条通りのフィナーレは通りの北側と南側に「山」が2列になるところ。
    最後が「凱旋の大船鉾」巨大な船が四条通を進み新町で最後の「辻回し」

 
四条烏丸交差点を進む「大船鉾」 まさに堂々の凱旋を感じます。


其の4 新町通は、四条通りから南には少し登り坂になっているのに気づきました。
    大船鉾が最後の辻回しをして、四条町の保存会までの間
    最後の力を振り絞らなければなりません。

  
四条新町で今年最後の辻回し

  
新町通を南へ(後方に南観音山の姿も)

      
無事凱旋        音頭取衆もリラックス
最後は関係者、観衆で三本締め


其の5 御手洗井
    四条烏丸を北,蛸薬師の近くに「御手洗井」があることを初めて知りました。     
    毎年7月14日から24日までだけ開かれているから普段は見落としてた…。
    説明板によれば
    『手洗水町名由来
     例年祇園會中(7月15日〜24日迄)この井を開いて
     神水を頒す秀吉の頃町民の申出により町名となる』
    『御手洗井由緒
     此地は往古祇園社お旅所社務藤井助正の屋敷地で
     庭前に牛頭天王社を建て毎朝この霊水を奉供した
     永禄11年織田信長上洛して御旅所を移転の後も 
     此の井水の格別なるを聞き井戸に施錠し鍵は町分に
     渡し置き毎年祇園會の時のみ開いて諸人へ
     神水を施行せしめたと云う
     然して東裏竹藪より竹二本を伐り取り山科より丈八の
     松二本を持参して井前の鳥居に結び付けて七五三縄を
     張るを例とした以降連綿現在に及ぶ明治45年3月
     烏丸通拡張の為旧地より原形のままその東方現地に
     移す深さ七尋半水質清冷にして都下の名水として
     著名である毎年7月14日井戸換え24日閉じる』 とあります。

     管理しているのは、井戸が町名の由来になった「手洗水町」の人たち。
     毎年7月15日に、「遙拝式」という井戸開きの儀式を営み、
     しめ縄を新調して、ちまきやトビウオの干物を供えられるそうです。
     豊かな水をたたえる井戸ですが、地下鉄東西線の工事で
     一度水脈が途絶えたそうですが、新たにボーリングをして、井戸は復活。
     土用の日に、あんころもちと一緒にこの水を飲むと、
     一年間、病気をしないという言い伝えもあるそうです。

    
説明書             正面の鳥居 

 
祇園祭の期間のみ伝統を受け継ぎ開かれています 

  
井戸には生米と塩のお供え
        

「御手洗乃水」


来年は、
前祭のスタート地点の四条烏丸に集まる様子、鉾町に帰る様子を見てみたいと思う。
山鉾の醍醐味は、細い通り(室町の菊水鉾、新町の放下鉾、船鉾など)を通るところ。
子供の頃は、確か寺町通を巡行していた…屋根方も大変スリリングだった…
鉾の上から粽も撒いていた…。

大豊神社・いろいろな動物の「こま◯」

2017年07月27日 | 日記
南禅寺から銀閣寺への疎水に沿って「哲学の道」と呼ばれる散策路があり、
平日でも、多くの海外観光客も散策を楽しんでおられます。
鹿ケ谷安楽寺の「かぼちゃ供養」の帰路、立ち寄りました。
「大豊神社(おおとよじんじゃ)」は「狛ねずみの社」とも呼ばれ
干支が「子歳」には特に多くの参拝があるのでも有名です。
大豊神社には、神のお使いとして色々な動物の「狛◯」がお祀りされています。
「狛犬」は言うに及ばず「狛巳」「狛鳶」「狛猿」そして「狛ねずみ」
さらには稲荷社に「狛狐」。
社務所の方によると、大祭は5月4日に行われ、三基の剣鉾を先頭に神域を
巡行するされ、賑わうとのこと。








手水舎は椿ヶ峰の御神水  難儀を祓い幸を呼ぶ夫婦梛の木

 
拝  殿

 
本  殿


良縁・招福石      金運恵授の「狛巳」


火難除の愛宕社・災難除の日吉社


「狛鳶」         「狛猿」
愛宕天狗の鳶烏帽子由来   三番叟を舞う


縁結び、健康長寿の大黒社と「狛ねずみ」


豊穣・薬効の象徴の水玉を持つ  学問を表わす巻物を持つ


ご朱印


おまけ…
住所の「宮ノ前」の「宮」は、一帯の産土神としての大豊神社に由来するようです。
安楽寺の直ぐ横に、霊鑑寺の不動堂「如意不動尊(洛陽十二支妙見・鹿ケ谷の妙見)」があり
御所から東の方角に因み「兎」が祀られています。



大豊神社からさほど遠くない天王町の、岡崎神社には「狛兎」が祀られています。



鹿ケ谷安楽寺「かぼちゃ供養」

2017年07月26日 | 日記
7月25日、京野菜として有名な「鹿ケ谷かぼちゃ」による
「中風」にならないよう願う「かぼちゃ供養」に行ってきました。

  「中風」とは、中気、卒中ともいわれ、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である
  半身不随、片まひ、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉として用いられています。

ひょうたんに似たおもしろい形の「鹿ケ谷かぼちゃ」とは、
約二百年近く京都で栽培されてきました。
昔から京都では、「おかぼ」と呼び、人気のある京野菜です。
文化年間(1804~1818)の頃、東山のお百姓さんが、津軽に旅をしました。
その時に、かぼちゃを持ち帰り、鹿ケ谷に住むお百姓さんにあげました。
もらったお百姓さんは、さっそく自分の畑に植えて、栽培しました。
これが、鹿ケ谷かぼちゃの始まりです。
昭和に入ってかぼちゃの新品種との競争に敗れ,作付けは激減しましたが、
京都の伝統野菜「京野菜」の一つとして最近有名になり復活してきました。

江戸時代に安楽寺の真空上人が、
「夏の土用に鹿ヶ谷かぼちゃを食べると病にかからない」
との夢のお告げを受け、仏前で供養をして食したのが始まりです。
毎年、7月25日に安楽寺の寺宝一般公開(虫干し)に来た参拝者に
鹿ヶ谷かぼちゃが振る舞われます。

参拝案内


 
哲学の道を歩いているとかぼちゃ供養の案内

 
「浄土禮讃根本地」      山門

 
境内の「くさ地蔵堂」      「こまかぼちゃ」?

 
手水舎            佛足石


本 堂

 
本尊「阿弥陀三尊像」    「法然上人張り子像」

 
鹿ケ谷かぼちゃ       京野菜のお供え

 
「かぼちゃ供養」の振る舞い  振る舞いの卓には鹿ケ谷かぼちゃ
振る舞いのお手伝いは子供達がしていました

 
緑に包まれた庭園を眺めながら、美味しくかぼちゃを頂きました。
少しかぼちゃから離れて、安楽寺の悲しい由来
鎌倉時代初期、法然上人の弟子住蓮房・安楽房の二人の僧が念仏道場「鹿ヶ谷草庵」を建て、人々に念仏をすすめました。
当時、後鳥羽上皇の女官として仕えていた19歳の松虫姫と17歳の鈴虫姫は、
両上人から念仏の教えを拝聴し感銘し、密かに出家。
このことを知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企て、二僧は斬首。
(安楽房は六條河原において、住蓮房は近江国馬渕にて処される)
これに止まらず、法然上人は讃岐へと親鸞聖人は越後へ流刑に処しました。(建永の法難)
その後、両姫は瀬戸内海の生口島の光明坊で念仏三昧の余生を送り、
松虫姫は35歳で鈴虫姫は45歳で往生したと伝えられます。
両上人亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、
流罪地から帰京された法然上人が両上人を弔うため
草庵を復興するよう命じ「住蓮山安楽寺」と名づけました。
本堂には本尊阿弥陀三像を安置し、傍に住蓮・安楽両上人、松虫・鈴虫両姫の座像、
法然上人張子の像などをまつっています。
また、境内には住蓮・安楽両上人、そして、松虫・鈴虫両姫のそれぞれの供養塔があります。


参拝案内の表紙


上段 安楽上人・住蓮上人座像 
下段 鈴虫姫 ・松虫姫 座像 

 
住蓮上人・安楽上人墓所(供養塔)

  
松虫姫・鈴虫姫墓所(供養塔)



ご朱印「法然上人御旧跡」

          (参拝案内、観光案内、京野菜「かね正」のHPを参考にしました)

御室五智山蓮華寺「きゅうりふうじ」

2017年07月26日 | 日記
土用丑の日25日は、仁和寺に隣接する
五智山蓮華寺では「きゅうりふうじ」の祈祷が行われます。
 

蓮華寺の参拝の栞


 


五智如来像と本堂、不動堂


きゅうり封じの祈祷が行われる不動堂

  
堂内中央に、「五智不動尊」石造坐像が祀られています

 
受付に準備された祈祷用のきゅうり    祈祷をお願いすると個別の箱に納められます

 
祈祷「願文」が記されます        きゅうりには経文の護符が埋め込まれています


きゅうり封じの解説


護符とご朱印「五智不動尊」


きゅうり内に埋められていた護符
これで…祈祷効果は減衰したかも…
埋め戻して修法に従い土に埋めます



西賀茂の弘法さん・神光院

2017年07月22日 | 日記
弘法大師縁の三か寺で「京都三弘法まいり」が企画され、
三霊場巡りで、観音開き特別ご朱印帖が授与されています。

神光院では、7月21日と第一土用の丑の日(25日)に、
「きゅうり封じ(きゅうり加持)」がおこなわれています。
京都駅前から市バス4系統・西賀茂車庫行に乗ると終着の一つ前が「神光院前」。
時間的には地下鉄で北大路バスターミナルからバスで行くのが早いのかも。

神光院は山号・放光山といい、本尊は弘法大師(空海)像。
左右の厨子には「愛染明王」「歓喜天」。

東寺(教王護国寺)、仁和寺と並び京都三大弘法として有名。
地元では、「西賀茂の弘法さん」「上の弘法さん」として親しまれています。
神光院は、1217(建保5)年に上賀茂神社の神職の神託により、
大和国(現在の奈良県)から僧侶・慶円(けいえん)を招いて創建されました。
弘法大師は42歳の時、ここ神光院で90日間の修行を行いました。
修行を終えて寺を離れる時に人々との別れを惜しみ、
「私を信じる者は老若男女を問わず、諸病災厄を免れるであろう」と言い、
境内の池に映る自分の姿を見て木像を彫ったことで、
厄除けの寺としても広く知られるようになりました。
この弘法大師が自ら彫った木像は本堂に安置されています。
また神光院は昔、京都御所に奉納する瓦職人の宿に使われており、
「瓦屋寺」とも呼ばれていました。
目にご利益がある神光院神光院は厄除けにご利益があるお寺として有名ですが、
弘法大師が諸病を封じるために行った密教秘法と言われる、
「きゅうり封じ」のご祈祷が特に有名です。

弘法さんの21日、京都駅からバスで神光院に行ってきました。

 
「厄除け弘法大師」            「放光山 神光院」


参 道


山 門

  
きゅうり封じの案内            山門を入り正面
      

玄関

 
庫裏の軒丸瓦に神光院の「神」の字瓦

  
役の行者像                本堂への参道




本  堂
「きゅうり封じのきゅうり塚」
 
厄除け祈祷を受けた後、体の悪いところを撫でて土に埋めるのですが
産める場所の無い方のため、境内のきゅうり塚に納める事も出来ます。


大日如来の種字「ばん」


ご朱印「厄除弘法大師」

祇園祭山鉾の曳き初め

2017年07月15日 | 日記
いよいよ祇園祭が近づき、京都生まれ、京都育ちには
鉾の囃子を思い出しながら、呼び寄せられます。先ずは前祭。
12日には東西の四条通りの鉾、長刀鉾、函谷鉾、月鉾、室町通りの菊水鉾、鶏鉾が曳き初め。
13日には南北の新町通りの鉾、放下鉾、船鉾と曳山の岩戸山の曳き初めがあり、13日に行ってきました。
大昔になりますが…鉾町の子供が中心になり曳き初めが行われ、終わると「御菓子」が配られました。
最近では、従来と様変わりで、内外の観光客や大人が主力?
それに祭半纏を着た保育園児や学校の課外授業の小学生も。
前日の鶏鉾の曳き初めでは、鉾町の池坊短大の女子大生が浴衣姿で参加し、自称カメラマンに大もてだったとか。
鉾町も時代の流れでビルが建ち、住人の数が減り…生粋の鉾町の京都人が少なくなって…神事より観光ウエイトが高まっています。
曳き初めの神聖な「綱を跨いで」、古老に注意されても、その意味が分からない旅行者も…。
因みに、綱を持ち上げてくぐるのが仕来りだそうです。
放下鉾では、曳き初め参加者の大人達にも参加賞?として「ポッキー」が配られていました…。

  
曳き初めに加わりました。
保存会の方から「綱引きではありませんよ。前を向いてください。」の声も


昨年、一昨年の見学の注目ポイントは「鉾頭の下の『天王台』に鎮座されている「神像」。


長刀鉾の真木のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡の衣裳着の人形


今年は…天王台の下の「榊」の形状の違いと「音頭取」の履物など…鉾での違いに注目。
函谷鉾の榊は他の鉾と形状が異なり、榊の中には金の御幣が祀られていたことや
船鉾の音頭取が黒い足袋に草履を履いていたのですが、他は素足に草履。
イメージとしては、神事ですから白足袋に草履…曳き初めだったからでしょうか?

  
函谷鉾の榊の中に金幣    放下鉾の榊      菊水鉾の榊


船鉾の音頭取は黒足袋に草履 放下鉾の音頭取は素足に草履

それに…長刀鉾の前に靏、龜と書いた御神酒が供えられていた…。


長刀鉾の御神酒「龜」「靏」

今年は7基の鉾の見比べを楽しみましたし曳き初めの囃子も聞くことができました。
また、どの鉾も曳き初めですから、バック曳きで元の位置に戻るのも面白かった…。
特に、船鉾は舳先に「鷁(げき)」が付いているのでバックがよくわかります。


船鉾の「鷁」が進行方向   舳に音頭取で前身  艫に音頭取で後進


それに、初めて気が付いたのが鉾の前方で鉾のコース判断をする役「車方」がいること。
鉾が狭い通りを通過するとき、「屋根方」に傾きなど指示していることも注目しました。

  
岩戸山に常に正対し、屋根方に棒で曳山の傾き具合を示している



船鉾は二階から渡廊下で鉾に、岩戸山では梯子で乗り込むようです…


祇園祭の鉾見物もまだまだ終わりそうにありません…来年も…
いや、今年は未だ後祭がありました。

(祇園祭宵山会議発行パンフレットより)








和歌山県由良町「白﨑海洋公園」

2017年07月09日 | 日記
「白﨑海洋公園」と言うところに行ってきました。
予備知識のないまま出掛けたのですが…。
行って目を見開く光景が…。
ただの白い岩の露出した海洋公園ではなかった。
きれいな青い海と白い岩の光景は「日本のエーゲ海」とも称されているとか。
車中からは所々の入江に砂浜があり、水遊びの姿も見られました。

白い岩の白崎海岸はその名の通り、岬全体が白い石灰岩でできているとのことです。
2億5000万年以上も前になる古生代ペルム紀のもので、今でもフズリナやウミユリなど、
古代の化石が至る所で発見されるとか。
もともと石灰岩は、サンゴや貝殻が大量に集まって長い年月をかけて固まった炭酸カルシウムが主成分。
セメントや肥料の原料として採石されていた時代もあり、日本の産業発展の一翼を担っていました。

道の駅の方の話では、インドネシアから隆起して日本列島のここにくっついたと言う説があるそうです…。
白い石灰岩が作る岬は大変珍しいそうです。いわゆるカルスト台地のようなもので、
現地に来る道中に「戸津井鍾乳洞」の看板がありましたが、周辺が石灰岩質である証左かも。


車中から由良風力発電所の風車(5基)が、
途中で広川明神山風力発電所の多数(16基)の風車も見えました。
青山高原の風力発電所以来、車窓から目に付くようになりました。



白﨑海岸の岬の全景(由良町HP掲載写真)


公園入口ゲート


駐車場から見た白い岩山

展望台からの風景 淡路島が遠望できました。






  


海洋公園出口…右折すると直ぐにトンネルがあります。


帰路の車窓風景 ウミネコの姿も…
  


 
立巌岩? 
  

ウミネコが群れをなしています。4〜7月が産卵、抱卵、孵化の時期のようです

 
岩場のウミネコ…



そんな美しい場所ですから観光客も多く、付近には「道の駅」やキャンプ場、ダイビングショップなどもあり、
特に夏季には賑わうようです。
しかし何か違和感?も感じます。周囲に点在する構築物跡、トンネルや、塞がれた横穴壕…。
かって、石灰工場があったためでしょうか。

いいえ、ここはかつて回天と呼ばれた人間魚雷の発進基地があった場所だったそうです。
阪神警備府 第二十二突撃隊(回天4基・海龍24基・震洋50基で構成)に配属。
紀伊水道へ侵攻してくる連合軍の船舶を攻撃するため、
人間魚雷 『回天』 の出撃基地(22突撃隊、由良白崎基地)として設営され、
特攻隊員(第16回天隊)が配属されていましたが、
回天の配備が遅れ出撃することなく終戦となり…少しは影が緩和された場所なのかも。
今でこそ、風光明媚な、エーゲ海などと呼ばれていますが…過去の暗い痕跡も記憶に留め…。
(戦記のHPを参照にしました。)

場所の確認

和歌山県観光ガイド&マップより