パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

男山八幡山麓 -2- 神應寺

2016年11月30日 | 日記
善法律寺から、東高野街道を石清水八幡の駅方面に歩き…
八幡宮の正面、一の鳥居の横の、細い道を右手に進むと「神應寺」無料駐車場。
途中から特に狭路になりますので、軽自動車以外はかなり苦労します。
できれば、石清水八幡宮の有料駐車場を利用するのが無難でしょう。
八幡宮の前にあるのが、「やはた走り井餅」のお店。
駐車場からだと、山門まで戻らないと山門の写真は撮れません。
駐車場からは、急勾配の階段が続きますが、駐車場の奥にスロープもあります。
山門からだと、「百六十余段」あるそうです。
最後の階段を昇りきると山頂の「神應寺」に辿り着きます。

宗派    曹洞宗
山号・寺号 絲杉山 神應寺
寺紋    久我竜胆
由諸   八幡神男山に勧請し、石清水八幡宮を創建した行教律師が、貞観2年(860年)に創建したお寺。
     弥生時代、第15代應神天皇(201-310)の位牌所、「應神寺」として建てられた。
     当初は、四宗兼学(天台、真言、法相、律)の道場だった。
     その後、曹洞宗峩山派の禅寺となり、[神應寺]と改称した。

   






階段を昇りきると正面に本堂     右手に庫裏


本堂の扁額「大雄殿」
豪商淀屋の四代目の重当が元禄六年に寄進
(お釈迦様のおられるところと言う意味と説明を受けた。)

(堂内は撮影禁止のためパンフレットの写真)


本尊 「薬師如来」 

 
重文の行教律師座像       豊臣秀吉の衣冠束帯の像

 
寺紋(豊臣家・徳川家の紋の使用が認められている)  書院(伏見城遺構)
        曹洞宗としての宗紋は「久我竜胆」



ご朱印「本尊 薬師如来」


 
お寺からの展望        足元を京阪電鉄が走っています

   
山の斜面に建物が迫出ています。紅葉はじめ眼下に樹木が見渡せます。
「アーコレイド」桜(イギリスで改良された桜)も咲いていました(ピンボケ)


 
イギリスにおいてベニヤマザクラとコヒガンの交配により作出された2季咲品種です 
(アーコレイド桜の転用写真紹介) 



稲荷神社

   
鐘楼


境内の草花
   
銀木犀             竜胆              楓           ? 
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和束町 正法寺

2016年11月29日 | 日記
新聞の「紅葉情報」に載っていた和束町にある「正法寺」に行ってきました。
盛は過ぎたのを承知の上、比較的近くであり来年に備えた様子見です。
163号線から和束経由で信楽に抜ける、通り慣れた道路の傍にこのようなお寺があったとは…。
歴史的には、藤原不比等一族による閨閥専横政治の悲劇の主人公「安積親王」縁の地だったのです。

正法寺は、山号を瑞泉山という臨済宗永源寺派の寺院です。
寺伝では天平年間(729~49)、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんおう)の
菩提を弔うために寺の背後にある、仏法寺山に行基菩薩を開山として建立されたと伝えられます。
正法寺の北には、宮内庁管理の「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」が茶畑に囲まれて佇んでいます。

安積親王(あさかしんのう、728~7744)は、奈良時代の神亀五年(728)、
聖武天皇の第二皇子として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいひろとじ ?~792)で、
同母姉には井上内親王
(伊勢の斎王を経て、後に光仁天皇皇后となるも皇后位を廃され変死、御霊神となったとされます)、
同じく不破内親王(後に塩焼王の妻、尚、塩焼王は、後に藤原仲麻呂の乱に加わって処刑)があります。

母の県犬養広刀自は、聖武天皇の夫人として、養老元年(717)に、井上内親王に産み、
神亀五年(728)に安積親王を産んでいます。(不破内親王は生年不詳)
一方、聖武天皇には、広刀自の他に、
皇太子時代からの妻(天皇即位後に夫人)として、藤原不比等の娘・藤原光明子
(安宿媛 後の光明皇后 母は広刀自と同族の県犬養三千代(橘三千代))があり、
養老二年(718)に、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)、
神亀四年(727)に基王(もといおう)を産んでいます。

県犬養広刀自も藤原光明子(光明皇后)も、政権を握る藤原不比等と、
その後妻・県犬養三千代(橘三千代)の意向によって後宮に入ったと考えられますが、
皇子を産むことを期待されたのは藤原氏の血を引く藤原光明子(光明皇后)でした。
そこで、光明子の産んだ基王は、生後間の無い神亀四年(727)11月に皇太子に立てられましたが、
病気により翌年9月に夭折してしまいます。

この基王の夭折は、左大臣長屋王の呪詛が原因などと噂され、
神亀六年(729)2月、王が謀反を企てているという密告を受けて、
兵が長屋王の邸を包囲し、王やその王子達は自害しました(長屋王の変) 
この事件の背景としては、不比等の子の藤原四兄弟と長屋王の対立があり、
四兄弟は、将来、長屋王の王子が男子の少ない聖武天皇の後継者となる危険性を
未然に排除したものとも考えられています。

長屋王の変の後、天平元年(729)、藤原光明子が、王族以外から初めて立后(光明皇后)され、
長く藤原摂関政治へと続く、藤原一族の子女が皇后となる先例となりました。
しかし、その後も光明皇后の懐妊は無く、皇太子不在のままの状態が続きます。
この間、唯一の皇子として、皇太子最有力候補のはずの安積親王は、
非藤原氏系の皇子だったために立太子されることはありませんでした。
そして、結局、天平10年(738)正月、光明皇后の娘、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が
立太子されましたが、これは異例ともいえる史上初の女性皇太子でした。

さて、天平16年(744)閏1月11日、聖武天皇の難波宮行幸が行われ、
この際、付き従っていた安積親王は、途中、桜井頓宮(河内郡桜井郷)で脚の病気(脚気)となり、
恭仁京に戻りますが、2日後の閏1月13日に、17歳で死去しました。
(天皇は難波宮から大市王と紀朝臣飯麻呂を派遣して葬儀を監督させています。)
親王が病気となった際、恭仁京で留守を預かっていたのは、
知太政官事鈴鹿王と、民部卿の藤原仲麻呂だったこともあって、
親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあるようですが、実際のところは不明です。

歴史の好きな者には、興味のある話ですがここまで。

  
入口周辺(道を隔てた、車10台程の駐車場より)

  
参道(左手に「瑞泉窯 汰心陶禅道場」の石標)

 
勅使門(後水尾天皇の中宮東福門院が御所(仙洞御所旧中門)より寄進した「四脚門」)
重文指定の調査中とのことですが、かなり老朽化しています。

   
参道、境内には、本山永源寺から移植された「やまもみじ」が植えられています。

  
扁額「極楽界」   「阿弥陀如来」         法堂 

  
法堂の扁額「祈祷」       法堂           十三重塔

 
庚申堂       「法堂」、「方丈」を裏手より

 
開山堂 周辺には大きな朴葉?が沢山散っていました。

  
不動明王像       地蔵菩薩        地蔵菩薩真言

  
階段を降りたところの庚申堂脇に赤い帽子を被ったお地蔵様と十二支  庚申堂 当山鎮守「熊野三所大権現」


  
鐘楼      眼下に茶畑が広がっています     ご住職が瑞泉窯を開き陶芸教室を

  
ぶどう柿(シナノガキ)
大いちょうは、かなり散っていましたが、紅葉は思った以上に残っていました。
素朴な風景と歴史との関わりから、これから人気が出るような気がします。
由緒、境内図、ご朱印もありませんでしたが、今後に期待して、再訪してみます。
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男山八幡山麓 -1- 善法律寺

2016年11月28日 | 日記
石清水八幡宮のある男山山麓にある、真言律宗「善法律寺」の本堂特別拝観に行ってきました。
このエリアでは、石清水八幡宮以外に足を運んだこともなく、存在も知りませんでした。

  

 


ご朱印「本尊 八幡大菩薩」

  
特別公開掲示       歴史街道石標       山門

  
山門から庫裏への参道    参道       本堂

   
客殿         石塔          石塔

(堂内は禁撮のため仏像はパンフレットから)

本尊 八幡大菩薩像(平安時代の作で、神仏分離以前は、石清水八幡宮の祭神)
(僧形八幡像と呼ばれ、厨子でなく「高御座」に安置されているのが特徴)

 
愛染明王像            不動明王像 



本堂扉     種字「阿弥陀如来」  


本堂の木彫りの紋  「菊」   「五七の桐」


 
本堂の縁側と庭

  

 
客殿廊下の角の壁に「円窓」が二面


聖天堂?の前の壁に何故か「亀」形のくり抜きが…

 

  
大西坊墓頭                       大乗院五輪
大西坊は男山四十八坊の一つ
大きい墓頭は「覺運」で大西坊中興の祖。
弟子「運應」と「覚助」の墓頭と共に三っ。
覺運は大石内蔵助良雄の養子
大石家の家紋「右に二つ巴」が見られます。

 
室戸台風慰霊碑 
校長・訓導・生徒の名前が刻まれています。


善法寺家ゆかりの「亥(い)の子餅」
善法律寺が、寺を創建した善法寺家ゆかりの和菓子「亥の子餅」を、
近くの和菓子店「やはた走井餅老舗」の協力で再現されました。
26、27日に行われる寺院文化財特別公開に合わせて本尊の八幡大菩薩像にお供えされ、
走井餅老舗店舗でも販売されているとのことで買いました。
粒あんとこしあんの二種類あり、「おはぎ」のような感じのお餅で美味しかった。

 

 


ひとやすみ
善宝律寺の前には「東高野街道」が走っていますが、
途中で変ったカラーリングのトラックと出会いました。
「キリン柄」の理由は、先端が顔、アームが首、車体を胴体に見立てた「クレーン車」でした。
大きな電気製品を、2階に搬入しているようでした。
 
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宇治川右岸の紅葉を求めて散策-2-

2016年11月23日 | 日記
最期に拝観したのが、紅葉の名所の曹洞宗の「興聖寺」
参道「琴坂」の紅葉が有名だそうですが、少し早かったようです。
先ず、頂いたパンフレットを。(小さい画像をクリックすると拡大)

山号・寺号  曹洞宗 佛徳山 観音導利院興聖宝林禪寺
御本尊    釈迦如来
開創     道元禪師
       正法挙揚道場として開創
       「初開道場」

  

 

 

 


ご朱印「本尊 釈迦牟尼仏」


 
石門(総門) 総門から参道「琴坂」を望む

  
琴坂から山門を望む
琴坂との名前は、細長い坂の形と傍の谷川のせせらぎが琴のように響くころからこの名がついた。
「琴坂の紅葉ふみ行く老の杖」虚子


       唐風竜宮造りの山門   山門扉の寺紋「久我竜胆」透かし彫り

寺紋「久我竜胆」は、宗祖「道元禪師」の生家
父 内大臣 久我通親公 久我家の家紋


鐘楼             釣鐘



法堂(本堂)                    四条天皇勅額「興聖寶林禪寺」



血手形の天井

本堂は、伏見桃山城の遺構を用いて、幕府初代淀城主 永井守尚公により復興、建立され、
慶長5年落城の時の血の手形足跡が残る縁板を天井にし、外縁は鶯張の廊下です。
同じ曹洞宗で、鷹峯の円想窓と紅葉の名所、源光庵の天井にもあり、
鳥居元忠が自刄した時の伏見城の遺構と伝えられ、俗に「血天井」と呼ばれています。
血天井は、縁側からその板を外し、供養のため幕臣等によりお寺に移されましたが、
その際に床を、足で踏む床板にしては供養にならないからと、
天井にして手厚く供養しているものがいわゆる「血天井」と言われるものです。
他にも、東山「養源院」、大原「宝泉院」にもありました。


永井家菩提を弔う天竺殿      (開山堂)老梅庵
天竺殿の入口の左右に狛犬・獅子が…天竺殿は、寺の建物ではなく、
興聖寺を復興した、永井家の位牌を祀る建物で、
狛犬、獅子があるのではないか…とのこと。


三面大黒尊天 お顔の正面は笑み 右白い面は悲しみ 左青い面は怒りを表し、
人の心を表していると僧侶から聞きました。
三面とは、正面が大国天、右面が弁財天、左面は毘沙門天と言われています


僧堂

 
僧堂内部 座禅を見守るのは、獅子に乗った文殊菩薩だそうです。



東司(便所) 芻沙摩明王(うすさまみょうおう)便所の守護神(便所を清める)

洗浄偈」

便器の前に洗浄偈が、四枚貼られていました
右から①圊室(便所)に入る時 ②水を使う時 ③水で洗い流す時 ④手を洗う時
 ①圊室に入る時    左右便利 当願衆生 賢除穢汚 無婬怒癡
 ②水を使う時      已而就水 当願衆生 向無上道 得出世法
 ③水で洗い流す時   以水滌穢 当願衆生 具足淨忍 畢竟無垢
 ④手を洗う時      以水盥掌 当願衆生 得上妙手 受持仏法
                   (『華厳経』 浄行品より)
『大小便をもよおす時は、全ての穢れを除き、貪り、怒り、愚痴の三毒を捨てよう。
 水で手を洗った時は、そのさっぱりした手で、仏法を受け取ろう』と解するらしい。
興味があれば、洗浄偈の元である『華厳経』浄行品を見て下さい。
修行とは実に厳しい…トイレでも…と驚かされます。

 
僧堂を出たところの魚板   庫裏の魚板
(長く使われたせいか、いずれも木が凹でいます)
禅宗のお寺では必ず見かける魚板(魚鼓と言うことも)。
修行の合図、時刻などに使い、木槌で叩き鳴らされます。

  
薬医門前の「ひめこまつ」      内庭の石塔      内庭の十三重塔の旧相輪


  
山門の内側から        山門の外側から

  
山門入口の「いろはかえで」
イロハカエデ(いろは楓)は
裂片をイ、ロ、ハと数えることから。
イロハモミジ(いろは紅葉、学名 Acer palmatum)と同じ。
ムクロジ科カエデ属の落葉高木。
 
 
東禪院前の「かえで」と「花梨の実」

宇治川を渡って中の島「橘島」さらに平等院通り、宇治橋通りへ
  
朝霧橋遠景      朝霧橋上         橘橋

  
観流橋近くの浅瀬で魚を狙う


川鵜がGET!


宇治橋通り商店街のお茶の老舗


創業450年、朝廷、幕府の御用茶師上林春松家の現存唯一の長屋門(築300年?)


安政元年創業の中村藤吉本店


茶商建物の特徴的施設の張り出し、拝見窓 


万延元年辻利右衛門創業の辻利本店
幕末、1860年(萬延元年)江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された年、辻利は創業いたしました。
徳川幕府の天領として数百年の間手篤い庇護を受けていた宇治の茶師たちは動乱の中、
その庇護を失い、販路を断たれ茶園は荒廃していくばかりでした。
それを見た創業者辻利右衛門は私財を投じて茶業の改善を図り、
玉露製法を完成させるとともに茶箱(缶櫃)を考案して販路を拡大し、宇治茶の復興に努めました。
                                   (辻利HP「辻利の歴史」より)
平等院正門横に銅像が建立されているそうです


 
JR宇治駅            駅の傍の「茶壺の形をしたPOST」
           

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宇治川右岸の紅葉を求めて散策-1-

2016年11月20日 | 日記
いよいよ紅葉が一段と赤く染まり…
久しぶりに京阪電鉄宇治線で「宇治」まで電車に乗り、宇治川右岸の山側を散策してきました。
18日、平日でしたが紅葉狩りを楽しむ人々が多く驚きました。
橋寺、宇治神社、宇治上神社、興聖寺を巡ってきました。
部分的な紅葉は見られましたが、相対的に少し早かった感。

橋寺(雨宝山放生院)
放生院(ほうじょういん)は、宇治市にある真言律宗の寺院。
寺号は常光寺ですが、宇治橋の守り寺で、通称 「橋寺」と呼ばれています。
由来は、近くの宇治川に架かる宇治橋をこの寺が管理していたことによる。
1286年に宇治橋を再興した西大寺の僧叡尊が当寺で大放生会を営んだことから放生院と名付けられました。
境内には「宇治橋断碑」と呼ばれる石碑(日本三古碑の一つ)があります。

 

  

  

 
橋懸観音          十二支守本尊

 
軒丸瓦には、山号の雨宝山から「雨」の字

団体予約があり、本尊の地蔵菩薩、不動明王などは拝観できませんでした。

 

左 平安後期の作とされる不動明王像(重要文化財)。
中 高さ1.9m、金箔、極彩色の衣を身にまとった美しい地蔵菩薩(重要文化財)
右 頭髪をくるくると巻き上げた髪型が珍しい釈迦如来
                             (写真はパンフレットより)

ご朱印「地蔵尊」


宇治神社
御祭神 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)


手水舎では、桐原水を兎が注いでいます。

 
祓いの茅の輪が残っているのかと思いましたが、ここでは、清めの茅の輪らしい。
御本殿は、重要文化財で、鎌倉時代初期の建物。三間社流れ造り。桧皮葺き。

 
「みかえりの兔」

『御祭神「菟道稚郎子命」が、この地に住まいを定められて、
河内の国より向かわれる途中、道に迷われてしまいました。
その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、
後を追う「菟道稚郎子命」を正しい道へと案内しお助けしました。
この御由来のうさぎを当神社では、「みかえり兎」と呼び、
人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様のお使いとして伝わっております。
また、宇治と言う地名は、この伝われよりついたともいわれています。』
(菟道という字を「うぢ」と読み、内なる場所の意味を持ち、
後に「宇治 うじ」という字になったとも言われています。)

 
拝殿(桐原殿)

  
社務所と左右とも阿形?で上体を後方に反り、胴を立て気味の姿勢をとる狛犬
(宇治神社に現存する木造狛犬の最古の例の狛犬の姿勢に似ている?)


ご朱印「宇治神社」

宇治上神社「世界文化遺産
御祭神 
左殿 菟道稚郎子命 (向かって右)
中殿 父 応神天皇
右殿 兄 仁徳天皇  (向かって左)
宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、
それぞれ「離宮上社」、「離宮下社」と呼ばれていました。
(江戸時代までは宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称されていた。)
離宮の名の由来として、「応神天皇の離宮があり、太子菟道稚郎子が居住(桐原日桁宮)
したことにもとずく」との古伝承があるそうです。
御本殿は、平安時代後期の神社建築としては、最古のものに属する建造物で、
一間社流造の内三棟を左右一列に並べ、後世に、これらに共通の覆屋をかけたものです。
また、その身舎の扉には、建立当時の絵画(左殿に童子像2枚、右殿に随身像2枚。)が遺されています。
17か所の「古都京都の文化財」の一つとして「世界文化遺産」に登録されていますが、
宇治にあるもう一つ文化財、対岸の「平等院」のように、華やかさも無いためか、知らない人が多い。

 
鳥居の扁額は読み難いですが「離宮」

  
拝殿前の砂で盛られた円錐形の小さな二つの山は「清めの砂」
 (左右対称ではなく、左の方が少し高いそうです…。)
他社の、神様が降りられる依代を表しているものではありません。

 
拝殿             御簾と几帳


拝殿の左右の提灯には、社紋「三つ橘」で左の赤は「陽」、右の黒は「陰」を表している。

  
本殿(覆屋の中に三社が祀られている)

  
扁額「正一位離宮大神」



宇治七名水「桐原水」
境内に湧き出ている桐原水は、唯一現存する宇治七名水とされています。
今は、覆屋をつけられ手水舎として使われています。
(「御手を清めてご参拝ください。生水はお飲みいただけません。」)
手水として使っているからでしょうか、
そのままでは飲料に適さず、飲む場合は一度煮沸した後、飲むようにと記されている。


ご朱印「宇治上神社」(奉書朱印)

宇治上神社には『三種の朱印』があります。
  1.『離宮』金字朱印 紫式部に因み、紫の台紙に金字をのせる。朱肉には「朱砂(辰砂)」を材料にした「本物の印泥」を使用
  2.『茶加美』朱印  宇治の「宇治茶」に因んだ緑色の台紙に神社名を墨書。朱肉には「朱砂(辰砂)」を材料にした「本物の印泥」を使用
  3.『奉書』朱印    一般的な朱印。
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吉野ヶ里

2016年11月18日 | 日記
佐賀に行ったついでに「吉野ヶ里」も見て知ました。
邪馬台国は何処…?「九州説」の中心地点との説で有名な弥生時代の遺跡。
奈良県に住むもの者としては「大和説」の中心、「纒向遺跡」を身贔屓しています。
「魏志倭人伝」に言う倭五国は、確かに地理的には、九州が自然に見えてしまいますが…。
元々はミカン畑だったそうですが、工業団地造成の際、遺跡が見つかり、
大規模な環壕集落跡として特別史跡に指定され、「国営吉野ヶ里歴史公園」として、
きれいに整備保存された丘陵にある54haに及ぶ大規模な遺跡公園です。
纒向遺跡は中にJRの線路、民家、田畑などもあり、このような公園にするは難しいと思えます。
桜井市では、箸墓古墳を想定して「卑弥呼の里」として、纒向遺跡を強烈にアピールしていますが、
吉野ヶ里の地元の声はともかく、国営公園のためか、パンフレットには、
「学術的に極めて価値の高い遺跡」と記されるにとどまり、
直接的な表現で邪馬台国、卑弥呼…等の表現は、使われてなかったのは意外でした。
【吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません。
ただ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物跡などが見つかっており、
復元された建物等を通して、邪馬台国の様子を感じることはできる、という意味では、
邪馬台国のイメージに近い遺跡だということは言えるでしょう。
物見櫓跡や高床倉庫と考えられる建物跡、幾重にも巡らされた大小の環壕跡など、
魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡が見つかっていますが、
邪馬台国であるかは不明です】との表現されています…。
しかし、物見櫓、竪穴式建物、環濠、重要な建物として主祭殿、斎殿が復元され、
まるで古代のテーマパークに来ているかと思えました。
考古学、史料に基づいた復元でビジュアルに想像できるものの、
何か、既定の概念に嵌ってしまいそうです…
時間の都合もあり、「南のムラ」は見学しませんでした。
歴史公園センター東口➡「天の浮橋」を渡り➡ひみかのみちを通り➡展示館➡
環濠と柵に囲まれ、物見櫓4棟、王たちの家はじめ20棟の建物が復元された「南内郭」➡
吉野ヶ里集落の中で、最も重要で神聖な場所とされ、板塀で囲まれ、政りごとが行われていた巨大な主祭殿ほか9棟の復元された「北内郭」➡甕棺墓列➡約2100年前の歴代王達の埋葬された特別な墓のある「北墳丘墓」➡
園内バスで「弥生くらし館」➡歴史公園センター東口

 

  

   

 



物見櫓と環壕・柵


一番高い物見櫓にヘルメット、命綱を着けて… 南内郭の中央広場


環濠と柵          倉と市の建物群



物見櫓から見た南内郭



巨大な建物のある北内郭の鉤型に曲がった入口と3階建の主祭殿は板塀に囲まれている



3階が祭祀、2階が重要な会議の様子(国会議事堂)のジオラマ
主祭殿は吉野ヶ里環壕集落内で最大規模の建物であり、その主軸が北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸に一致する建物であることから、北内郭でも祭祀性が高く、北内郭の祭祀の中心となる建物と推定しているとの説明に、
纒向遺跡の大きな建物の軸線の説明を思い出しました…。
南北、東西の軸線の元になる方位など、この時代でも、いわゆる「天文学」は凄いですね…。


祭殿と建物群の北内郭遠望






北墳丘墓は、本物の状態で、発掘された状態での遺跡、甕棺の露出展示施設で、風化を防ぐため、基礎のない構築物で覆われています。

駆け足で見学して、出口でアンケートに答え、プレゼントに「吉野ヶ里産の蕎麦」をいただきました。
いい土産が出来ました。
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真如堂お十夜結願法要

2016年11月16日 | 日記
今日は、洛東 真如堂の十夜結願法要と秘仏阿弥陀如来の特別開帳。
何度も参拝しているのですが、御本尊の阿弥陀如来はお厨子の中。

  


 
左から不動明王(安部晴明念持仏)阿弥陀如来(慈覚大師円任作)千手千眼観音(伝教大師最澄作)
         
特別開帳で念願のご本尊を、内陣を昇り間近に拝することが出来ました。
パンフレットの写真の通り、中央の慈覚大師円任作の阿弥陀如来立像、
右手の伝教大師最澄作の千手千眼観音は、慈悲に満ちた尊顔。
阿弥陀如来の前に胎内仏の厨子が置かれていました。
左手の安部晴明念持仏の不動明王は、右手の宝刀は膝の上に置かれていました。
『真如堂縁起』によれば、文安年間(1444-1449)に晴明の子孫・安倍有清なる人物が、
この不動明王像は晴明の念持仏であるから返して欲しいと訴え出、
天皇の勅命で子孫に返されることになりました。
封印をして運び出したものの、いつの間にか寺に戻っており、
それを知った天皇は今後も寺で祀るように命じたとあります。

   

「善の綱」本尊御開帳により阿弥陀様の右手と白い善の綱で二本の回向柱と結ばれている。
綱に 触れることにより、直接触れたのと同じことになり、阿弥陀様とご縁を結ばさせて貰える。
参拝の際には、心を落ち着けて、綱に触れ、合掌して一礼が作法と書かれた札が架かっていました。
(「善の綱」は「縁の綱(善の綱)」と書かれていたときもあるようです。)
作法に則り、綱に手を添え、亡き両親、先祖の回向と家内安全を祈念しながら、
南無阿弥陀仏」と念じましたが、雨で湿った綱が冷たく、重く感じました。

 

山伏の法螺貝の音を先頭に、稚児行列などに続き、式衆(僧侶)の入堂
僧侶は入堂の際、階段下で履物を替えて、本堂外廊下を巡り、
正面から外陣、一段と高くなっている内陣に進み、導師のもとに法要がはじまります。
お十夜にはもう一つの特徴があります。
内陣と外陣の境に紅白の幕が付いた台座が設けられ、
毎夜、肩衣を付けた鉦講員が直径30センチ程の鉦を打ち阿弥陀仏を念じます。
堂内は常に鉦の音が響いています。
読経と共に、鉦の音も伴奏のように、時には強く、弱く打たれます。
読経の終わる前には、僧侶、堂内の参拝者で「南無阿弥陀仏」を唱えました。
更に僧侶が、四方に向きを変え、「南無阿弥陀仏」を唱えて結願法要は終わりました。
確か、阿弥陀経の終わりは6度繰り返してた…今回は7度より多かったような…?
導師は、稚児に数珠によるお加持をしながら退場されました。

お十夜と言えばもう一つあります。中風除けの小豆粥の接待。
床几に座って頂きました。上に細切りの塩昆布がのせてあり塩味も加わり、結構ボリュウムもありました。
持ち帰りもできますし、「おじや」用の茶碗も頒布されていました。
一説によると、粥を「おじや」というのは「おじゅうや」がなまったものだとも言われています。

     

お十夜法要と直接関係があるわけではありませんが、
金糸刺繍の「大観経曼荼羅」の特別公開中で併せて拝見しました。
真如堂の「涅槃図」も大きかったのですが、この観経曼荼羅は、本堂の大きさにあわせて製作された
縦5メートル、幅4.4メートルの大きなもので、三井家より寄贈されました。
『観経曼荼羅』は、奈良・当麻寺にあることから『当麻曼荼羅』とも呼ばれますが、
正式には『阿弥陀浄土変相図』といい、『観無量寿経』を絵解きしたものです。


秋の真如堂といえば紅葉の名所、参拝を兼ねて、カメラを手にしたも多くみられました。

    



     



   



見難いかもしれませんが「アサガオ」も紅葉の中で咲いていました。

堂内は禁撮影のため写真はありません。
書き込みには、真如堂のパンフレットやHP掲載内容の一部を参考にしました。
小さな写真をクリックすると拡大します。

下手な写真の言い訳。デジカメにSDカードを入れ忘れ、直ぐにメモリー不足になり、
ガラケイで写真を撮りましたので、写真のサイズが…携帯サイズのままで…。おそまつ。
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今年も皇帝ダリアが咲きました

2016年11月14日 | 日記
異常気象と言いながらも、昨年とほぼ同じ日に咲きました。

 
2016.11.12

  
2015.11.12

数日の朝の冷え込みと好天気のせいでしょか、庭も色づきました。

   
菊          千両(赤)         千両(黄)        鉢植えの紅葉
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筥崎宮

2016年11月12日 | 日記
熱気球世界大会を見た帰路、新幹線の乗継時間を利用して「筥崎宮」へ参拝。
何も予備知識なく参拝したら、「日本三大八幡」の一つで、「筥崎八幡宮」が正称のようでした。
   
筑前国一宮 筥崎八幡宮    一之鳥居 
                (1609年黒田長政建立) 
 
              一之鳥居越の楼門     楼門(伏敵門)

   
          楼門の扁額  「敵国降伏」       敵国降伏のいわれ


               筥崎宮楼門に掲げられる扁額「敵国降伏」(てきこくごうぶく)
               文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり
               亀山上皇は「敵国降伏」のご宸筆(天皇の自筆)を納めた。
               現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、
               文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したものという                         
                      その意味は、説明書によれば
                       「武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、
                       徳の力をもって導き、相手が自ずから靡(なび)き降伏する
                       という王道である我が国の在り方をといています。」


           由緒では、古録によればとして、平安時代中期、延喜21年(921年)、
     醍醐天皇は、神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、
   この地に壮麗な御社殿を建立し…と記されています。
              亀山上皇も国難、元寇の役に際し、醍醐天皇にならって納めたのでしょうか。

(クリック拡大)


日本三大八幡とは、日本で最も多い神社である八幡神を代表する三つの神社の総称です。
一般的に、本宮が「宇佐神宮」、都への勧請以来本宮の扱いを受けた「石清水八幡宮」、そして古い由緒を持つ「筥崎宮」の三社。
(福岡の方から怒られそうですが、現在では、筥崎宮に換えて、後世になって知名度が高くなった
鎌倉の「鶴岡八幡宮」を入れる場合もあるとのこと。)
同じ八幡宮でも…大分「宇佐神宮」、京都「石清水八幡宮」、福岡「筥崎宮」呼称が違うのですね…

家の近くの旧集落には、それぞれ勧請された氏神さんとして、古い「八幡さん(八幡神社)」があり、
五穀豊穣を祈願し、初詣、例大祭が行われています。
「お稲荷さん」、「天神さん」等と共に「八幡さん」の神社の数は二万社以上あると言われています。

因みに
神社の名称の最後につく社号は全部で6つあります。
「神宮」「宮」「大神宮」「大社」「神社」「社」です。
「神宮」「神社」の名称は、神社名に付される称号で「社号」と言います。
現在「神宮」とのみ言えば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。
また、「神宮」の社号を付されている神社には、皇室のご先祖をお祀りしている
霧島神宮や鹿児島神宮、また歴代の天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。
この他、石上神宮や鹿島神宮など特定の神社に限られています。
これに対して「神社」は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられる。
また、「宮」や「大社」などの社号もあり、
「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や、由緒により古くから呼称として用いられている神社に
使われています。
「大社」とは大きな神社、または平安時代初期の延喜式神名帳に大社として列格される492の神社、
または「〜大社」と名乗る神社のこと。かつては単に大社(おおやしろ)といえば
一般的には出雲大社(島根県出雲市)のことを指した。
戦後、旧官幣大社や旧国幣大社など大社格の神社で大社を名乗ったところが多いと言われています。

筥崎宮の社紋

八幡宮の社紋、三つ巴に関して、その由来には諸説あり、
その中の一つに、弓矢の鞆の形から来ているというのがあります。
八幡神は、武家の統領である源氏の氏神であることで、頼朝の信仰が厚く、
武芸の神・弓の神として祀られたという。
つまり、「三つ巴」は武芸のシンボルです。
このように、祭神の神徳を由来とする神紋があります。

御祭神は「応神天皇(誉田別命)」(八幡大神)、その母君「神功皇后」、と玉依姫の三神で
「南無八幡大菩薩」と言われるように「戦の神様」と崇められており
八幡宮の神紋として「左流れ三つ巴」紋が多くみられます。(鎌倉は鶴丸紋)

筥崎宮で目を引いたのが「亀山上皇」
教科書的には、南北朝の始まり、「持明院統」と「大覚寺統」と皇系併存で「大覚寺統」の祖としての存在。
元寇の役でも教科書に記されていたのは、「執権北条時宗」、「日蓮上人」の名前ぐらい?
亀山上皇については、大覚寺を御所としたことぐらい…の記憶がない。

亀山天皇って?
正嘉2年(1258年)8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、
翌正元元年兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚。
即位には父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向があったとされる。
文永2年(1265年)には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。
幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。
院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、
自ら伊勢神宮と熊野三山[1]で祈願するなど積極的な活動を行った。
文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。
現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、
文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。

天皇の宸翰があり、楼門に謹書された扁額がかかっているだけで、巨大な亀山上皇の尊像が、
奉安殿まで設けられ祀られているのには正直驚きました。
福岡が元寇のゆかりの地でありながら元寇を顕彰する記念碑がないということで、
「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、
明治37年、福岡市の東公園に銅像が建てられたそうです。
制作に際し彫られた、銅像亀山上皇立像の原型が奉安殿に祀られているとのことです。
何しろ6mもの高さですから余計、威厳を覚えます…
(巨大な東大寺南大門金剛力士像は8.4m、金峯山寺の金剛蔵王像が7.34m)
天皇像としては最大の木彫ではないでしょうか。

筥崎宮は歴史につつまれた八幡宮で、いろいろ書き始めると際限がないので、取り敢えずここまで。


ご朱印
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佐賀珍味…干しわらすぼ

2016年11月11日 | 日記
佐賀県や熊本県は有明海に面し、「むつごろう」がよく紹介されていますが、
佐賀県には、「わらすぼ」と言う魚が居ました。
佐賀の方に、「JF佐賀有明海 直売所・まえうみ」に案内してもらい、
初めて見たのが「干しわらすぼ」。
「有明のエイリアン」とも呼ばれる佐賀の特産とか。他ではあまり見かけないそうです。

   (クリック拡大)

 
  

土産に買って帰ったものの、気味悪がられ…誰が調理するのと言われる始末。
もっとも、娘は面白がってスマホで撮ってましたが。
調理の段になって、家内が、説明に従い、まな板に置いて金槌で背骨を叩き、
魚の頭を取り除き、油で揚げ、味付けしてくれました。
干物のグロテスク?な姿によらず、なかなかのまさに珍味、お美味しかった。
地元の方は、素あぶりにして、酒の肴にするとか。

お土産に「むつごろうの蒲焼」も買いましたが、誰も食べませんでした。
これも、はじめは骨ごと食べたら、骨が口に残り…身だけ食べました。
いずれも佐賀特産の珍味を熱いご飯で食べると美味しかったです。
干しわらすぼは、五匹入って1,000円ですから高価な魚になるのかも。


ワラスボ(藁素坊、藁苞)(Wikipediaより)

 学名 Odontamblyopus lacepedii
 スズキ目ハゼ科に分類される魚の一種。
 日本では有明海のみに分布し、食用に漁獲される。
 成魚は全長40cmに達し、オスの方が大きい。
 体形はウナギのように細長く、背鰭・尾鰭・尻鰭も繋がる。
 体色は青みがかっており、青灰色や赤紫色にも見える。
 目が退化していて、頭部にごく小さな点として確認できるのみである。
 上向きに開いた大きな口には牙が並び、独特の風貌をしているが、噛まれてもあまり痛くはない。
 鱗も退化していて、体の前半部に円形・後半に楕円形の鱗が散在する。
 これらの外見が海外映画『エイリアン』シリーズに登場する宇宙生物の頭部に似ていることから、
 メディアで採り上げられる際はしばしば「エイリアンのような魚」と比喩される。
 日本では有明海固有種だが、干拓や環境の変化が脅威となっている。
 日本の環境省が作成した汽水・淡水魚類レッドリストでは2007年版から絶滅危惧II類(VU)として掲載。


生のわらすぼ
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佐賀熱気球世界選手権大会

2016年11月09日 | 日記
佐賀県民の方には、大変失礼な話ですが、このような大会があることを御存知無い人が多いかも…。
私もその一人で、名誉挽回のためブログにしてみました。
世界選手権は2年ごと開催され、今年は第22回大会で、19年ぶりに日本・佐賀で開催されました。
   

 (小さな写真をクリック拡大)

海外研修で一諸だった、佐賀の方の設営で、研修仲間と「熱気球世界選手権大会」を見学してきました。
前泊したホテルの出発は午前6時。
大会会場の「嘉瀬川河川敷」までは、薄暗い中、マイクロバスに揺られながら、車内でおむすびの朝食。
会場へ歩く人影の列、車のライト、街角、街角ではガードマンが誘導にあたっていました。
会場に着くと、すでに堤防に陣取った多くの人影が。
競技開始は、6時45分。
選手やチームのスタッフ(クルー)が、気球に空気、熱風を送り込み膨らませ始めています。
競技には100余のバルーン、協賛のバルーンを含めると150基近くになるそうです。
  
協賛企業のバルーンが競技に先立ち飛び立ちます。熱気球はバーナーで空気を温めて浮かび上がります。

 

佐賀の日の出時刻は、6時41分。競技開始に前後して、協賛のバルーンが朝日の中飛行しています。
いよいよスタート。順次飛び立ち、先ず所定の通過ポイントを目指します。

     
  

方向は、高さにより風の方向が異なるようで、高さを上下させながら進路を調整するそうです。
高さの調整は、バルーンの頂部の穴「排気弁(リップバブル)」の開閉をロープ(リップライン)で操作し、
バーナーの点火で空気を温め上昇するとか。
上空では、風が微妙に舞っており、「風の読みによる高さ調整が腕の見せどころ」
   

ポイントを通過するとUターンし、
所定の時間内に、順位に大きく影響する、地上のターゲット「+」印の中央目がけて、
それぞれ自分の小さな重り(砂袋)の付いたリボン「マーカー」を投下します。
真下に低空できれば命中度が高まりますが、時間の問題もあり、上空からリボンをスイングして
投下する選手もいます。
降下してきたバルーンは、空気が減って丸みが細くなっています。
投下し終わると、直ぐにバーナーを点火して上昇し、次のターゲットに向かいます。
 

操舵するバスケット(ゴンドラ)には一人だったり二人だったり。近くに投下できた選手はガッツポーズ。
ところで…競技は15種類(タスク)ほどあるそうで、当日の天候、風等を判断し
フライト直前の選手とのブリーフィングで競技内容が発表されるそうです。
観衆には、場内放送で告げられていましたが、初心者には、意味があまり良く判りませんでした。
「ミニマム・デイスタンス…(ターゲットに2投して合計距離の短い選手が高ポイント)」で、
4ゲームあったようです。
観ていた近くでの競技が終わり、バルーンが遠ざかって行ったので、会場に設営された露店を覗きながら
会場を後にしました。

書き洩らしたことなど…
競技は1日2回あるようで、2回目は15時スタートとか放送されていました。
危険な上昇気流の発生しにくい早朝と夕方にスタートするそうです。
高度は、1200m禅語まで上がるようです。
場内放送で、制限時間が9:30?と流れていた…
ガスボンベは、ゴンドラに3本。
マーカーのリボンの色は、ピンクとイエロ―が投下されていました。
天候状況で競技、練習のフライトが中止になることはよくあるらしい。
プログラムによると、世界選手権の競技飛行は、10月31日から11月6日まで(7日間)13フライト。
(会期は28日から)
1日10万〜30万人もの観衆が集まるそうで、JRも「バルーンさが駅」を臨時に開設しています。
地元の新聞では、会期中の来場者総数131万人で、過去最高だったそうです。
(ちなみに佐賀県の人口は約83万人)
カメラマニアのポイントは、嘉瀬川の水面に写るバルーンとか
 
(イベントのトークショーで紹介された東京カメラ部2016写真展掲載写真転載)

◎競技の種類(タスク)
 (クリック拡大)
       素人がプログラム、パンフレット、デジカメ、携帯写真等を参考に書きました。
       競技の記述内容、用語など間違いはあるかと思います。
       興味のある方は、公式HPなどご覧下さい。(http://www.sibf.jp/)
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