パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

安井金毘羅宮の櫛供養

2016年09月28日 | 日記
たまたま出掛けた際、催事があることをしりました。
13時頃から供養の諸行事があったようですが、
境内は参詣者、行列の帰えりを待つ人ばかり。
行列は巽橋辺りから折り返してくるとのことで
花見小路角「一力亭(万)」の前で多くのカメラ好きの
中の一人になって待ちかまえました。

安井金毘羅宮に「久志塚」が設置されています。
由来記によれば、
『櫛に感謝の誠を捧げ、使い古したり傷んだり
 した櫛を供養する。第1回櫛まつりが
 昭和36年9月4日に、風俗研究家の
 故・吉川観方先生の御賛意を得て、当宮
 氏子で美容家の故・南ちゑ氏を中心とする
 多くの美容家によって始められました。
 更に翌年には当宮神域のここに「久志塚」が
 建立されました。
  爾来、時代風俗の着付けと結髪の正しい伝承
 を目的として、京都美容文化クラブが設立され、
 櫛まつり実行委員会を置いて、久志塚の前で
 秋の花が供えられ櫛まつりが斎行され、時代
 風俗行列が行われています。当初は櫛の日に
 ちなんで9月4日に開催されていましたが
 昭和50年より敬老の日(当時)の9月15日
 となり、現在9月の第4月曜日に行われています。
 当日は久志塚の前の奉納された櫛を供え、宮司が
 祝詞を奏上し供養を行い、その後奉納舞や時代
 風俗解説に続いて、古墳時代から現代舞妓まで
 の各時代の装束や衣装を着け、かつらを使わず
 地毛で結い上げた髪型をした、女人風俗行列が
 当宮を出発し祇園界隈を練り歩き、多くの参列
 者や観覧者で賑わいます。
  久志塚の傍らの像は、彫刻家江里敏明氏によ
 る「吉川観方先生小直衣像」で、櫛まつりに幾多
 の御協力をいただきました報恩のあかしとして
 昭和54年9月15日に安置し、御功績を
 明記いたしております。』


久志塚と吉川観方像

 
供花
  
神饌(米・酒・塩・水・魚・海菜・野菜・果物)

時代風俗行列
  
花見小路通り「一力亭(万)」前を進み、安井金毘羅宮へ帰ります。

安井金毘羅宮境内

南鳥居
 
 
狛犬・獅子

 
御手水「清明」?

 
宝物庫?と神紋

 
宝物庫を守る小さな狛犬・獅子と彼岸花

 
安井の金毘羅さんといえば人気のスポット?
神札に覆われた『悪縁を切る縁切り縁結び碑(いし)』


 『当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を
 祈られたもろもろ一切を断って祈願された
 と云う故事に習い江戸時代より断ちもの
 祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が
 生まれました。

 旧きをを脱皮し常に新しい新鮮な自分を
 甦らせる縁切り、もろもろの祈願を成就
 にみちびく縁結び共に歓迎。
 これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。

 悪縁を切る

  縁 切 り  碑(いし)

  縁 結 び

 上部からの亀裂をつたって神の力は
 中央の円形に注がれ、夫々願いを素直
 に神札に記し、縁系に向かって表から
 裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)
 それぞれ心に祈りを込めてくぐりぬけて
 下さい。くぐりぬけられた後に、神札を
 石面に貼ってください。
 当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓い
 を行いお清めをつづけて参ります。
        文 前宮司 鳥居 博愛 』



「安井金毘羅宮」御朱印



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葛城市歴史博物館と角刺神社

2016年09月23日 | 日記
葛城市歴史博物館で、特別展「葛城古寺探訪」が開催中で、
「二上・葛城・金剛山麓の古代寺院」の瓦が展示されているとの
新聞記事を見て出かけてきました。
二上・葛城・金剛山麓地域は、歴史的には興味の湧く地域ですが、一般的にはサラッと紹介されているだけで、古代歴史マニア以外にはあまり注目されていないのは、権力の中枢に位置しなかったからでしょうか…。
葛城市歴史博物館に隣接する「角刺神社」の神社名が変わっているので興味深々。

「角刺神社」は飯豊女王の「角刺宮」跡と伝えられています。
『日本書紀』によれば、清寧天皇の治世中にすでに履中天皇の皇子、市辺押磐の飯豊女王の弟兄弟、皇太子億計尊(おけのみこと)と皇子弘計尊(おけのみこと)は決まっており、後継問題は解決されていたが、清寧天皇崩御後に億計尊と弘計尊が皇位を相譲したため、飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。 
日本書紀、古事記では、記述に違いがあり、史料では、最初の女帝としているものもあるらしい…。
紀記にはあちこちで記述に違いがあるようですが、それは研究者、専門家に任せ、素人にはこの「角刺神社」が「角刺宮」跡であるとするロマンの地で十分。
因みに、三姉兄弟の父、市辺押磐皇子は、履中天皇の皇子であったが、後の雄略天皇に暗殺され、兄弟は身を隠していました。
しかし、21代雄略天皇の子、22代清寧天皇に世継ぎが無かったため、前述の通り、兄弟が後継者、皇太子、皇子に迎えられていた。暗殺を恐れていたのでしょうか…兄弟で譲り合い、中継ぎで姉が女帝?として10カ月ほど執政にあたり崩御、23代には、皇子弘計尊が顕宗天皇として、24代に皇太子億計尊が任賢天皇として即位したとのことです。
日本史の授業では、あまり馴染みのない天皇の名前ですが、境内にいると様々な空想の世界が想起されます。

角刺神社の御祭神は、飯豊青命ですが、飯豊王女、飯豊皇女、忍海飯豊女王などと称されています。

 (クリック拡大)


 

 

  
旧村社格でこじんまりした神社でした。
御祭神は飯豊青命


本殿はガラス戸に覆われた拝殿?越しで
よく見えませんでした。
 
 
年代は判りませんが立派な狛犬・獅子でした。


恰も龍の如く、横になった木が上に伸びています。

鏡池の横に、神武天皇、明治天皇遥拝所の石碑


境内に飯豊王女が鏡として使ったという池。

境内に神宮寺として、観音菩薩像を本尊とする忍海寺があったようですが見落としました。
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納得の写真・面白い写真

2016年09月17日 | 日記
高畑町界隈散策中の写真より


不空院の石塔と彼岸花 
各地で彼岸花が咲き始めました


荒池近くの朽ちた壁越の百日紅


鷺池から浮見堂と御蓋山

赤穂神社透かし彫りで色を楽しむ
螺鈿?ステンドグラス?



  
 


  
時間、角度を変えると色目が変わるかも…。

おまけ

奈良ならではの「鹿救護隊」の車
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奈良・高畑町赤穂神社

2016年09月16日 | 日記
高畑界隈を散策していると、
近くにお住いの方が戸を開けてお入りくださいと声をかけられ、
参拝したのが「式内赤穂神社」。
鹿が入らないように戸が閉めてあるそうです。
この辺りは春日社神官邸町で住宅古地図が掲げられているのを見ると、
かっては殆ど社家、禰宜で「鳥居印」がついていました。
歴史の波の中で変遷を重ね、隣接する「春日大社宮司職舎」が
名残をとどめています。

 


「古来、高畑町の春日社神官邸町の西端に鎮座して、
久しく里人の尊崇を受け給ふ。
平安時代・延喜式所載の古社にして、かの二月堂お水取り
に読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に至
るまで読誦 せらるゝ古例なり。
上古、天武天皇皇紀6年(678)に十市皇女を、同10年(682)に氷上夫人を
『赤穂に葬る』とあるは蓋しこの地辺ならむ。もと社地
広大にして数百余坪、桜樹多く、幕末頃まで桜田の
地名ありき。
近世の記録には天児屋根命を祀るとせるも、
加ふるに『高貴の姫君を葬る』と口碑伝承あるは、いと
久しく女人守護の霊験 久しかりし証なり。
明治御一新の後、この里荒廃し二百戸近き社家・祢宜の
大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、秋艸道人(会津八一)・堀辰雄
らの文人哀惜の詩文あり、されど、より深く嘆きまさりし
里人有志、滅びゆく天満宮址・弁財天を合祀して赤穂神社
の左に配し、今に二社併存す。昭和5年(1930)以来、この地の
産土神・鏡神社の別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎ
つゝ今日に至る。神徳の長久を仰ぎ先人の篤信を継承
して、復興の気運を待望するところなり。                     
昭和52年9月18日 例祭の佳日 
      赤穂神社 地元奉賀有志
       鏡 神社・赤穂神社 宮司 梅木春和」





 
 

自在辻子天満宮・弁財天社相殿     赤穂神社




欄間の透かし彫りは、春日社の藤と天満宮の梅鉢の紋。
透かし彫りと背景の社の朱、立木の緑が螺鈿のように美しい。


「春日大社宮司職舎」
春日の森を縫う『祢宜道(ねぎみち)』を通ると高畑町から本殿に至ります。

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天台三総本山声明〜西教寺〜

2016年09月15日 | 日記
 (クリック拡大)
案  内

 
 
次  第

 
恵心僧都念仏法語は、堂内聴衆の皆で唱和しました。

 
西教寺の声明『月』は主題の「仲秋の名月と天台声明の響き」に因んだ曲
『月』は、400年の時節を超えて復曲された曲で、
鎌倉時代後期の世俗歌謡だったそうです。
天台真盛宗の声明師によってのみ演奏される。
指揮者(導師)?が符面台の前に立ち、拍子木を打ちながら調子を取り、
僧侶の声明と雅楽演奏と一体となって唱えられた。
スタイルはまさにコーラス。
本堂内は、撮影禁止で写真はありませんが、
H28.9.15付京都新聞の写真入りニュースが見られる場合はご参照下さい。


延暦寺声明で撒かれた散華


天台真盛宗の紋章 三羽雀
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石峰寺・若冲生誕300年

2016年09月10日 | 日記
2018年9月10日は若冲の命日で、今年は生誕300年にあたり
菩提寺である伏見深草の石峰寺で追善法要が営まれました。
若冲展の最終日でもあり、多くの参拝者が訪れておられました。

 
石峰寺のパンフレットの抜粋

 
 唐門(山門)と扁額「高着眼」    

 
本堂と本堂内部・御本尊 釈迦如来


法要


参拝者焼香




若冲の墓          墓標

 
若冲の墓の横に筆塚(幕末の書家・貫名海屋の撰文)


墓前法要


法要開式の際鳴らされた梵鐘




禅寺様式の欄干       本堂の扉


鬼瓦 本堂(宗掃?解読不明)     方丈(龍)


方丈(仙人)寺名軒丸瓦(石峰禅寺)

 
   羅漢の石仏の道への赤門  山門(赤門)、本堂の鴟尾瓦


境内の土の中に埋もれていた隠れキリシタンの墓


吉井 勇歌碑     鈴鹿野風呂句碑

われもまた落葉のうえに寝ころびて
        羅漢の群れに入りぬべきかな 吉井 勇  
   
      春風に五百羅漢のとわれ皃(かお) 鈴鹿野風呂


御朱印と御朱印の袋
「高着眼」  黄檗宗・禅道場として建立された寺なので、
山門をくぐる心得としての禅語
山門の扁額に「高着眼」とあります。


裏山には、石峰寺に草庵を結んでいた若冲が下絵を描き、
釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生涯を中心に、
石に刻まれた「五百羅漢」が安置されています。
時には明日香の猿石を、また円空仏を想起しながら
拝観して巡りました。
(羅漢石仏は、撮影禁止で残念ながら写真はありません。)


おまけ
 
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クレマチス&ホトトギス

2016年09月04日 | 日記
2年前滝谷菖蒲園へ「てっせん」を観に行った時、
買った「クレマチス」が初めて咲きました。
鉢で新芽の蔓を誘導するのに失敗して折れたり…。
今年も春に一度失敗したのですが、
アスパラの傍に鉢を置き、蔓を自由に絡ませたら、
蕾がつき、やっと開花しました\(^o^)/
秋咲きになるのでしょうか。
 

テッセン (鉄線、学名: Clematis florida)
 キンポウゲ科センニンソウ属のつる性植物。
 鉄線葛、鉄線蓮とも呼ばれる。また、
 クレマチスを指して「テッセン」と呼ぶこともある


日陰の通路に植えている「ホトトギス」も開花。
白色と微妙に花色が異なる花が群れ咲くので楽しみ。


蝉時雨も止み、朝顔の種が膨らみ…夏からの変化を
庭の草花がガイドしてくれているようです。 
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