パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

伊勢神宮の参拝と注連縄

2015年11月22日 | 日記
行楽の秋、3連休で混雑を覚悟で伊勢詣。早い内に家を出発、163号線、名阪国道(25号線)、関から伊勢自動車道。
安濃SAで、降り口の伊勢西ICが9時から閉鎖されている、市営駐車場も、既に内宮に近い所は満車との情報で、一つ先の伊勢ICから内宮参拝を目指す。
おかげ横丁の入り口近くの広い市営駐車場にスムーズに駐車。
23日は「新嘗祭」。通りには「祝 伊勢神宮新穀感謝祭」の幟がはためいていました。10時でも人では多かったのですが、店はまだ開店準備のところも…。
宇治橋を渡り、五十鈴川で手を清め、参道の小石を踏みしめ、式年遷宮の正宮を参拝。
帰路の途中、衛士先導のもと「池田厚子」さんの参拝に出会いました。
池田厚子さんは、元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第四皇女。旧名、順宮 厚子内親王。85歳。故池田隆政氏夫人。今上天皇・常陸宮正仁親王の姉にあたる。
姉の鷹司和子の退任を受け、1988年(昭和63年)より神宮祭主を務めている。
2012年(平成24年)4月26日、補佐役に姪の黒田清子が臨時祭主に就任し、今回の式年遷宮の際には祭主を務められた。TVの画像で記憶に残っています。
                                                     (経歴等はウイキぺデイアを参照)

伊勢での参拝は、「外宮」「内宮」の順に参拝するのが正しいらしいですが、今回は、内宮のみ。また、「内宮」でも「正宮」から参拝し「荒祭宮」、「風日祈宮」、「滝祭神」と参拝するのが順路らしい。私は逆でした。五十鈴川から滝祭神、風日祈宮、正宮、荒祭宮の順に参拝しました。尤も、地元では、滝祭神は先で、「これからお参りします…神様にアポイントをとる。」との風習があるらしい…。

また、後で知ったのですが、西の御敷地の石垣、参道の左側(西南隅)にある巨大な岩、「籾たね石」がある。江戸時代の天明年間(1781~89)に、大飢饉のさ中、地元(現在の伊勢市楠部町)の人々が五十鈴川上にあった大岩を、種もみまで食べながら、苦労して献納したと言う話から、「籾たね石」といわれるようになったとか。
 


「踏まぬ石」御正宮から荒祭宮へ向かう際には、まず55段の石段を降りるのですが、その下から数えて14段目の真ん中に このような石が存在します。この踏まぬ石の割れ目が「天」という字に見えることから天から降ってきた石?とか、御神宝を埋めたところ?…とかいろいろ言われているらしいけれど、真ん中は神様の通るところだから避けて歩くようにとのサイン?。踏んで足を痛めたり、足の病にかかった人がいたとの悪いうわさ話のある階段にある石です。知らずに踏んでいたかも?
   

これから参拝される方はご注意下さい

伊勢の町を歩くと、家々の門口に注連飾りが掲げてあるのが目につきます。中央に「蘇民将来子孫家門」あるいは「笑門」「千客萬来」などと墨書きした門符(木札)が付き、左右にシデやウラジロなどを飾った太い注連縄です。正月の注連縄飾りは普通は松の内が過ぎればはずすのが一般的ですが、伊勢志摩では、一年間かけたままで過ごす風習があるそうです。
 それは、「その昔、この地を訪れたスサノオノミコトに、貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が一夜の宿を貸した。ミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残した」という伝説があるからです。蘇民の子孫である証拠として門符を掲げ、無病息災を願うようになったそうです。つまり、家内安全の祈りを込めた「厄除け」の門符です。
 ちなみに「笑門」とは、後に「蘇民将来子孫家門」を縮めた「将門」で、さらにこれが平将門に通じるのを嫌って「笑門」になったと言われています。
小学校時代、修学旅行で買った伊勢のみやげの定番「生姜糖」を見て懐かしく…。二光堂、岩戸屋…記憶に残る店の名前を見ながら「おかげ横丁」を歩くと、店頭に色々な「木札」の付いた注連縄が軒並みかかっていました。



  

  

  

源光庵

2015年11月18日 | 日記

今年は久しぶりに鷹峯に立ち寄りました。
数十年ぶりの源光庵。周辺も含め記憶とは少し異なり、綺麗に整備されたようで…。
しかし、道幅が狭いおかげでしょうか、散策すると、鄙びた雰囲気を醸し出した、心の落ち着くところ…。
源光庵と言えば、「悟りの窓」(円窓)、「迷いの窓」(角窓)と名づけられた窓と紅葉が有名ですが、
少し違った視点で源光庵を観てみました。



参道入口

   
総門「医王門」         総門扁額 「源光普照」

 
山門              山門扁額 「復古禅林」

 
本堂

本堂扁額 「大寶荘厳」

 
本堂内陣             本堂内扁額 「萬徳殿」


本堂正面の扉の家紋「中陰菱に花菱」?
中興の祖卍山道白禅師に帰依していた金沢の富豪中田庄三郎静家が、本堂を寄進したことから中田家の家紋かも…

本堂に安置されている本尊は、曹洞宗なので「釈迦牟尼仏」。脇立は弟子の「阿難尊者」、「迦葉尊者」。

 内陣の懸垂幕に3つの紋


 内陣周囲には源光庵の寺紋の「三つ葉葵」 
 中興の祖と言われる卍山道白禅師が、徳川家康から下賜されたとされている

 中央に曹洞宗の宗紋が2つ


大本山永平寺の「久我龍胆」
「高祖道元禅師」の生家久我源氏の家紋と言われている

   
大本山総持寺の「五七の桐」
「太祖瑩山禅師」が、後醍醐天皇から下賜されたと言われている

   永平寺、総持寺のそれぞれの貫首が2年交代で曹洞宗管長に就くので宗紋が2つあるそうです。


脱線?
道元は、源(久我)通親と藤原伊子との間に生まれた六男で、幼くして両親の死に遭遇し、出家して道元と名乗る。
南宋から帰国して「曹洞宗」を開く。
また、通親の養子の證空は法然に弟子入りし、浄土宗西山三派の初祖となった。
このことから、道元と證空(西山上人)は義兄弟ということになり、源光庵、西山光明寺の寺紋は、同じ「久我竜胆」です。
もっとも、光明寺では、浄土宗の宗紋の「杏葉」が寺紋として玄関幕などで用いられています。
この杏葉紋は、杏の葉ではなく「唐の装飾馬具のデザインを起源に、牛車の装飾に用いられ、家紋に転用されたもの」らしい。

證空 法然の弟子で浄土宗西山三派の初祖
   1.西山浄土宗     総本山粟生光明寺
   2.浄土宗東山禅林寺派 総本山禅林寺(永観堂)
   3.浄土宗西山深草派  総本山誓願寺

   ちなみに、光明寺、禅林寺の寺紋は「久我竜胆」、誓願寺は「三つ盛亀甲に花菱」