知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『映画、1961年の「香港の夜」と、1955年の「慕情」に、に思うこと』 ―「慕情 」は音楽も時代背景もロケハンも素晴らしい  』「香港の夜」も 健闘ー 

2019-08-10 17:14:39 | 映画

 『映画、1961年の「香港の夜」と、1955年の「慕情」に思うこと』

『「慕情 」は音楽も時代背景もロケハンも素晴らしい  』「香港の夜」も 健闘 』      

昔、香港への海外出張を命ぜられ、現地のスタッフの方々と仕事を始め,やっと慣れたころに、宴会などで、現地語『広東語』の訓練のために、当時、読み始めた『三国志』の英雄たちの武勇伝を話題にしましたが、せめて現代の話題も加えようと、思い出したのが映画『香港の夜』と『慕情』でした。

この映画の名場面は、どちらも丘の上でした。 学生時代から山男であった自分は、『香港イコール海』の印象が強く、かなり失望しましたが、九十九里海岸育ちですのですぐに気持ちを入れ替え、『海も山もやろう』と気分を入れ替えました。 出張の後は、駐在になりましたので、最初の半年で香港の下記の山と丘は、踏破しました。

香港の標高ランキング(香港にも以外と高い山・丘はたくさんあります。)

( 1)Tai Mo Shan(大帽山) 海抜957ⅿ

( 2)ランタオ島(大嶼島)ランタオ山(大嶼山) 海抜934ⅿ

(18)Victoria Peak(香港島) 海抜552ⅿ

(28)ライオンロック(獅子山) 海抜495ⅿ

 

さて本題です。

『香港の夜』のヒロイン、東南アジアの清純派トップ女優、ユーミン(尤敏)で相手役は、日本のトップ二枚目俳優、宝田明(パァォ・ティェン・ミン)でした。 この女優、やっぱりすごい美人です。

 

この場面ですが、香港島中央鞍部のグリフォードガーデンあたりです。

 

ながいストーリーですが、大衆文化評論家指田文夫氏のウエブ情報です。

 『香港の夜』

東宝と香港のキャセイ・オーガニゼーションの1961年の合作映画。 監督は東宝のベテラン千葉泰樹、脚本井出俊郎。 主演は宝田明と香港の美人女優尤敏(ユーミン)彼女は、鈴木保奈美と安田成美を足して二で割った美人。
後に、歌手ユーミンが出たとき、あの美人女優と同じ名を名乗ることになった。

話は通信社記者宝田が偶然寄った香港でユーミンと知合い、恋に落ちる。女性画家司葉子が恋敵で、司の感情が大変きめ細かく描かれている。ユーミンが実は日本人の母との間の子であり、戦後日本に帰国後、行方知れずになっている母親探しをするあたりから真面目な物語になる。

木暮三千代との再会には、やはり涙が出た。 最後、母を見て宝田との結婚を躊躇していたユーミンが決意したとき宝田はラオス内戦の取材で死んでしまう。

その時の司の台詞「この悲しみもいずれ時が解決してくれるでしょう」それに対するユーミンの言葉「あの人を愛したことは決して忘れません」これは、すべてを水に流す日本といつまでも忘れない中国との意識の差である。 合作映画は安易な作品が多いが、きちんと作られた作品で大変感心した。

映画『香港の夜』の主人公・田中(宝田明)が帰らぬ出張になる、ラオスに向けて香港啓徳空港の飛び立った飛行機を、目に涙いっぱいで見送る場所、香港獅子山(ライオンロック)の中腹の道路は見つけました。

さて『慕情』です。 この映画のヒーローも『戦死するエンド』でしたので、この二つの作品が長く記憶に残っています。

第二次大戦終了後のイギリス植民地香港で、ヒロインのハン・スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)は勤務医をしている。 夫は中国国民党の将校が国共内戦で戦死していた。  

そこで、アメリカ人の特派員マーク・エリオット(ウィリアム・ホールデン)と知り合い、二人は恋に落ちる。 しかしエリオットは別居中の妻がイギリスの植民地のシンガポールにおり、離婚の話し合いのためシンガポールへ行くがうまくいかず、二人の関係は香港で噂となる。 間もなく中国大陸の殆どの地域は国共内戦の末に中国共産党が支配するようになり、ハン・スーインは中国大陸へ戻るよう説得されるが、ほどなく朝鮮戦争が起こり、エリオットは派遣され、そこで戦死する。

駐在中にこの映画の有名なシーンになる『慕情の丘』を探しましたが、発見できませんでした。 候補はいろいろあります。

ガイドなどでヴィクトリアピークとされるあの丘は、スーインの勤めていた病院の裏手の設定ですから物語上は、ヴィクトリアピークなのですが、あの二人が忍び合う木の引き(広い画)の実際のロケ地は、九龍半島の南東端 現在の清水湾郊野公園の中央付近の広場です。 自分が行った30年前は、公園ではなく公有地か灌木の茂る原っぱで柵があり入れませんでした。 現在もあの木が現存するかどうかは未確認です。 ふたりの寄り(UPの画)は、この近くの劭兄弟映画社('75頃解散)の敷地内のオープンセットに同じような木を植えて撮影したとのことです。

この敷地の一部は、衛星電視上傳中心になっています。

香港島、九龍半島の村々では、'70代後半頃まで薪が燃料になっていたので ヒトが入れる場所の燃料になる樹木が伐られていたそうです。その後は、松系の樹ではなくガジュマルなどの 南洋系の樹が植えられて雰囲気が変わったのではないでしょうか。ただこの公園に立てば映画の「あの丘」がダブって見えると思います。

ヴィクトリアピークでは、なだらかな丘ではありませんし、スーインが丘の斜面を直線的に駆け上がることが出来ませんよね。 撮影当時にはすでに、現在の展望台付近からの背景に建物がかなり見えたのではないでしょうか?

レパレスベイホテルの裏手の丘(山の斜面)という話もあるようですが、実際にいってみると急斜面ばかり(東よりには緩斜面がいくつかありますが、低すぎます)です。 人物の背景には、遠くの山々(大陸)と島が見えますので香港島南部の低い丘、山は、地勢的に考えられません。

スーインが勤めていた病院のロケセット=東華醫院=現在 東華東院(Hospital Rd. 19)もその後'85年頃取り壊されました。現在は、新館が建っています。左手奥に旧館が在ったと思われます。 香港島ハッピーバレーの奥手 香港大球場の近くに在ります。
外観は、ヴィクトリアピーク中腹にある明徳国際醫院(Machilda Int'l Hospital)が、この病院のモデルといわれています。病院の建物自体は、趣が在ります。 それ以外は、東華醫院が撮影に使われたと聞きました。

船上レストランの香港仔は、陸上にマンション群が建ち並びましたが、海上の船で食事を出来るので雰囲気は味わえます。

海岸で泳ぐシーンは、レパレスベイ(淺水湾)は、海水浴場としてそのまま残っています。もちろん周辺の開発は進んでおり、淺水○○酒店=レパレスベイホテル(木造Hotel)は、'82に取り壊されマンションとレストランになり、その後ブランドショッピングセンターも建っています。 湾の遠景から名残りが感じられます。

 

駐在中にお付き合いのあった、某造船会社の現地代理店・源太公司のオーナー、澤民(敢えて、号だけにさせて頂きます)は『当時の、記者クラブであったのではないか』と言っておりました。 半世紀もむかしのお話です。          

(記事投稿日:20190810 纏め #114)


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