知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 7(中国にもあった斜塔)  この斜塔が案内してくれた「臥薪嘗胆」から「呉越同舟」へ』

2024-06-25 18:04:34 | 寺院・仏閣・神社・お社
『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 7(中国にもあった斜塔)この斜塔が案内してくれた「臥薪嘗胆」から「呉越同舟」へ』

『呉が闔閭(こうりょ)の時代に都を置き、雲岩寺塔、通称「虎丘塔」八角形の七重(レンガ造り)を建造、その後、呉越の戦いへ』

『呉王「闔閭」の次男「夫差」は、父の仇、越王「勾践」を討つため「臥薪嘗胆」を地でいき、国力を充実させて覇を唱え、一度は勝利したものの、勾践の反撃により敗北して自決、呉滅亡へ、波乱万丈の春秋時代の故事につながった。』

斜塔と言えば、イタリアの『ピおサの斜塔(現在の傾きは5.50度)』を思い浮かべますが、中国蘇州の雲岩寺の斜塔の傾きは、3.95度です。

 ウエブ情報から引用

雲岩寺塔は『蘇州の斜塔』

ウエブ情報から引用

蘇州の虎丘の頂上にあります。 8角形の七重の塔で、レンガでできています。ご覧の通りの斜塔で、いつまで持つだろうかと心配になります。 雲岩寺塔、通称「虎丘塔」は959年に建設されたもので、既に1100年を超えて保存されています。 高さは47.7mあります。 説明によれば既に3.95度北西側に傾いているそうで、近くで見ると、1階部分から傾いているのが分かって、なかなか迫力があります。

蘇州と虎丘
中国の古都、蘇州。
蘇州は紀元前514年、呉がここに都を置き、闔閭(こうりょ)の時代に街としての整備が進んだのが歴史の始まりとされています。 闔閭といえば、越の勾践(こうせん)との間で繰り広げられた呉越戦争が有名で、臥薪嘗胆(薪の上に寝たり苦いものをなめたりする。すなわち、成功するために苦労に耐える。)などの言葉を生んでいます。 また、呉の宰相、伍子胥(ごししょ)が活躍したのも闔閭が呉王の時代で、伍子胥祠は盤門にあります。
現在の蘇州の繁栄が呉王闔閭に端を発しているのであれば、蘇州観光で呉王闔閭ゆかりの地、虎丘の紹介をしないわけにはいきません。

 
虎丘は呉王闔閭(こうりょ)の墓のあるところで、その名の通り小高い丘になっています。 写真は虎丘への入口にある碑坊といわれる門で、「呉中第一山」(呉の中で第一の山と)いう字が見えます。 また、山の上の斜めに立つ雲岩寺塔(通称「虎丘塔」)も見えています。
  
「呉の中で第一の山」とされている虎丘は、確かに蘇州のどこからでも頂上に立つ斜塔とともに見ることができます。 ただ最近は蘇州もスモッグが多くて霞みがちではあります。 なお、虎丘という名前は、呉王闔閭(こうりょ)はその死後、蘇州の海湧山という山に埋葬されましたが、埋葬後3日間白い虎が現れ闔閭の墓を守ったとされていて、以後、海湧山という名を虎丘に改名したとされています。

闔閭(こうりょ)は、中国春秋時代の呉の第6代王。 姓は姫。 諱は光。 闔閭は号。 家臣の孫武・伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。 『臥薪嘗胆』の故事で知られており、春秋五覇の一人に数えられることがある。  闔廬とも表記される。
 
こういう塔を見ると、「上まで登れるのですか」と質問する人が必ずいますが、このレンガ造りの塔ですが登ることも中に入ることもできないようです。 しかし中国の層塔は最上階まで登れるものが多いようですが不思議な事例です。 日本の場合は、三重塔も、五重塔も、現代の感覚で言う三階建・五階建てではなく、内部は軒を支えるために複雑に木組みがなされており、上層に登ることはできないのが普通です。

雲岩寺塔は蘇州の街の至るところから見ることができますし、虎丘のエリア内でもあちこちから見ることができます。 
(記事投稿日:2024/06/25、#755)
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