知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』 『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

2023-09-23 22:06:16 | 映画
『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』
『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

最近、読んだ本の中で、大女優 原節子さんのファンとして、感激したのは、表題『石井妙子著「原節子の真実」』です。 著者の大女優 原節子さんの『根拠のない風説によって語られてきた神秘性に満ちた生涯』をインタビューの機会が一度もなかったのに、ここまで徹底的に調査されています。
 ウエブ情報から引用
まえがきの始まりが『その女性はすでに生きる伝説と言われて久しく、世間からのあらゆる接触を半世紀以上も絶って、自分の生死すら覚られまいとしていていた。』とありました。 

戦前から戦後にかけての日本映画を代表する大女優のひとりでしたので、後半生50余年、1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送ったことが不思議で、なかなか理解できませんでした。

理由は、次のエピソードもありましたので。 『秋山庄太郎氏の原節子さんとの偶然のすれ違いと、その後について』のウエブ情報の抜粋・引用です。
 
大学を卒業して田辺製薬に入社しましたが、三ヶ月で応召。 その直前に見合いをし、結婚しました。 中国では通信兵として各地を転戦し、マラリアにもかかりました。

復員後は、銀座八丁目に秋山写真工房を開設しました。 スタジオがつぶれ、さてどうしたものかと考えていた時、女優の原節子と松坂屋の横ですれ違ったのです。 あまりの美しさに茫然としました。 いつの日かこういう美女を撮りたいとつくづく思いましたね。

数日後、写真家林忠彦さんから連絡があり、「いま『近代映画社』がカメラマンを探しているんだけど、庄ちゃんが行くなら紹介するよ」と言う。 「もちろん行くよ、おれ原節子に会いたいもん」と言って、即日入社しました。 それから二ヶ月もたたないうちに原節子を撮ることができました。 運がいいんですね。
  
原さんとは気が合い、自宅にまで呼ばれるようになり、よく手料理をごちそうにもなりました。 原さんに気に入られたきっかけは、大船撮影所からの帰りの電車の中で偶然一緒になり、「秋山さん、映画界好き?」と聞かれたことからですね。 ぼくが「あまり好きじゃない」と言うと「私も好きじゃないのよ」とニコリ。 「撮影中もまわりに大勢お付きの人がいて、正直気が散って困るんです」と言うと、「だったら明日うちへきて撮ってよ」とふたたびニコリ。 これには仰天した。 会社へ帰って報告しても、最初は誰も信じませんでしたからね(笑)。 

秋山氏は、鎌倉の原邸で、お酒とお馳走を頂いた後、泊まることになったそうですが『ふすま一枚隣に原節子さんがお休みと思うと、一晩中眠れませんでした』と言ったエピソードをも読んだこともあります。

表題『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に戻ります。 先ずは、著者であるノンフィクション作家 石井妙子氏のプロフィールです。
白百合女子大学文学部国文科卒業 同大学院修士課程修了
活動期間     2006年 -
主な受賞歴   第15回新潮ドキュメント賞
第52回大宅壮一ノンフィクション賞
デビュー作   『おそめ』

著書
  • 『囲碁の力』洋泉社新書、2002年10月。
  • 『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』洋泉社、2006年。
  • 『日本の血脈』文春文庫、2013年。
  • 『原節子の真実』新潮文庫、2019年
  • 『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』KADOKAWA、2019年。
  • 『女帝 小池百合子』文芸春秋、2020年。
  • 『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』文藝春秋2021年。
共著
岸富美子と『満映とわたし』文藝春秋、2015年。
岸富美子と『満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創』角川新書、2022年。

寡黙な少女
1920年6月17日、保土ヶ谷駅近くの会田家の父・藤之助48歳、母・ナミ38歳の7人兄弟(二男五女)の末娘・昌江として誕生。 三歳になってほどなく1923年9月1日の関東大震災(震源地は相模湾沖)で、会田家は倒壊、その時の台所での大やけどで母が重傷を負った。 その結果、母は心身を病むことになった。 一方、この震災に関して『原節子』は、ほとんど語り残していない。
戦前の映画雑誌には『家は音を立てて崩れたものの、幸いにして会田家は無事であった・・・』という逸話が載っていたそうです。 この齟齬をどうとらえたらよいかと書いています。

彼女自身は三十代の後半に、『自分の小学校時代を振り返り、活発は木登り好きで友達の女の子がいじめられると、助けたりするナイト的なとこがあったとする』と回想している。 ところが同級生たちが記憶する彼女の姿は、まったく異なっており、少女は寡黙で人と群れず、いつも教室の片隅で本を広げ孤独な空気を漂わせていたという。

実はこの頃、彼女の家庭は経済的に問題を抱えていた。 昭和4年(1929)10月末、ニューヨーク・ウォール街に端を発した株価の暴落が彼女の家庭をも直撃していた。輸出品の生糸が売れなくなり父の店も打撃を受けていた。 かって、次姉と三姉が振袖と袴を着けてフェリスに通っていたが、小学三年生の昌枝は丈の合わない傷んだ服ばかり着続けていたと友人は回想。

悲劇はそれにとどまらず、母ナミが病んでしまっていた。 それは関東大震災で熱湯をかぶったせいだと語るが、真相は定かでない。 「お母さんが、意味のわからない独り言をいうの」と友人に話していた。

「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と言ったということがよくわかる大女優の少女時代も波乱万丈であったようです。 まだまだ調べて『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に続きます。
(記事投稿日:2023/09/23、♯687)
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