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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『唐王朝初期の皇女「文成公主」は、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入り!』

2025-03-28 11:10:11 | 寺院・仏閣・神社・お社

『唐王朝初期の皇女「文成公主」は、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入り!』

『この政略婚姻に干渉した、胡は文化的交流や軍事的対立を通じてチベット(吐蕃)チベットの発展に影響も多大』

『古代の中国王朝も「胡(ペルシャ系民族で、西胡は胡(匈奴)の西側に、東胡は東側に位置)」には四苦八苦』

中国は、およそ550年の戦乱の、春秋時代(BC770〜BC403)・戦国時代(BC403〜BC221)の後の、秦・漢・隋・唐と、統一国家が続きますが、大帝国唐王朝時代でも『胡(西胡・東胡)』には悩まされようです。

古代中国における「胡」という言葉は、北方や西方の異民族を指す用語でした。
西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました。 東胡は春秋戦国時代から秦代にかけて存在し、匈奴の東側に位置していたため「東胡」と呼ばれました。彼らは遊牧生活を営み、後に匈奴によって滅ぼされました。 西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました

中国史上,周辺の外族を懐柔するため降嫁させられた王族女子。 公主はプリンセスの意。 唐初吐蕃のソンツェン・ガンポに嫁した文成公主等が名高い。中国側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受け入れ降嫁したもので,王族といっても疎遠なものや養女の場合もあった。しかしこれが漢文化浸透の契機となった点も看過しえないようです。

『唐王朝は強大な帝国でありながら、国境付近では異民族(当時、(西胡・東胡)を「胡」と総称)緊張関係を持った。特に安史の乱(755年-763年)異民族勢力が重要な役割を果たし、唐王朝の弱体化を促進した。
ただし、唐王朝は、異民族に対して外交的に巧みな対応を見せた時期も多く、中央アジアから東アジアに広がる広大な領土と多民族社会を統治するため、軍事力だけでなく文化的・経済的な交流も重視していたことが特徴的です。例えば、シルクロードを通じた貿易や文化交流の繁栄は、唐王朝の国際的影響力を高めました。その一環として政略婚姻がありました。』

『中国唐王朝側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受入れ「降嫁」で唐の友好関係築く大きな役割を』

大唐時代の吐蕃
 
ウエブ情報から引用

634年、チベット『吐蕃』は唐に対し公主を迎えたいと申し出たが、この政略結婚は『吐谷渾』の妨害にあって実現せず、638年にソンツェン・ガンポは『吐谷渾』へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。これにより唐が妥協し、640年に文成公主を降嫁させることとなった。
吐蕃
七世紀初めから九世紀中頃まで,ラサを都とする今のチベット地方にあった統一王国の,中国での呼び名。17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。唐が吐蕃と呼んで以来、唐・インドの文化の影響を受けて栄えたが,のち唐に帰服。宋・元代では単にチベット地方をさしていう。
吐谷渾
中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。

半世紀も昔のことですが、英語が大の苦手でしたので、駐在するなら、漢字は少しは読めるので漢字圏の中国と思ってましたが、当時は一般人は中国へ駐在はおろか入国もできませんでした。 そんなところに、中国へ唯一の窓口・香港駐在はどうかといわれ、二つ返事で香港駐在になりました。

中国では『「三国志」は年寄りに読ませるな、「水滸伝」は若者に読ませるな』と言われるそうです。 『三国志』を読むと権力争いに夢中になり、『水滸伝』を読むと革命の血が騒ぐからと。  今日の中国はやはりこれらの書の影響が大きいのでしょうか?

香港では『「金瓶梅」は女性に読ませるな』と言われますが、この言葉、男社会の中国で生まれたことに納得です。 これに頷ける自分も、男社会の育ちです。

これらの物語に『三国志演義』を加えて、元から明にかけて、『四大奇書』と言われ、明時代には『金瓶梅』に代わって『紅楼夢』になり『四大名著』と言われてます

20代で香港に駐在して、先ず現地の方々と、丸テーブル囲み『飲茶(点心)』をしながら片言の広東語で、話題にしたのはしたのは、『四大奇書』に挙げられている『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』でしたが、こんな中で、強烈なインパクトを受け、知ったのが、歴史大絵巻『唐王朝の初期の皇女「文成公主」の、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入りと、その後の活躍』でした

文成公主は唐代に実在した女性皇族。 チベット(吐蕃)の王ソンツェン・ガムポに嫁いだ。 別名・和蕃公主、『成果』以下のように多岐にわたります:

唐と吐蕃の同盟強化: 
文成公主は吐蕃のソンツェン・ガンポ王との政略結婚を通じて、唐と吐蕃の間の友好関係を築き、政治的安定と平和をもたらしました。これにより、両国の間での争いが減り、平和的な交流が促進されました。

文化の伝播: 
文成公主は唐の先進的な技術、文化、宗教(特に仏教)を吐蕃にもたらしました。特に、唐代の農業技術や工芸技術、漢字文化を吐蕃に伝えたことが吐蕃の発展に寄与しました。

仏教の広がり: 
文成公主は熱心な仏教信者であり、吐蕃に仏教を持ち込んだことは、チベット仏教の発展において重要な役割を果たしました。彼女がソンツェン・ガンポと共に建てた寺院(例: ジョカン寺)は、現在でも重要な宗教施設として残っています。

外交手腕の評価: 
文成公主の行動は、周辺諸国における唐の影響力を拡大するうえでも重要でした。彼女の外交的な役割は、東アジア全体の安定に寄与したとされています。

彼女の功績は現代でも中華文化やチベット文化の一部として語り継がれており、彼女の生涯は和平の象徴として評価されています。

長安とラサの距離は約2900㎞、嫁入り行列は、大勢であったようですが具体的人数は記録が見つかりません。

公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位:641年 - 643年)の妻となった。 642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサにラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。

夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。 再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。

ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。(現代では文成公主を観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩の化身とする見方もある。)

ウエブ情報から引用

多くの日本人は敬意を抱いて「中国4000年の歴史」といいますが、中国の歴史は奥が、実に深いです。 日本の縄文時代も凄いです。
(記事投稿日:2025/03/28、#994)
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『史上最強の柔道家・木村政彦 vs 元関脇で稀代の興行主・力道山』 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

2025-03-20 13:28:33 | 格闘技


『史上最強の柔道家木村政彦 vs力道山元関脇で稀代の興行主』

 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

 木村政彦も力道山も、レジェンド・伝説的な格闘技家です。 

 木村政彦はプロレスの前の柔道が光り輝いています。 後述しますが、神永がオランダのヘーシンクに日本のお家芸『寝技』で敗れました。 『神永の代わりに47歳の木村を当てようとした』話があったほど、木村は強かったようです。 

 力道山は、関脇で相撲界から引退ですが、現役時代は幕内勝率:0.581、優勝なし、三賞は一回だけ等から、やはり凄かったのは、第二の人生ともいうべき、プロレス界での活躍と大成功と、政界・財界との広いつき合いと、実績です。

 

エリオ・グレイシーとの死闘、

『木村は2Rで得意の大外刈りから腕緘(わんかん)に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)』

         ウキペデイアより引用

 

昭和の巌流試合と呼ばれた試合

『木村は素足、力道山は真鍮板を貼ったシューズのつま先で、どこかを蹴った後、不意打ちの張り手連打で腰から崩れ落ちた木村政彦の前に立つ力道山』

          ウキペデイアより引用

 

アマスポーツとプロスポーツ

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進み、力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

  木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

 アマポーツとプロスポーツの違い、それぞれの運営と興行、ローマ時代の格闘技の目的などとも、いろいろと比較・想像が広がります。

  『昭和の巌流島の戦い木村政彦vs力道山』には何が起こったのか、その結果は、周知のごとく多く人々(特に還暦・古稀世代)の記憶に鮮明にあります。

  講道館と全柔連の関係と方針・動きの中に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで、寝技にも制限、立ち技中心の現在の柔道になった。  これは嘉納治五郎館長の方針とは異なる、三船十段の意志貫徹の結果か『何故』と、考えさせられる。

  東京五輪の無差別級、で神永五段がオランダのヘーシンク四段にナント寝技『袈裟固め』で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び、寝技も得意であった。

 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』有利。 この東京五輪でヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段を木村五段は相手にしてなかった。

  嘉納治五郎は、この時代にすでに現在の総合格闘技で使われている、オープンフィンガーグローブの製作・採用実現を考えていた。この慧眼、柔道を「総合格闘技」と見た加納館長に感心し、「理論の加納、実践の三船」と言われていたが、これが皮肉に聞こえる。

  『プロスポーツならでは・・・』ですが、昔、タイソンのプロボクシングの15ラウンドの、ファイトに54億円のファイトマネーが支払われた記録も米国、にある。 メディア(テレビ)の所為でしょうか。

  力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。これもメディアの所為が大きいのでしょう。 その間木村政彦はずっとヒ―ル役でした。

  ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦と相撲出身の力道山は、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック、(筋書き)ありで戦うことになり、木村政彦はいつもの『素足」』で、19541222日に戦われた。 

  ブックには「木村の当て身」だけは禁止とあったが、『腕がらみ技』さえも禁止、であった。 全盛期の相撲出身者がここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道、の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり、力道山の拳打ち(空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

  プロレスは、益々、大盛況が続いた。9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

  こんな、柔道家の覚悟を持っていた柔道家師匠と弟子、木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の、分身として、木村政彦をスカウトして鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された。さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。 この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では禁じとブックに書かれた。

  第三回(昭和15年)の天覧試合を全試合一本勝ちで優勝、恩師の雪辱を果した。この記念品の短刀を子供の鉛筆削りに使っていたという、逸話もあるが、大事な試合の決勝戦の前夜には、この短刀を持って瞑想し、切腹の作法を、繰り返すほどの覚悟であった。

ところで、余談です。

 切腹について、作法道理の介錯なしで切腹した乃木大将と、立会人に最後まで介錯させず切腹した柔道家・猪熊功(柔道三冠王)の二人が記憶に鮮明です。

 元禄時代には、赤穂義士・四十七士も、自分では腹は切らず、もろ肌脱ぎか、小脇差の取りあげを合図で介錯された。 これが今では定説です。 元禄武士の覚悟の問題ではなく、『四家中に分散預けの46人の大人数の切腹で、短時間に』あったようです。

  (記事投稿日:2018/12/23、最終更新日:2025/03/20、#041)

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『日経新聞の私の履歴書で見た、凄い人「尾身茂氏」の凄い一面(ポリオウイルス感染症予防ワクチン「5歳ル-ル」中国に徹底へ)「一人っ子」政策を乗り越えて!』

2025-03-20 07:59:01 | 寺院・仏閣・神社・お社
『日経新聞の私の履歴書で見た、凄い人「尾身茂氏」の凄い一面(ポリオウイルス感染症予防ワクチン「5歳ル-ル」中国に徹底へ)「一人っ子」政策を乗り越えて!』

『ワクチン接種のためには予防接種台帳が「一人っ子政策」の隠れた(違反)の第二子、三子がポリオウイルス感染症予防ワクチン接種に「漏れ」があったが、説得しワクチン接種徹底!』

尾身茂氏は医師・医学博士で、感染症の専門家です。 新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長を務めてられました。

WHO西太平洋地域事務局ではポリオ根絶担当となり、西太平洋地域(中国や東南アジア)からポリオ根絶を達成しています。

 ウエブ情報から引用

記者会見やテレビ番組出演の様子を見ると、物腰柔らかおじいさんという印象を受けますが、実は尾身茂氏はとんでもなくすごい人物です。

表題の『ポリオウイルス感染症予防ワクチン「5歳ル-ル」中国に徹底へ』の紹介です。

ポリオ根絶の戦術はとてもシンプルだ。
第一に疑われるサーベイランス(調査監視)をすべて報告したもらい、便検査後『ポリオ検査予防週間』を設け、5歳以下の9割以上に敬幸ワクチンを投与する。

しかし、政治的、社会的、文化的な問題が立ちはだかる。 先ずは中国の『一人っ子政策』。 ワクチン接種のための台帳に、第1子のみで。 接種を受けていない第2子、第3子が中国の患者の9割以上を占めていた。

WHOとしては、中国の『一人っ子政策』という国策を批判するような内政干渉はできない。 そこで北京に赴き衛生省に、直接面会して『一人っ子政策』という言葉は絶対に使わずと決めていた。

第2子以降にポリオの患者が集中ことを説明して、全地方政府の幹部を集めた会議を開催。 第2子、第3子を予防接種台帳に記録がおとがめなしになりこれで中国のポリオ根絶を確信。

その年,1993の冬、中国は約1週間の特別予防接種期間を設け約8000万人の子供にポリオワクチンを投与した。 公衆衛生史上、空前絶後の出来事だった。

尾身茂氏も凄いですが、政治体制もいろいろありますが、今回は『集団指導体制(?)』の凄さも再認識しました。
(記事投稿日:2025/03/19、#992)
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『日本の琵琶!思い出すのは、先ずは「琵琶法師とは?」「怪談・耳なし芳一の語る平家物語」』、

2025-03-19 16:41:27 | 寺院・仏閣・神社・お社
『日本の琵琶!思い出すのは、先ずは「琵琶法師とは?」「怪談・耳なし芳一の語る平家物語」』、

『日本琵琶自体は原型に近い形を維持、一方、中国琵琶は、長い歴史の中で時代にあわせて楽器の改良が繰り返され奏法や表現力も変化』 
           

 ウエブ情報から引用

日経新聞(2025/03/19)の文化欄に載っていました。 見出しは、『手仕事の琵琶 深淵なる音(東京虎ノ門の専門店で制作・修理60年、古代五弦タイプの再現も)高層ビルが立ち並ぶ一角にある「石田琵琶店」。 今では国内唯一とされる琵琶専門店だ。その4代目、石田不識(本名、勝雄)として、琵琶の製作・修理を手掛けて、もう60年にもなるそうです。』

琵琶は少なくとも奈良時代に日本に伝わり、江戸時代頃まで広く演奏される楽器でした。 しかし、現在ではあまり目にする機会はないため、どのような楽器なのかわからないという方も多いのではないでしょうか。

琵琶とは、ペルシャ周辺発祥の楽器です。ギターや三味線などと同じように弦を弾いて音を出す撥弦楽器(はつげんがっき)であり、主に東アジアに広がり、日本でも定着しました。

日本琵琶と中国琵琶には違いがあるようですが、折角中国人の国に長く15年以上も住んだのに、中国琵琶の音を聞かず仕舞であったこと反省しながら今回ブログにまとめました。 最終部の中国琵琶の歴史(唐の時代~近代)はウエブ情報の引用です。

琵琶は東アジアの弦楽器で、中東のウードや、ヨーロッパのリュートと同じルーツを持っています。 シルクロードを経由し、日本には7〜8世紀ごろに中国から入ってきたそうです。
ウード⇒リュート属に分類される 撥弦楽器。
リュート⇒ヨーロッパのリュート族の楽器を意味する。また、一般的には、弦が音台に平行な面に張られている弦楽器を指す

 ウエブ情報から引用

現代の日本には、「楽琵琶」「盲僧琵琶」「平家琵琶」「薩摩琵琶」「筑前琵琶」の5種類があり、それぞれの特徴は以下のとおり。

楽 琵琶(がくびわ)→日本初の琵琶といわれ、雅楽で演奏するときに用いられる。
盲僧琵琶(もうそうびわ)→盲目の僧侶である琵琶法師が、お経を唱える時の伴奏として用いた琵琶。
平家琵琶(へいけびわ)→鎌倉時代の軍記物語『平家物語』に節をつけ歌いながら演奏する(これを平曲という)時に用いられる。
薩摩琵琶(さつまびわ)→武士の教養のための音楽として、室町時代に生まれた近代琵琶。
筑前琵琶(ちくぜんびわ)→宗教性をなくし女性を対象とする家庭音楽として、明治時代に興隆。

これから心配になるのは、琵琶の材料は、原材料は国産のクワの木が入手しにくくなっており、特に樹齢100年ほどの大きな木が減っているようです。 琵琶の音色は素材に大きく左右され、ケヤキの木を使うこともあるが、『遠音がさす』といわれ、広い演奏場所でも音が通るクワの木が最適だと。 購入した木材も10年前後は曹宇湖で寝かせて、おかなければよい音は出ない。
 
琵琶と言えば、弦をでかき鳴らすと、スーッと心に染み通るような音が出る。 古来伝わる琵琶の音色は深遠で、反響が美しく、聞いていて落ち着く。 1人で弾いて、1人で語るという演奏スタイルが合う楽器。
撥は、
弦楽器の弦をはじく(引っ掛けて離す、または打つ)ために用いる棒状道具。桴・枹は、
楽器という点では共通だが、打楽器を叩く棒であり、全く別物。

琵琶で思い出すのは、『琵琶法師とは? 』と『平家物語・耳なし芳一の怪談』。

琵琶法師とは、日本で古くから演奏されている「琵琶」という楽器を演奏しながら、経文を唱えたり、さまざまな物語を語ったりする、目の不自由な僧侶や芸能者のことを指します。

琵琶法師は、当初はさまざまな物語が語られていたようですが、鎌倉時代末期になると語るのは『平家物語』に限定されました。 有名な「耳なし芳一」の怪談でも、芳一が語るのは『平家物語』です。 そのため、琵琶法師=平家物語の語り手というイメージが定着しています。

中国琵琶の歴史(唐の時代~近代) ウエブ情報引用
中国琵琶は、長い歴史の中で時代にあわせて楽器の改良が繰り返され
奏法や表現力も変化していきました
それとは対照的に、日本の琵琶は遣隋使や遣唐使によって中国から日本に伝えた後、楽器の基本的な形や奏法は長い歴史の中でもほとんど変わることなく、
原型に近い形で受け継がれて伝えられてきました
留学生のコメント、中国の音楽学院に留学した時、師匠の劉先生からも 「中国の琵琶は変化することで発展してきたが、日本の琵琶は古代の姿のままとどまっていることが特徴的だ」と教わりました。 また、演奏をする時など、お客様から「中国の琵琶は日本の琵琶と全然違うのですね」と言われることがあります。 たしかに、お客様には、見た目や音色について日本の琵琶と中国琵琶が「全然違う楽器」のように感じられるのだと思います。 中国琵琶と日本の琵琶のルーツは同じですが、現在では音色も奏法も異なったものとなってしまった結果まるで違う楽器のような印象となりました。

楽器、一つとっても、まさに『百聞は一見に如かず』、『郷に入っては郷に従え』寸暇を惜しんで、ゴルフばかりでなく、いろいろ知的経験を怠ってはいけないモノと反省しきりです。
(記事投稿日:2025/03/19、#991)
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