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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『世界の城郭・宮殿 031(ブタ城、ブタ・ペスト攻防戦、中世王国乱立の東西ヨーロッパを結ぶ交通の要衝で!』

2025-07-19 22:20:04 | 寺院・仏閣・神社・お社

『世界の城郭・宮殿 031(ブタ城、ブタ・ペスト攻防戦、中世王国乱立の東西ヨーロッパを結ぶ交通の要衝で!』

ブタ城の攻防戦を調べていたら、この戦いの前の11世紀末のヨーロッパの地図、偶然見つけました。 大きな転換期にあたり、中世盛期に差し掛かるこの時代は、政治・宗教・社会・経済の各分野で重要な動きが起きていたことがよくわかります。

 ウエブ情報から引用

ブダ城鳥瞰図
 
ウエブ情報から引用
ブダ城(ハンガリー語:Budavári Palota、英語: Buda Castle)は、1242年にハンガリー中興の祖とされるベーラ4世(ハンガリー王国アールパード朝の国王、1206年11月29日生 - 1270年5月3日没、在位:1235年 - 1270年)が、ドナウ河畔の丘に、居城を兼ねた砦を建設したのが始まりです。 14世紀にはゴシック建築の王宮に生まれ変わり、15世紀後半にはルネサンス建築の様式に改築されました。 オーストリア大公やハンガリー女王であったマリア・テレジア(Maria Theresia、1717年5月13日生 - 1780年11月29日没)による18世紀の再建では、部屋室が203室の巨大な王宮となりました。 しかしながら、1956年のハンガリー動乱によってブダペストに侵攻したソ連軍に破壊され、現在あるブダ城の建物は1980年代に再建されたものです。
 
この「ブダ城」は、「ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ大通りを含むブダペスト」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されています。


『日本の戦国時代の攻城戦と異なり、ヨーロッパの中世・近世は長期化する傾向の包囲戦が多い、城郭の構造から!』

中世のブタ城を調べていたら、地政学に見たブタ・ペストを理解もせずに、つまり『ハンガリー知らず』でした。 ライン川は少し知っていたつもりも、ドナウ川を全く知らずでした。 この二つの川は閘門式運河では繋がっています。

地政学的に見たブダペスト(ハンガリー)は、ヨーロッパの中心に位置する都市として、歴史的・戦略的に非常に興味深い存在です。 

首都ブダペストはハンガリー北部にある大都市。 ここはローマ帝国の時代から人々が集落を築いていたというほどに歴史の深い都市。 ドナウ川一帯は旧石器時代から人々が住み始め、現在の街の北部にはローマ帝国時代の都市遺跡・アクインクムが残っています。
アクインクム
ローマ帝国のパンノニア属州の北東端にあった古代都市。 後にハンガリーの首都であるブダペストとなった。 

地理的位置と戦略的価値
中央ヨーロッパの交差点:
ブダペストはドナウ川を挟んでブダ地区とペスト地区に分かれ、東西ヨーロッパを結ぶ交通の要衝。

ドナウ川の存在:
古代から交易・軍事のルートとして重要で、都市の発展に大きく寄与。

周辺国との関係:
オーストリア、スロバキア、ルーマニアなどと接しており、歴史的に多くの帝国や同盟の影響を。


歴史的な地政学的役割
ハンガリー王国の首都:
中世から近世にかけて、ハンガリー王国の中心として政治・宗教・軍事の拠点でした。

オスマン帝国とハプスブルク帝国の狭間:
16世紀以降、両勢力の争いの舞台に、地政学的緊張が続く。

冷戦時代の東西分断:
ブダペストはソ連の影響下にありながら、西欧との文化的・経済的接点も持ち、地政学的に複雑な立場。

現代の地政学的意義
EUとNATOの加盟国:
ハンガリーは両組織に加盟、ブダペストはその政策決定や外交の中心地。

ロシアとの関係:
エネルギー政策や外交面でロシアとの関係が注目されており、ブダペストはその交渉の場に。

中国の「一帯一路」構想との接点:
ハンガリーは中国の投資を受け入れており、ブダペストはその物流・金融の拠点としても機能。

ブダペストは、単なる美しい観光都市ではなく、歴史と地理が交差する『地政学の縮図』とも言える都市です。

ブタの歴史ですが、ハンガリーをもう一度振り返ってみます。 ブダは9世紀に現在のハンガリーの祖先であるマジャル人によって作られた街で、13世紀にはブダの丘の上には城が築かれました。 その後、城は改築を重ね、15世紀にはハンガリー王国最盛期を築いたマーチャーシュ1世によりルネサンス様式にされるものの、16世紀にオスマン帝国により破壊。 現在のブダ城は19世紀にネオ・バロック様式で再建されたものがベースとなっています。

ブダ城の南に位置する標高235mの丘で、ツィタデッラと呼ばれる城塞が残っています。 これは19世紀に建造されたもの。 ツィタデッラからは新市街やドナウ川一帯を眺めることが可能。丘の麓に ある「ゲッレールト温泉」も有名で、アール・ヌーヴォー様式で作られた温泉施設も世界遺産に登録。

ブダ城 または ブダ王宮 (Budavári Palota)は、 ハンガリー の首都ブダペストにある城。 1241年 、 モンゴル軍の攻撃で木造城壁だったブダ城が破壊されると ベーラ4世 が石造で再建。

ブダ城(現在のハンガリー・ブダペストにある王宮)は、16世紀にオスマン帝国の侵攻を受けたことで知られています。 特に1541年のブダ包囲戦は、ハンガリー史の転換点となりました。

ブダ城攻防戦の概要
背景:
ハンガリー王国は1526年のモハーチの戦いでオスマン帝国に敗北し、王ラヨシュ2世が戦死。その後、ハンガリーはハプスブルク家とオスマン帝国の間で分割される。

1541年の包囲戦:
オスマン帝国のスレイマン1世(壮麗帝、ヨーロッパではthe Magnificent:ザ・マグニフィセントと呼ばれる)ブダ城を包囲。 ハプスブルク家の軍が城を守っていましたが、オスマン軍は巧妙な策略で城を奪取しました。

戦術:
オスマン軍は和平交渉を装って城内に入り、突如として占拠。 これによりブダはオスマン帝国の支配下に入り、以後約150年間続きます。

結果:ブダ城はオスマン帝国の西方拠点となり、ハンガリー中部はオスマン領に。 ハプスブルク家は西ハンガリーとトランシルヴァニアを保持しました。

その後の影響
ブダはオスマン帝国の行政・軍事の中心地となり、モスクや浴場などイスラム建築が建てられました。

1686年、神聖ローマ帝国軍によってブダ城は奪還され、オスマン支配は終焉を迎えます。

この攻防戦は、ハンガリーが三分割されるきっかけとなり、ヨーロッパとオスマン帝国の勢力争いの象徴的な出来事でした。

現在のブダ城の姿からは『凄まじいオスマン帝国との攻防』で破壊されたので、は想像もできません。

  • 13世紀以降、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式など、時代ごとに再建・改築が繰り返されました。

  • 現在の建物は主に19世紀のネオ・バロック様式で修復されたもので、内部にはハンガリー国立美術館やブダペスト歴史博物館などが入っています。

(記事投稿日:2025/07/18、#1018)
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