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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

宝珠山 如意寺(京都府京丹後市久美浜町1845)

2024年07月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月19日
宝珠山 如意寺
高野山真言宗の寺院
関西花の寺二十五カ所の一つ

仁王門(山門)
団体の参拝者がバスに戻る時間帯でしばらく待つことに
古い様式をとどめたまま、昭和28年と51年に二度の大修理が行われている



扁額には山号の「宝珠山」



木造金剛力士像(京丹後市指定文化財)
鎌倉時代初期の木造金剛力士像
写真では分からないが金網が障害となりなかなかうまく撮ることができず……



苦肉の策だが望遠で撮ることによって金網の存在をぼんやり消すことができた



曼荼羅寶壺
壺の投入口からお金を入れると、水琴窟のような優雅な音を楽しめる



手水舎



鐘楼
左側に見える海は久美浜湾



鐘は自由に撞くことができる



この花の寺は二度目になるが、いつも残念な時期に訪れているようだ


<img style="color:yellow;">六角堂</span>
日切不動尊絵馬、縁結び絵馬、千羽鶴の奉納所

<img style="color:yellow;">狛犬</span>

<img style="color:yellow;">本堂</span>
天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に滞在していたとき、「山上より火出て海に入り、また海より火出て山に昇る」奇瑞を見て海士に綱を引かせたところ、過去七仏の如意宝珠の舎利塔を得た
菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如意寺と号された
院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年間(室町中期)の兵火でその多くが消失した
大正7年(1918年)、大雨で倒壊。現存の堂は昭和2年(1927年)、当時の様式そのままに再建されたもの

<img style="color:yellow;">閼伽井の水</span>
眼にご利益があると伝わる名水

<img style="color:yellow;">珠山千年石の庭</span>

<img style="color:yellow;">白山権現</span>

<img style="color:yellow;">小安地蔵堂</span>

<img style="color:yellow;">持仏堂本尊>

撮影 令和6年5月19日
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発信貴山 縁城寺(京都府京丹後市橋木873)

2024年07月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月19日
発信貴山 縁城寺
真言宗の寺院
丹後地方の真言宗寺院のなかでは屈指の規模と由緒をもち、「橋木の観音さん」と親しまれている



石段下にある石仏



水子地蔵



石段を上ると「本堂」が見えてくる
初めて訪れる寺院なので周辺を散策する



鐘楼(京都府暫定登録文化財)
京都府では、貴重な文化財の早期保護を図るため、平成29年4月から 「暫定登録文化財」.の制度を創設
文化財保護の裾野を広げ、 修復・保存・ 防災等のための補助を行っている
縁城寺の建造物では、本堂、鐘楼、多宝塔、庫裡門、総門の5棟が登録されている



宝篋印塔(重要文化財)
開基・善無畏の供養のために建立された高さ3.4mの石塔



「正平六年」の年記と「佛子行秀」の名が刻まれている
正平6年(1352年)の造立と推定され国の重要文化財に指定されている



本堂周辺の石仏



本堂(京都府暫定登録文化財)
本堂は貞享2年(1685年)や天保14年(1843年)の火災を経ながら嘉永元年(1848年)に完成した



前面1間に虹梁三斗を掛けた外陣に対し、内陣は3方に入側を巡らせ、中央に須弥壇を設け厨子を安置する



蟇股の彫刻



扁額には山号の「発信貴山」
弘仁年間(810~823年)、諸国を巡錫していた空海(弘法大師)が縁城寺に立ち寄る
縁城寺を「発信貴山」と呼んで山号の額を掲げた



仁王像
本堂の左右には、京仏師「鎌田喜内師」作という大きな仁王像がある
1927年(昭和2年)の北丹後地震で大きな被害を受け、勅使門、仁王門、庫裡が全壊
仁王門の仁王像は本堂に移された



このように何の障害もなく仁王像を間近で拝観できる機会は稀である



いつも仁王像の撮影には障害物で苦労している



自由に撮ることができることは嬉しいが、これはこれで難しい



目線が合うとやはり迫力がある



腕が欠損している場所などを観ると構造なのが分かり面白い



足元なども普段は目にしない場所



内陣の様子
本尊:木造千手観音立像(重要文化財)
鎌倉時代、網野庄の地頭であった後藤兵衛実基が源頼朝から下賜され、縁城寺の千寿院に納めたものと伝わる
秘仏とされて33年に1度の開帳



須弥壇上の厨子の扉が開き輝いているので一瞬「これか」と思ったが違った(残念)



本堂周辺を歩く



多宝塔下重(京都府暫定登録文化財)
昭和38年(1963年)の豪雪により多宝塔上層部が倒壊したとある



このお堂が多宝塔とは想像できなく、投稿するにあたりネットで検索して初めて多宝塔だと分かった



小安弘法大師
子供を抱いている空海像を初めて見た



鎮守



願掛不動






丹後半島巡りは二度目で最後になると決めていた
記憶に残る寺院を訪れることができて良かった



撮影 令和6年5月19日
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慈恵山 円隆寺(京都府舞鶴市引土72)

2024年07月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月18日
慈恵山 円隆寺
真言宗御室派の寺院
創建は、長徳年中(995 - 999年)という古刹
開創は「皇慶」平安時代中期の天台宗の僧

寺号標
「慈慧山 圓隆寺」と刻まれている



文化財指定の建造物



総門(京都府指定文化財)
宝暦3年(1753年)建立
三間一戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺



額には山号の「慈慧山」



四天王像が安置されているが、金網が障害になり途中で断念した



隙間からも攻めてはみたが……



大師堂



空海像



本堂(京都府指定文化財)
石段の上に見えるのは本堂
本堂前の広場は駐車場になっていて、木陰で休憩している車が5・6台



天明6年(1786年)建立
桁行5間、梁行5間 入母屋造



文治4年(1595年)には山崩れで、万治2年(1659年)と享保17年(1732年)には火災に遭い、堂宇を失った
現在の本堂や多宝塔、総門などは、18世紀末までに再建されたもの
地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるものである



本尊:木造阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像・釈迦如来坐像 3躯(重要文化財)






鐘楼(京都府指定文化財)
宝暦10年(1760年)建立
桁行3間、梁行2間 袴腰付 入母屋造、桟瓦葺






多宝塔(京都府指定文化財)
宝暦元年(1751年)建立
三間多宝塔、本瓦葺



地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるもの
多宝塔の亀腹を瓦葺にするなど独創的な建築として価値が高い



以前訪れた時、周囲の木々の枝が伸びすぎて建物が隠れてしまい、うまく撮ることができなかった
今回は光にも恵まれた感じがする






太子堂と観音堂



太子堂



観音堂



鎮守堂(京都府指定文化財)
元文2年(1737年)建立
一間社流造、檜皮葺






出世稲荷神社




朝代神社(京都府舞鶴市朝代13)
弘文元年(672年)9月、淡路島の伊弉諾神宮より勧請して創建されたと伝わる

鳥居1



鳥居2



狛犬





社記



社殿
享保17年(1732年)の大火によって旧社殿を焼失し、元文9年(1739年)に現在の社殿が再建された



祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
本殿は舞鶴市指定文化財



撮影 令和6年5月18日
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延宝山 萬徳寺(福井県小浜市金屋74-23)

2024年07月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月17日
延宝山 萬徳寺
高野山真言宗の寺院
萬徳寺の前身は極楽寺といい、文永2年(1265年)の若狭惣田数帳に存在が記されている古刹である
安芸国円明寺の覚応法印が、極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改めた
天文13年(1544年)には信豊によって「駆け込み寺」として指定されている

庫裏(書院)
調べて見ると平成25年(2013年)に(小浜八ヵ寺巡りで)一度訪れている
その時、住職から書院内の説明を受けたことをはっきり覚えている
現在は、高齢ということもあるのか自由に拝観して下さいとのこと



書院内の額に目が留まった
「清風居」と読むのか 「子成」は頼山陽の字



欄間の絵



ネットで調べていると11年前の自分のブログが出てきた
(夜の11時に道の駅の車内で職務質問されているとの記載もあった)
投稿内容を見ると額や絵の写真が一枚も無い
この10年間で興味関心が変わってきたようだ



上段の間
この部屋は立入禁止になっている



入口の額には「楓葉閣」



江戸時代には、藩主休憩の間
昭和57年(1982年)には、天皇陛下御休憩の間となった



掛け軸









藩主になった気分で庭を眺める



国名勝 満徳寺庭園
延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏の命により築造された面積約1500平方メートルの蓬莱式枯山水庭園
山麓の斜面地を利用して斜面中段中央に高さ3mの真言密教における「本尊石」を配している
真言宗曼荼羅を表現しているという



確かに庭園の知識が無くても、理解できる






注意深く眺めて見ると、中央の「本尊石」の方を向いているような感じがする



書院から出る際、気になっていた廊下の模様があったので住職の奥様に尋ねてみた
その昔、修復に来ていた大工が昼休みに湯を沸かした熱い「やかん」を置いたことによってできた痕だと
由緒ある寺だけにここにも曼荼羅かと思っていたが違った



外に出て庭園を見る






本堂へ続く石段



新緑の季節も好きだが、紅葉も美しそうな感じがする



本堂
木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、張間3間、正面1間向拝付き



「鬼瓦」
本堂の屋根を銅板葺きにしたときに外されたもの



本尊:木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
像高141.5cm、檜材寄木造、平安時代後期の作
満徳寺前身である極楽寺の本尊



書院の屋根も老朽化が進んでいる



茅葺屋根は美しいが維持管理が難しく、葺き替えには経済的負担も大きい



この日は天気にも恵まれ、明通寺→若狭彦神社→若狭姫神社→鵜の瀬→萬徳寺と5カ所も巡ることができた
小浜市は有名な寺院が多く回っていて楽しい場所だ



撮影 令和6年5月17日
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若狭姫神社(下社)(福井県小浜市遠敷65-41)

2024年07月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月17日
若狭彦神社 下社【若狭姫神社】
下社は古来、若狭姫神社、遠敷神社(遠敷明神)と称していた
現在、若狭姫神社の公称は若狭彦神社 下社【若狭姫神社】 共に若狭国一宮である
若狭彦神社は、奈良時代 霊亀元年(715年)9月10日に鎮座
若狭姫神社は、6年後の養老5年(721年)2月10日に鎮座

社号標



鳥居



手水舎



社務所



遙拝所
上社 若狭彦神社(南1.5km)、鵜の瀬 白石神社(南4.6km)



随神門(福井県指定文化財)
二つの神社で共通する点は、本殿・神門・随神門といわれる3つが一直線に配置されていること



吉祥八人を祀る






鳥居扁額「遠敷(おんにゅう)神社」
文化元年(1804年)有栖川中務卿 幟仁親王 御筆
明治4年(1871年)以前、国幣中社に列せられる前は『若狭姫神社』『遠敷神社』と呼ばれていた
地域住民からは、今でも古来の呼び名、「若狭姫神社」と呼ばれている






寛保3年(1743)の造営



随身門正面に社殿が見えてくる



乳神さま
垂乳根(たらちね)の由来などが記されている






神撰所



末社 日枝神社



末社 中宮神社



神門(福井県指定文化財)
享和3年(1803)の造営






本殿(福井県指定文化財)
祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと)



鬼板
棟左右両端を飾っていた4枚の鬼板の一つ



神木 千年杉






石灯籠



末社 玉守神社



招霊(おがたま)の木
京都御所より拝受(明治時代)
おがたまの木は、太古の時代から祭祀の時に神霊の招請に用いられた神聖な木



能舞台






社叢(福井県指定天然記念物)



撮影 令和6年5月17日
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若狭彦神社 上社【若狭彦神社】(福井県小浜市竜前28-7)

2024年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月17日
若狭彦神社 上社【若狭彦神社】
若狭国一宮 
奈良時代 霊亀元年(715年)9月10日に鎮座
「若狭彦神社」は、現在『若狭彦神社 上社』と公称されている

社号標
初めて訪れた時、地元の画家に話しかけられ、長話しをしたことを思い出した
その時は神社にはさほど興味はなく、何も無いという記憶だけが残っている
2年前に「若狭姫神社」を訪れたときにも、ここを訪問地として選ぶことはなかった



鳥居
その後「一宮神社」巡りを旅の目的の一つに加えたため、再び訪れることにした



狛犬






二の鳥居
参道を挟みそびえ立つこの2本の大杉は、若狭彦神社の「二の鳥居」と考えられている



祓(みそぎ)の神橋
江戸時代 享保18年(1733年)造



夫婦杉
祈 夫婦和合(夫の浮気、妻の不貞防止)良縁成就
晴れた日の朝、杉の間を太陽が通過する



祓所(はらえど)



随神門(福井県指定文化財)



吉祥八人を祀る






社殿側から随神門を見る



手水鉢



神門(福井県指定文化財)
小浜市下根来白石に鵜ノ瀬というところがある
遠敷川の巨巌の上に、先ずは若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨したと伝えられる
その後、永久鎮座の地をもとめて若狭国内を巡歴、霊亀元年9月10日に竜前に若狭彦神社が鎮座、現在に至っている



右の柱の神託札には
「みな人の 直き心ぞ そのままに
  神の 神にて 神の 神なり」と記されている






本殿(福井県指定文化財)



祭神:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)



現在はほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している



撮影 令和6年5月17日
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棡山 明通寺(福井県小浜市門前5-22)

2024年07月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月17日
棡山(ゆずりさん) 明通寺
真言宗御室派の寺院(本山は仁和寺)
大同元年(806年)坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる



蝦夷征討に功のあった征夷大将軍・坂上田村麻呂が若狭国明通寺の開創に願ったことは
戦勝祈願ではなく「多年征戮するところの狐魂窮鬼を救う(長年戦ってきた蝦夷たちの浮かばれない魂を弔う)」ためだと



山門<仁王門>(小浜市指定文化財)
入母屋造桟瓦葺の楼門 江戸時代 貞享4年(1687年)の再建
下層には仁王像を安置している



蟇股の彫刻



木造金剛力士像(小浜市指定文化財)
鎌倉時代 文永元年(1264年)に造立

阿形像






吽形像






鐘楼






棡木(ゆずりぎ)
創建当時、棡木の大木で「薬師如来、降三世明王、深沙大将」の3体を彫って安置(焼失)
明通寺の山号「棡山」のいわれでもある



手水舎
ひっそりとした場所にある



情緒に溢れ、歴史を肌で感じることができる






本堂(国宝)
本堂と三重塔は、建造物としては福井県内で唯一国宝に指定されている



正嘉2年(1258)鎌倉時代中期 再建
単層入母屋造 檜皮葺



本尊:木造薬師如来坐像(重要文化財)
   木造降三世明王立像(重要文化財)
   木造深沙大将立像(重要文化財)『西遊記』に登場する「沙悟浄」のモデルとなった






三重塔(国宝)
13基ある国宝の三重塔の一つ
境内の高い場所にそびえ立つ



文永7年(1270年)建立 初層平面方三間(4.18m)総高 22.12m、桧皮葺木造三重塔婆
鎌倉建築を代表する建造物



4・5回訪れているが、午後は逆光で難しいが、午前中だと組み物なども撮ることができる






弁天堂
三重塔と本堂の中間の小高い場所にある






本堂と三重塔



大型バスによる参拝者の姿が見えたので駐車場に戻る



不動明王(重要文化財)
客殿の奥に安置している
明通寺の不動明王は明治時代に火災で焼失し、当時羽賀寺に移されていた旧松林寺の本尊の脇仏であった像を譲り受けたもの



樹齢500年 カヤの巨木(小浜市天然記念物)



撮影 令和6年5月17日
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朝倉山 真禅院(岐阜県不破郡垂井町宮代2006)

2024年07月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月16日
朝倉山 真禅院
真禅院は、近隣にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院
南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた
明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され「朝倉山真禅院」と称するようになった

山門
階段を上がった所に山門が見えてくる



案内板



十王堂(垂井町登録文化財)



雨が強く降る前に重要な場所から先に回ることにした

鐘楼(岐阜県指定文化財)
寛永19年(1642年)9月の債権



梵鐘(重要文化財)
奈良時代後期に奈良の地でつくられた梵鐘16口の一つ
東海地区最古の鐘



無銘だが撞座の位置、龍頭の取り付き方などに古代鐘特有の様式を示す



三重塔(重要文化財)
南宮大社を最初に訪れた時、偶然この三重塔の存在を知った
国宝・重要文化財の塔巡りが旅の目的の一つであったこともあり、その時の感動は今でも思い出す



草創:天平13年(741年)、寛永19年(1642年)の再建
明治初年に南宮神社境内から移築された
小雨が降っていたが、この塔はどのような気象条件でも写真写りがいい感じがする



南宮神社造営文書によると、京都の石材商 久保権兵衛が日本初の請負工事で落成させたという
高さ 25.38m



観音堂(垂井町指定文化財)
神護2年(766年)の草創
江戸時代には「宝珠院」と称し、南宮大社奥之院とも称し美濃中山(現南宮山)の山上近くに建立されていた



本尊:十一面観世音菩薩



撫で仏「賓頭盧尊者像」






本地堂(重要文化財)
伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)行基により創建された「象背山 宮処寺」であるとされる
延暦年間(790年頃)、勅令があり、最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、神宮寺と改称



文亀元年(1501年)、火災で焼失し、永正8年(1511年)、美濃国守護土岐政房により再建
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失
南宮神社の再建は江戸幕府3代将軍徳川家光により実施され、寛永19年(1642年)に落成
これが現存する南宮大社の社殿群である
現存する真禅院の三重塔、本地堂もこれら社殿と一連の造営になるもので、元来は南宮神社境内の南方に建っていた
寛永19年(1642年)9月11日の再建



本尊:無量寿如来(阿弥陀如来)
  <無量寿如来は南宮大社本地仏>



釈迦堂(垂井町登録文化財)



薬師堂(垂井町登録文化財)



雨も止み、再び重要な建造物を回る















撮影 令和6年5月16日
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南宮大社(岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

2024年07月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月16日
南宮大社
美濃国一宮
岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座
「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる
建造物の多くは重要文化財に指定されている

社号標
強い雨が降っていたので駐車場でしばらく待機、小雨になるのを待ち動き出す
午前中なのに夕方のように薄暗い



楼門(重要文化財)
南宮大社は鮮やかな朱塗りが特徴的で、和様と唐様を混用した独特の様式であることから「南宮造」と呼ばれている



楼門の前には「石輪橋」



石輪橋(重要文化財)



左大臣・右大臣(楼門表)






狛犬(楼門裏)






手水舎



手水鉢の花が美しい






高舞殿(重要文化財)
祭事の際に舞や金山大祭での鍛錬式が行われる神聖な場



拝殿(重要文化財)
拝殿左右の「回廊」も重要文化財に指定されている






*本殿回廊内の摂社(左側から順に)
摂社 南大神社本殿(重要文化財)
祭神:火明命(ほあかりのみこと)



摂社 高山社本殿(重要文化財)
祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)



拝殿内部



本殿(重要文化財)
社伝では、10代崇神天皇の時代に創建されたとされる
文亀元年(1501年)社殿や僧房が悉く焼失する火災が起きたが、守護の土岐政房により復興が行われ、永正8年(1511年)に完成
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建
明治元年(1868年)神仏分離により神宮寺が分離移転した(現朝倉山真禅院)



祭神:金山彦命 (かなやまひこのみこと)
鉱山を司どる神で、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている



摂社 樹下社本殿(重要文化財)
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)



摂社 隼人社本殿(重要文化財)
祭神:火須勢理命(ほすせりのみこと)






楼門から本殿までが真っ直ぐに並ぶつくりとなっており楼門から日の出を見ることができる



社務所



絵馬掛
ネーミングが面白い(近くに関ヶ原古戦場がある)






神輿舎(重要文化財)



大絵馬






撮影 令和6年5月16日
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伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1)

2024年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月16日
伊富岐神社
尾張国二宮ということで訪れた
口コミによるとかなり道が狭いという
私の車はハイエースのロングでワイドの車種のため覚悟はしていたが右左折ができずかなり苦労した
途中、諦めようかとも思ったが訪れて良かった



太鼓橋
神社周辺は森と田んぼに囲まれている



太鼓橋から見える景色が美しい



手水舎



今にも雨が降ってきそうな空模様だ



狛犬1






拝殿
創建時期は不明だが、和銅6年(713年)には存在したという



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで社殿は焼失
寛永13年(1636年)に再建された



唐破風屋根の彫刻






鏡のような形をしたものが飾られていた(何だろう)



狛犬2









右に移動し社殿を眺める



本殿
伊富岐神社の祭神ははっきりしていない
古代、この地域に勢力があった伊福氏の祖神を祀っているという
伊吹山を背後に鎮座している



祭神:多多美彦命(たたみひこのみこと)
<夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう>伊吹山の神



伊富岐神社の大杉(岐阜県指定天然記念物)



大杉がご神体を護ったなど、あまり聞かない話だ






社務所か?



独特の空気感が漂い印象に残る神社である



撮影 令和6年5月16日
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日吉神社(岐阜県安八郡神戸町大字神戸1)

2024年07月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月15日
日吉神社
重要文化財の三重塔見たさに、これまで数回訪れている

惣門
額には「日吉新宮」






社務所



参道の正面に神輿殿が見えてくる



手水舎



牛石



産石



狛犬1






大物忌神社



竃殿神社



三重塔(重要文化財)
訪れた目的はこの三重塔
青空を背景に撮りたいと思っていたが今回も駄目であった



相輪頂上までの高さ 24.6m
室町時代後期(1467年 - 1572年)の建立






火祭りの庭(神輿石)
岐阜県重要無形文化財「神戸山王まつり」を表現している
七社の神輿を担ぎ琵琶湖を模した庄九郎川を渡御、神輿を7個の巨石で表現

「宇佐の宮」



「牛尾の宮」



「樹下の宮」



「大宮」



「二の宮」



「客人の宮」



「三の宮」



石舞台の庭
日吉大社の発祥は、神体山・牛尾山の山頂にある磐座
この庭の巨石は磐座と磐境を表現している






神輿殿



「日吉山王まつり」の7基の神輿がここに並ぶという



猿の彫刻



額には「日吉新宮」



招魂社
神戸町および大野町本庄の明治、大正、昭和の戦病死軍人四百十余柱



由緒
弘仁8年(817年)伝教大師 最澄が東国へ天台宗の布教に東山道を通った折、神戸の地に立ち寄った
大師は影向山神護寺善学院を建て、近江坂本・日吉神の「四柱の神」を勧請、日吉信仰の社を創建
その後、40余年を経た貞観3年(861年)大師の弟子の慈覚大師 円仁が伝教大師の足跡を慕って神戸の地に寄り「三柱の神」を勧請
伝教大師が四柱、慈覚大師が三柱、合わせて七柱の神々が勧請されて祀られ、今日まで山王七社として奉幣されてきた
当時は神仏は一体であるという神仏習合説がとられたが、明治時代を迎え神仏分離令が出されるまで、善学院が神社の別当寺として運営に携わってきた

三宮
祭神:鴨玉依姫大神 荒魂(かもたまよりひめのおおかみ あらみたま)



牛尾宮
祭神:大山昨大神 荒魂(おおやまくいのおおかみ あらみたま)



正面に並ぶ社



二宮
祭神:大山昨大神(おおやまくいのおおかみ)



宇佐宮
祭神:湍津姫大神(たきつひめのおおかみ)



大宮(岐阜県指定文化財)
祭神:大己貴大神(おおなむちのおおかみ)



狛犬2
左足に天正五…の文字が見える
およそ450年前の1577年になる



右足に「不破河内守光治造立」と刻まれている






客人宮
祭神:白山姫大神(しらやまひめのおおかみ)



樹下宮
祭神:鴨玉依姫大神(かもたまよりひめのおおかみ)




早尾神社



神明神社・多度神社



収蔵庫



境内図



年齢的にも、今回が最後になるかも知れないと思い訪れた



撮影 令和6年5月15日
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千代保稲荷神社(岐阜県海津市平田町三郷1980)

2024年06月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月15日
千代保稲荷神社(ちよほいなりじんじゃ)
この日の朝、訪問地の検討をしている際、年間250万人の参拝者がある神社が近くにあることを知り訪れた

東口大鳥居
車で移動していると賑わっている場所とは思えなかったが、駐車場の数を見て納得
早い時間帯ということもあり、無料駐車場を利用できたが数分後には満車になっていた
門前町には約150店が軒を連ねる
特に串カツとどて串は有名でいい匂いが漂い食欲をそそる



社号標
参道を進むと右手に社号標と鳥居が見えてきた



手水舎



稲荷神社だけに狐が迎えてくれる






燈明場



拝殿
年間250万人の参拝者ということは1日平均8,000人弱になる
想像していたより小規模な境内に驚いた



もう一つ驚いたのが供え物台に置かれた「油揚げ」
賽銭代わりとなっているのか、賽銭箱が奥の方に置かれている



これまで稲荷神社では油揚げは何度か目にしているが、午前中の早い時間でこの数というのには驚く
山盛りになっている光景を見てみたいものだ



霊殿
保食神(うけもちのかみ)を祀る



古い眷属像(けんぞくぞう:神の使いであるキツネの像)などを納めている



拝殿右に移動する
参拝は一方通行になって混雑を防いでいる



「重軽石」






古堂
かつての本殿の一部を保存し、源氏の御霊を祀る多田神社の御札を納めている



本殿
創建は平安時代
源八幡太郎義家の六男の義隆が分家する際、森の姓をもらいうけた
義家より「先祖の御霊を千代に保て」と祖神と共に宝剣と義家の肖像画を受け賜わったのが始まりと伝えられる



社名は「千代に保て」の言葉に由来
現在では、「おちょぼさん」の愛称で親しまれている
古伝により、御札や御守の授与、また朱印帳の記帳をしていない



祭神:大祖大神(おおみおやのおおかみ)
   稲荷大神(いなりおおかみ)
   祖神(みおやのかみ)



社務所



精霊殿
昭和期の信者の御霊(約百二十柱)を祀る
ここで驚いたのは参拝者が屋根に賽銭を投げているのだ
パラパラという乾いた音が響き、下に置かれている賽銭箱に落ちていくという仕組みになっている



参拝者の投げ銭をしている姿が面白く、しばらく眺めていた



この鳥居が出口となる



「千代保稲荷神社御神徳」と書かれた幟がまとめて置かれていた



撮影 令和6年5月15日
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真清田神社(愛知県一宮市真清田1-2-1)

2024年06月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月14日
真清田神社(ますみだじんじゃ)
尾張国一宮ということで訪れた
地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来する

社号標



鳥居を過ぎると太鼓橋、楼門が視界に入ってくる



太鼓橋



楼門



扁額には「真清田大神」
伝聖武天皇ご宸筆の旧額を模して、人間国宝「平櫛田中」氏が彫刻を施した
かつて「真清田大名神」「真清田大明神」「一宮真清田大神」「一宮大明神」と称された社名も、明治に現在の「真清田神社」に統一された



境内にある「大絵馬」



一宮市の中心部に鎮座している
鳥居の向こうには商店街のアーケードが見える



楼門の門扉にある「社紋」の『竹ノ輪に九枚笹』



手水舎
吐水龍は、寛永8年(1631)初代尾張藩主徳川義直奉納によるもの(現在はレプリカ)



神水舎
大型バスによる参拝者で賑わっていた場所



明治11年10月25日、明治天皇が一宮を巡幸されご昼餐の際、この井戸水を御膳水として陛下に奉られたという
後ろに並んでいる人がいたため、写真だけは撮ってみたが
「御鏡に心を写し 姿を正しましょう」との記載があることも鏡の存在も当時は知らなかった



「水面に顔が映るまでのぞき込んで下さい」との記載があったが体が硬く腰痛もあり見ることができなかった
御霊水と井戸信仰による「無病息災」というご利益には縁が無かった






拝殿
大型バスによる参拝者が戻りかけたので拝殿に向かう



社殿は第二次世界大戦中の一宮空襲で焼失したため、現在見られるものは戦後の再建である



拝殿内部



本殿内陣中陣の扉や柱桁などは、伊勢の神宮から下賜された古材を使用している



本殿(国登録有形文化財)
祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説がある



摂社 服織神社(はとりじんじゃ)
一宮七夕まつりにミス七夕・ミス織物が参列し御衣奉献祭が斎行される



拝殿



「紅い糸むすび」



果たして「恋の願い」が叶ったのか



初めて訪れる神社で、何があるのか周辺を歩いてみる
厳島社と八龍神社の石柱がある



「開運橋」の先に社が見えてくる



末社 厳島社



末社 八龍神社






桃丘亭
表千家13世家元即中斎好みの茶室



神馬



真清田神社は、尾張の国で最初に参拝する「一の宮」
一宮市の名前もそのことから付けられ、真清田神社を中心として発達してきた



祀られている神様は、伊勢神宮に祀られている神様の孫にあたる



次から次へと参拝者がやってくる
地域に根ざしている神社だということがよく分かる



撮影 令和6年5月14日
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徳興山 崇仁院 建中寺(愛知県名古屋市東区筒井1丁目7-57)

2024年06月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月14日
徳興山 崇仁院 建中寺
浄土宗寺院
尾張徳川家代々の菩提寺
慶安4年(1651年)に第2代尾張藩主徳川光友が、父である初代藩主徳川義直の菩提を弔う為に建立した

総門(名古屋市指定文化財・都市景観重要建築物)
慶安5年(1652年)建立 三間薬医門、両脇に築地塀が付く
建中寺公園の南側にあり、帰り際に偶然「総門」の姿が視界に入ってきた



戦後の区画整理により、塔頭の宗心院と誓安院が移転し、それらがあった場所に建中寺公園が造成された
総門と三門の間に建中寺公園があり憩いの場所となっている



寺号標には「徳興山 崇仁院 建中寺」



三門(名古屋市指定文化財・都市景観重要建築物)
慶安5年(1652年)建立
総檜造りの三間一戸二重門、入母屋造



上層には「釈迦如来坐像」「十六羅漢像」が安置



門扉には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」



手水舎



初めて訪れる寺院なので、左側から順に撮り忘れの無いように歩く

明王殿(不動堂)
1969年(昭和44年)再建



額には「不動尊」



堂内の様子



地蔵堂






開山堂(名古屋市指定文化財)
天明6年(1786年)再建 寄棟造



本尊阿弥陀如来を中心として建中寺の開山上人中興上人の木像を安置
代々の住職の位牌が祀られている



「石碑」高節千古 既白陳先生碑



「石仏」



頭部にある馬から「馬頭観音」と思われる



「石碑」が並ぶ












本堂(名古屋市指定文化財・都市景観重要建築物)
名古屋市内最大の木造寺院建築物



木造、間口十五間、奥行十四間の入母屋造



天明7年(1787年)大火の後に再建されたもの



扁額には山号の「徳興山」



堂内の様子



内陣の様子



堂内の彫刻












本尊:阿弥陀如来
開山廓呑上人が結城弘経寺から招来された「止利仏師作」と伝えられる



襖絵






経蔵(名古屋市指定文化財)
文政11年(1828年)再建
宝形造、裳階付



大蔵経五千八百巻が納められている



書院(客殿)
1964年(昭和39年)再建



額には「瑞雲閣」か?



鐘楼(名古屋市指定文化財・都市景観重要建築物)
天明7年(1787年)再建
木造、桁行三間、梁間二間の入母屋造、袴腰付



本堂



三門



撮影 令和6年5月14日
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萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根10-1)

2024年04月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月19日

萬固山 天徳寺
曹洞宗の寺院
寛正3年(1462年)当時の佐竹家当主佐竹義人が夫人を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建
佐竹氏の秋田への国替えに伴って秋田に移された



寛永元年(1624年)総門を残して全焼したため、翌年、現在地である秋田郡泉村の泉山に移された
その後、延宝4年(1676年)に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼
9年の月日をかけて再建され、現在に至る



総門(重要文化財)
切妻造瓦葺きの四脚門
延宝4年(1676年)の火災をまぬがれ、現在地に移築された



扁額には山号の「萬固山(まんごさん)」



参道には古い石畳が敷かれ、その両脇には約120本もの松が生い茂っている



天徳寺に向かう途中、予報通り雨が降り出し駐車場で小雨になるまで待機していた
総門には一番楽しみにしていた茅葺屋根の本堂が工事中との案内もあった(落胆)



山門(重要文化財)
宝永6年(1709年)の建立
三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門



久保田藩主(秋田藩主)佐竹家の菩提寺
秋田県知事の佐竹 敬久氏は、佐竹北家の末裔で21代目にあたる



仁王像(秋田市指定文化財)
仁王像のある各寺院で撮っているが、ここもハードルが高い



強い雨で身動きがとれなくなったので工夫してみた
撮っている姿は完全に不審者で他に参拝者がいなくて良かった
過去にその姿を見た警官に職務質問を受けたこともある



桂材の寄木造で高さ3.2m 九代藩主 佐竹義和の命令によって造られ、寛政9年(1797年)に完成
制作者は京都の大仏師・七条左京(台座に墨書)






本堂(重要文化財)
貞享4年(1687年)の建立
入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築
内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁がある
建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属する



平成28年(2016年)に訪れた時、茅葺屋根が美しかったという記憶があり、今回の再訪になった
山門から先は工事のため立入禁止になっていて本堂の様子は分からないが、屋根は新しくなっていた

平成28年(2016年)に訪れた時の天徳寺<過去写真>
萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

久保田藩主佐竹氏の菩提寺であるという雑誌の情報を頼りに訪れた寺である専用駐車場に車を駐め、門を見た瞬間、期待できると思った萬固山天徳寺寛正3年(1462)、佐竹家当主...

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佐竹家霊屋(重要文化財)にも近寄ることはできなかった



小降りだった雨も豪雨に
この先、数日間、東北地方は雨予報ということもあり旅を終え、自宅に戻ることにした



撮影 令和5年10月19日
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