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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

法華山 一乗寺(兵庫県加西市坂本町821-17)

2024年08月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月25日
法華山 一乗寺

寺号標
久し振りに国宝の三重塔を観たいと思い訪れた
何年ぶりかなと調べて見ると平成26年(2014年)10月に訪れていた



境内図



受付所で拝観料を払う
「ありがとうございます。よくお参りくださいました」と気持ちの良い挨拶をされる



石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)
鎌倉時代末期、正和5年(1316年)12月21日造
銘文の奉献先には「金輪聖主」とある



山号の由来
一乗寺を開山した法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物
法道は日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出した
そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという



ここから急な階段が続くが、境内図によると違う道もあるようだ



今回は階段の無い道を選んだ



太子堂



放水池
写真の方が実際の風景より綺麗に見える






緑に囲まれた緩い坂道を進む



途中、階段につながる道もあるが、そのまま進むことにした
(体感的には階段の方が楽な感じもする)



階段の無い道は「本堂裏」につながっている
呼吸を整えながら、本堂裏を歩き、堂宇を確認する



護法堂(重要文化財)
鎌倉後期、1275年~1332年の建立
一間社隅木入春日造、檜皮葺









妙見堂(重要文化財)
室町後期、1467年~1572年の建立
三間社流造、檜皮葺






弁天堂(重要文化財)
妙見堂の左に並んで建つ
室町中期、1393年~1466年の建立
一間社隅木入春日造、檜皮葺






手水舎



本堂<大悲閣・金堂>(重要文化財)
江戸前期、寛永5年(1628年)に姫路藩主本多忠政の援助で再建された
懸造、桁行九間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺、背面閼伽棚附属



瓦葺の屋根の色が気になったので撮ってみた



本堂側面から堂内に入る



扁額には「大悲閣」
初代の本堂(金堂)は白雉元年(650年)孝徳天皇の勅願によって創建
二代目の本堂は建武2年(1335)後醍醐天皇の勅願で再建され大講堂と呼ばれた
三代目の本堂は兵火による焼失後、永禄5年(1562年)守護赤松義裕により建立
四代目の今の本堂は寛永5年(1628年)姫路藩主本多美濃守忠政により建立



堂内 外陣の様子
本尊:聖観音立像(重要文化財)









内陣は撮影禁止だが外陣は大丈夫のようだ



奉納額






格天井の板には江戸時代のものという木札(納め札)がびっしりと打ち付けられていて、綺麗な模様に見える
この木札や紙札を打ち付ける習慣から「札を打ち付ける所」=「札所」という由来になったそうだ






三重塔(国宝)
懸造の本堂欄干から国宝の三重塔を眺める



一乗寺の魅力はこの三重塔を上から下まで任意の高さから拝観できることだ



高さ21.8mの「相輪」を他ではこのように撮ることはできない



鐘楼(兵庫県指定文化財)
本堂と同じく、寛永5年(1628年)姫路藩主本多美濃守忠政により再建






本堂から梵鐘を撮る






三重塔(国宝)
塔を眺めながら階段を下りる



相輪の下部にある半球状の部材の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明
塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きい点が特色である



日差しが強すぎデジカメには負担が大きい









常行堂(阿弥陀堂)
聖武天皇勅願建立
天文22年(1553)再建、明治初年度再々建着手









最後の急階段を慎下り下り、駐車場へ戻る



撮影 令和6年5月25日
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廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)

2024年08月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月25日
廣峯神社(別称:広峯牛頭天王)
奈良時代末、天平5年(733年)吉備真備が中国から帰国した際、広峯山系の白幣山に登臨して牛頭天王の信託を感受し、翌年に廣峯神社の大社殿を造営した



2年前に「斑鳩寺・姫路城・廣峯神社」を訪れる予定でいた
ところが斑鳩寺に車で向かう途中、事故回避のハンドル操作を誤り左側の前後輪のタイヤを破損、自走できなくなりレッカー車で運ばれた
応急処置をしたものの、不安もあり旅を終え自宅に戻った



社号標
廣峯神社のことが気になっていたこともあり訪れることにした
途中、国宝姫路城を横目で見ながら通り過ぎ、姫路競馬場は気持ちは揺れたが我慢し通過、広峰山山頂にある駐車場に着いた



城のような石垣だが、明治の神仏分離令までは天王山増福寺、広嶺山増福寺と称していた
江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の支配下にあった






手水舎



宝篋印塔(重要文化財)






随身門(姫路市指定文化財)









狛犬







社務所






地元の高校からの奉納絵馬



神馬



神木



拝殿(重要文化財)
江戸前期の寛永3年(1626年)の建立
桁行十間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺






拝殿内部






正殿
主祭神:素戔嗚尊・五十猛命



左殿
祭神:奇稲田姫尊・足摩乳命・手摩乳命



右殿
祭神:宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほか



本殿表側(重要文化財)
室町中期、文安元年(1444年)の再建
現在の社殿は長禄3年(1459年)ごろの造営
桁行十一間、梁間三間、一重、入母屋造、正面一間通り庇付、檜皮葺



京都八坂神社(祇園社)の本社ともいわれる神社
神社建築としてはめずらしい大規模な本殿



官兵衛神社
黒田孝高(官兵衛、如水)を祭神とする神社



御神体;黒田職隆廟所より発見された桂化木の一部(福岡市の「大長寺」から寄贈)



地養社(姫路市指定文化財)






蛭子社(姫路市指定文化財)



薬師堂




熊野権現社(姫路市指定文化財)



冠者殿社(姫路市指定文化財)



大鬼社(姫路市指定文化財)



天神社(姫路市指定文化財)



稲荷社(姫路市指定文化財)



庚申社(姫路市指定文化財)



山王権現社(姫路市指定文化財)



九星詣り



自分の生まれた年号(和暦)を確認する



「九星詣り」がここから始まるが、一度進んだ道は戻ることができないので事前に「穴」を確認する



本殿背面(重要文化財)
九つの穴の上には「運命星の額」が掛かっている
*この額の位置は、2月3日から2月4日の深夜に入れ替わる



自分の「運命星の額」を確認



昔は伊勢参りに行く前に無事を祈り、帰ってきたらお礼参りをしたようだ
現在は願い事を穴に向かって3回、小声で神様に伝えるという
私も「三碧木星」の穴に向かって願い事を……まだ、叶っていない



振り返ると、今回の旅でも記憶に残る神社の一つとなった



遠くに姫路市内の街並みが見える



撮影 令和6年5月25日
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斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

2024年08月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
斑鳩寺
三重塔(重要文化財)拝観目的で、何度も訪れ発信しているので今回は写真のみ

仁王像












聖徳太子御二歳尊像



聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)



聖徳殿中殿・後殿(国登録有形文化財)



講堂(太子町指定文化財)






鐘楼(兵庫県指定文化財)



三重塔(重要文化財)









撮影 令和6年5月24日
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大滝山 福生寺(岡山県備前市大内999)

2024年08月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
大滝山 福生寺(ふくしょうじ)
高野山真言宗の寺院
奈良時代創建の寺伝をもつ山陽地方でも有数の古寺
重要文化財の三重塔があることを知り、初めて訪れた
奥深い山にあり、上り坂の途中に山門らしき建物があったが、この場所まで走ってきた



現在、大滝山福生寺は宗教法人格を有せず、
寺は「実相院、西法院、福寿院」の3つの子院によって維持管理されていることを後に知った



鐘堂



本堂(岡山県指定文化財)
元禄14年(1701年)に書かれた縁起によれば、天平勝宝6年(754年)鑑真により創建されたとある



平安時代初期、菅原道真が編纂した『類聚国史』には
「天長5年(828年)6月備前国墾田四町六反為大滝寺田」とあり、法隆寺や唐招提寺と並んで記載されている



平安時代中期の万寿元年(1024年)に大火により焼亡した
その後、足利尊氏の発願により観応年間(1350年 - 1352年)再興されたとある
僧院は33房を数えたが、康正年間(1455年 - 1457年)の赤松氏・山名氏の争いにより山門と三重塔以外は全て戦火により焼亡した



岡山藩2代藩主・池田綱政が大願主となり天和2年(1682年)に再建された
江戸時代、岡山藩主により庇護され明治初期には13房が残っていた
なお、現在の僧院は実相院、西法院、福寿院の3房






経蔵
延享3年(1746年)の建立



内部の輪転式、八角形の書庫は全国希有なものなりとの記載
「一切経」を所蔵している



大師堂(備前市指定文化財)
弘法大師奉安の堂で、毎月21日には一山僧侶総出仕して法楽祈願を捧ぐ



蟇股の彫刻






三重塔(重要文化財)
三重塔拝観を目的で訪れたのだが、周辺を見渡してもその姿が見つからない
他に参拝者というより人の気配が無く、一瞬不安になった



近くの寺らしき建物(上記3房の1つ)を訪ね、場所を確認する
この道が急坂で足元が悪く苦労したが、何とかたどり着くことができた
山の尾根にぽつんと建っている塔は私の経験では初めてだ



寺伝では嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍 足利義教の命によって建立された



塔周辺は狭くて足場も悪く、油断すると崖から落下する恐れもある
塔全体を撮るために、瓦礫が積まれている場所によじ登る



国宝・重要文化財の塔巡りは私の旅の大きな目的の一つ
今回の旅で新たに一つ加わった
写真から塔周辺の狭さと危険さを再認識(汗)






仁王門(岡山県指定文化財)
帰りに山門らしき建物に立ち寄った
嬉しいことに仁王門であった



応永4年(1398年)3代将軍 足利義満により仁王門が建立された



額には山号の「大瀧山」



仁王像
像の前に柵があるため、同じアングルになってしまう






仁王像シリーズに追加できる






撮影 令和6年5月24日
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和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1385)

2024年08月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
和気神社
昨年春に初めて訪れた時、残念ながら社殿の修復工事中
完成したことを確認しての参拝である

石柱には「至誠」「精義」と刻まれている



鳥居1



霞(かすみ)橋
日笠川に架かる橋で「俗界と聖界の境にある橋」とされる



境内図



清麻呂公銅像
高さ4.63mの青銅製で、故 朝倉文夫氏の作品
昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して和気町に寄贈された



和気清麻呂といえば何と言っても「道鏡事件」だが……
女優・気象予報士の「半井小絵」さんが子孫であることにも興味を持っている



日本一の大絵馬






参道を進む



狛いのしし1
全国的にも珍しい狛犬がわりに「狛いのしし」



猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされることから、清麻呂の守護とされてきたことに由来する






鳥居2



随身門



本殿、拝殿に続き、明治28年(1895年)に造営された



随身像









和気清麻呂と道鏡事件
僧道鏡が、女帝の「称徳天皇」から特別深い寵愛を得て、太政大臣に次いで法王となり、最後には天皇の位を望むようになった
そこへ、九州大宰府の主神「習宜阿曽麻呂」が朝廷に「道鏡が天皇の位につけば天下は太平となる」という宇佐八幡の神託をもたらした
天皇は驚き、神意を確かめるために和気清麻呂を使いとした

宇佐に到着し、神前に額ずく清麻呂にもたらされた神託は
「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」
宇佐から帰京した清麻呂公は堂々と、この神託を言上したのである

当時の大部分の人が道鏡への譲位に疑問をもっていたにも関わらず、左大臣以下だれも声にあげて反対することができなかった
これに対し命をかけて抗議したのが清麻呂ただ一人だった



これにより、清麻呂は大隈国(現鹿児島県)に流罪となる
大隈国に流される途中、道鏡により放たれる刺客などに襲われるが、天変奇異に助けられ、また神の使いか「猪」に守護されながら、無事大隈国へと到着
2年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚
清麻呂は許され、都に帰り本性本位に復する

*「古事談」の最初に「称徳天皇が道鏡を愛した事」に驚くような記載がある(内容は18禁)



祓所






三福かえる
「宝かえる・無事かえる・若かえる」



和気清麻呂像



和気広虫姫像
和気清麻呂の姉
宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させた
神託の結果が道鏡及び天皇の意に反していたことから還俗させられた
和気広虫は、孤児の養育に励んだことが伝えられている



鶴亀石






手水舎



社務所



拝殿
現存の社殿は、明治18年(1885年)より順次建て替えられている
邑久大工の田淵耘煙斎勝義の手によるもので、本殿・幣殿・釣殿・拝殿・随神門が一連の作となっている






拝殿内部



狛いのしし2






撫で猪






稲荷神社



天神社(天満宮)



「名付け石」



天神社裏側に奉納



本殿(和気町指定文化財)
明治18年(1885年)造営



大型の屋根と「千鳥破風・軒唐破風」が見事に調和している



細部の彫刻も美しい






大神宮



猿田彦神社



絵馬殿



奉納額
















撮影 令和6年5月24日
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真木山 般若院 長福寺(岡山県美作市真神414)

2024年08月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
真木山 般若院 長福寺
真言宗御室派の寺院
2年前に重要文化財の三重塔を拝観するために訪れたことがある



天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという
寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった






鐘楼門



梵鐘



本堂
弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した
再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった
天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、明徳年間(1390年 – 1393年)に真言宗の寺院になった
本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財ー伝 行基作)









宝蔵庫
木造十一面観音立像、絹本著色十二天像図、絹本著色両界曼荼羅図、絹本著色動明王像図などの重要文化財を所蔵



本堂側から三重塔を眺める



三重塔(重要文化財)
棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立された
岡山県最古の木造塔建築物だという



昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された
昭和55年(1980年)保存修理が完了



「うまく撮れますか」と塔の近くに住むという男性に声を掛けられた
幼い頃、祖父から、真木山上から解体された木材を手で運んだということを聞かされていたそうだ
平成27年6月、杮葺きの屋根が葺き替えられた際には、近くで進捗状況をスマホで撮り、記録していたと話してくれた



この三重塔は夕陽を背景に撮るといいそうだ
その後は、近くにある温泉に入ると最高の一日になるという
地元愛に溢れる男性との会話は弾み、楽しい時間となった









真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現
昭和3年(1928年)に長福寺は山上から現在の地に移転した



山上に残されていた三重塔、真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現なども
昭和26年(1951年)に現在地に解体移築された



撮影 令和6年5月24日
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中山神社(岡山県津山市一宮695)

2024年08月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月23日
中山神社(別名:仲山大明神・南宮)
美作国一宮と本殿が重要文化財ということで楽しみにしていた
鳥居と駐車場が近づくにつれ、記憶が蘇った(訪れたことがあると)

鳥居(中山鳥居)
額には社号の「中山神社」
社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた
寛政3年(1791)の建設。高さ8.5m、幅は7m弱、花崗岩製で柱は2分割、笠木は3分割されている
角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している
このような形は他県にあまり例がなく、特に中山鳥居として一形式をつくっている



調べて見ると2年前に訪れている
記憶力に自信がなくなっているので帰宅後訪問地を記録しているのだが……



2年前の写真を見ると、小牛の位置が今と違っていた



老人の旅人の心に響く言葉だ



狛犬1






手水舎



狛犬2
奥宮には『今昔物語』にも出てくる猿神社があるという
この狛犬だが猿という説もあるようだ






神門(津山市指定重要文化財)



同日の数時間前に訪れた、津山城二の丸にあった「四脚薬医門」を明治初頭に移築したもの



神楽殿






惣神殿(津山市指定重要文化財)
江戸時代、寛保元年(1741年)の造営



祭神:山上山下120社



中門より中に入る



中門



拝殿・幣殿(国登録有形文化財)



大正11年(1922年)本殿大修理にあわせて建てられた



岡山県建築技師の江川三郎八の設計による
彫り物の無い木鼻や2本で1組の垂木(吹寄垂木)が使用されている



本殿(重要文化財)
天文2年(1533年)尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失
美作平定後の永禄2年(1559年)、尼子晴久自身によって再建された



主祭神:鏡作神(かがみつくりのかみ)
   *古事記、日本書紀はおろか、どこの風土記にも出てこない謎の神様
相殿神:天糠戸神(あめのぬかどのかみ)・石凝姥神(いしこりどめのかみ)    



桃太郎物語の鬼のモデルとされてる「温羅(うら)」は鏡作りの高い技術を持っていた
吉備中山から勧請されたと書き残っている中山神社で、祀ってある神は温羅だという説がある
裏返しの語源も「温羅(うら)」で、裏切りの語源も「温羅」
温羅方の有力者が吉備津彦に味方し、温羅を闇討ちに切り殺したことで吉備津彦が勝利したことから、
信義を無視して敵に味方することを裏切りと言うようになったという



個性ある狛犬を撮り、駐車場に戻る






撮影 令和6年5月23日
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美作総社宮(岡山県津山市総社427)

2024年08月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月23日
美作総社宮(正式名称:総社)
カーナビでは案内された場所には何も無く、Googleナビでは不安になるような狭い道を案内された
何とか社殿の傍にある駐車スペースに駐めることができた

参道
遠くに鳥居が見えるので、こちらが参道になる
本殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社で駐車場を含め、何処に何があるのか全く分かっていない



手水舎



拝殿
「総社」という名の神社にはこれまで訪れたことがない
調べて見ると、古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた
これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになった



当社はそのうちの美作国の総社にあたる
「中山神社・高野神社」と並ぶ美作三社の1つであり、美作65郷912社を合祀している



本殿(重要文化財)
社伝によれば、創建は、欽明天皇25年(564年)に現在地より約1km西にある本館に大己貴命を祀ったのが始まりという



奈良時代初期の和銅6年(713年)に備前国北部6郡を分割し美作国が設けられ、和銅7年(714年)には国府が置かれたと伝える



額には最初の二文字ははっきりしないが「一位総社大明神」と読める



主祭神:大巳貴命(おおなむちのみこと)=大国主命
相殿神:中山神社(美作国一宮)祭神:鏡作命 (かがみつくりのみこと)
    高野神社(美作国二宮)祭神:鵜茅葺不合命 (うがやふきあえずのみこと)
    美作国内の神



本殿は、戦国時代の永禄5年(1562年)毛利元就が戦勝の記念として再建
江戸時代前期の明暦3年(1657年)に津山藩主森長継により大改修が行われた



御崎神社



荒神社



稲荷神社



天満宮



社殿の造りは、入母屋妻入りで向拝に千鳥破風を配した「中山造」という独特な様式を持つ
規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代の優れた建造物
全国の総社の内で当社のみが大正3年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている



拝殿側面






撮影 令和6年5月23日
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瑞塔山 雲樹寺(島根県安来市清井町281)

2024年08月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月22日
瑞塔山 雲樹寺
この日は、予定していた松江城と神魂神社に加え、八重垣神社と巡り道の駅に向かおうとしていた
走行途中に「雲樹寺」の案内板が目に入り立ち寄ることにした

手水舎
この寺は今回で4回目になる
駐車場から入ると手水舎に出る



手水舎の蛇口として、龍の口や竜頭が使われていることを多く見かける
龍が水を司る神様として崇められていたことに由来する



仏殿の方を見るといつもと何かが違っている



仏殿に向かう途中にある石仏
「第二七番 中国観音 雲樹寺」とある



貼られている紙には「南無地蔵菩薩」
斜めになっている台座には「おかげさま」と彫られている



こちらの台座には「南無観世音菩薩」と
観音様に手を上げて迎えられているような感じがいい



仏殿
遠くから仏殿を見て違和感があったのは、これまで固く閉じられていた扉が開いていることだった



「辰年限定 仏殿開放」とは年男の私としてはとても嬉しい



本尊:拈華微笑仏(ねんげみしょうぶつ)
拈華微笑とは、釈迦が説法の際に花をひねって弟子に示したところ、弟子の迦葉(かしょう)だけがその意を悟って微笑で応えたという故事に由来する仏語
言葉を使わずとも真意を悟るさまをいい、禅宗では、以心伝心で法を体得する妙を示すときの語としても用いられる



歴史を少し
元亨2年(1322年)、弧峰覚明(こほうかくみょう)禅師が開山
臨済宗妙心寺派の古刹で、後醍醐・後村上両朝の勅願寺
元弘の役で伯耆に行幸した後醍醐天皇は、船上山に師を招いて戒を受け、国済国師の号と「天長雲樹興聖禅寺」の頼願を下賜した
文政3年(1820年)不慮の天災で堂塔のほとんどが焼失したが、大門、山門、薬師堂、庭園は難を逃れた
江戸末期より仏殿、方丈、開山堂を再建し、往時の姿を取り戻している



天井画
仏殿の天井を見上げると見事な龍の天井画
「第三十七世 晋山記念 岩崎八郎筆」と読める



「晋山記念」とは、新たに任命された住職が正式に就任する儀式である晋山式に関連する記念品のこと
競馬の「シンザン記念」は熟知しているのだが……









広瀬宇波の和鐘(重要美術品)






薬師堂



山門
雲樹寺の正式な入り口
門扉が無いのは広く人々を受け入れるため



重要文化財の「門」があるということで訪れたのが最初で、この山門がそうだと思っていた
自宅に戻り調べているうちに間違いだということに気づいた



四脚門(重要文化財)
二度目に訪れた時に重要文化財の四脚門を探し、離れた場所で見つけることができた






開創当時の700年前からの門構えと知るとその価値が理解できる






山門に続いていく参道も市の文化財で「浮き道」と言われ、両側に水路を作り水に浮いた道のように見える



撮影 令和6年5月22日
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八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

2024年07月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月22日
八重垣神社(旧称:佐久佐神社)
憧れていた神魂神社参拝後の予定については全く考えていなかった
スマホで最寄りの有名寺社と検索すると、徒歩2km圏内に八重垣神社があった
昨年、この神社を初めて訪れたのだが、神魂神社が近くにあるとは思わなかった

八重垣神社の夫婦椿(連理玉椿)
その昔稲田姫命が2本の椿の枝を立て、それが芽を出し一身同体になったと伝えられた夫婦椿
東京資生堂の花椿会の由来とされている



鳥居
額には社号の「八重垣神社」
日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である



手水舎



随身像
神社境内の神門に置かれ、神社を警護するものとして造られた像






神門の先に拝殿が見える



狛犬
歴史を感じる狛犬



製作年代は不明
この地方の「出雲構え型」とも異なる容姿で、来待石を使った狛犬



由来記
素盞嗚尊と櫛稲田姫の故事から縁結びの神社として信仰を集める



拝殿
素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた
そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた
老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった



素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた
老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった
そして残った奇稲田姫ももうじき食べられてしまうので、悲しくて泣いていたのだという



素戔嗚尊は、「八岐大蛇を退治する代わりに奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た
老夫婦は喜んでその申し出を承諾した。すると素戔嗚尊は奇稲田姫の体に触れ、たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった
素戔嗚尊は湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った



時が過ぎ八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。
松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。
大蛇は酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった。
そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。
尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。
これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である

本殿
祭神:素盞嗚尊、櫛稲田姫



本殿背面






参集殿



伊勢宮
祭神:天照大御神



脚摩乳神社
祭神:脚摩乳命(稲田姫命の父親)






手摩乳神社
祭神:手摩乳命(稲田姫命の母親)



貴布禰神社
祭神:高靇命



石碑
素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後
「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」
と詠んで櫛稲田姫との住居を構えた



松尾芭蕉の句碑
「和歌の跡とふや出雲の八重霞」



社日社
社日とは春分及び秋分に最も近い戊(つちのえ)の日



山神神社
祭神:大山祇命



宝物収蔵庫
重要文化財の「板絵著色神像(本殿板壁画)3面」が収蔵されている



奥の院へ
奥の院 佐久佐女の森 入口



鏡の池
素盞嗚尊が八岐大蛇を御退治する際、稲田姫を難から救った場所
森の大杉の周囲に「八重垣」を造り、稲田姫を隠した



天鏡神社
祭神:稲田姫命



稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるため、八重垣に隠れた時に飲料水とし、また姿を写した池と伝えられている






「鏡の池の縁占い」
近くに若いカップルが、池に占い用紙を浮かべていた
早く沈めば縁が早く、遅く沈むと縁が遅く、近くで沈むと身近な人、遠くで沈むと遠方の人とご縁があると伝えられている
硬貨を乗せた紙は遠くへ流されていく
そこで女性が放った言葉が「今度はどんな人と出逢うのだろう」



現代の「稲田姫」は頼もしい(笑)






撮影 令和6年5月22日
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神魂神社(島根県松江市大庭町563)

2024年07月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月22日
神魂神社(かもすじんじゃ)
国宝の社殿があるということで、何度も訪れてみたいと思っていた
ところが島根県には出雲大社を含め、魅力的な場所が多く、いつも忘れてしまう
今回は砂の美術館、松江城に加え神魂神社の3カ所は必ず訪問すると心に決めていた

二の鳥居
鳥居横にある駐車場で休憩と昼食を摂りながら参拝者の様子を見ていた
ハイキングの服装の人も多く険しい参道なのかと不安になった



社号の刻まれた石碑を通り参道を歩く



手水鉢



「女坂(まわり道)」という案内板があったが、今日は男らしくいくことにした



石段はあるものの数十段先に社殿の姿が見えていたことが強気になった理由だ



拝殿
歴史を感じる無骨な石段を上ると拝殿が見えてくる



出雲大社近傍にある意宇六社(熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社)の一つ



拝殿内部






額のようなものだが文字は無い
濃淡を強調してみると動物のようにも見える(出雲なので兎か?)






社殿全景



本殿(国宝)
本殿は国宝に指定され、心御柱古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘がある
柱古材は、正平元年(1346年)の柱と考えられる



社殿は落雷により消失したため、現在の社殿は天正11年(1583年)に古式に則って再建されたもの
室町時代の造営形態を引き継ぐ神魂神社本殿は、出雲国にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である



出雲大社本殿に類似するが、規模は小さく広さは約5.5 メートル四方、切妻造り
屋根は栃葺き、3本の鰹木と「女千木」と呼ばれる内削ぎの千木が乗る



国宝の社殿を間近で観ることなどあまり経験できないが、ここでは屋根の構造などを確認することができる






社務所



御釜宮
天穂日命が、高天原から御釜に乗って大庭の里に現れたという伝説により、御釜神事が行われる



右から「熊野社、伊勢社、杵築社」



熊野社



伊勢社



杵築社



本殿背面に移動する



殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)



9本の宇豆柱



貴布祢稲荷両神社(重要文化財)
右側が「貴布祢社」祭神:闇龗神
左側が「稲荷社」祭神:倉稲魂神



狛犬












外山社



荒神社



これは何だろう



先へ進むと磐穴がある



磐穴内部



右から「蛭子社、武勇社」



蛭子社



武勇社



国宝と重要文化財



主祭神:伊弉冊大神(いざなみのおおおかみ)
配祀神:伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)






社殿を後にする



参道を歩き駐車場に戻る



撮影 令和6年5月22日
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美保神社(島根県松江市美保関町美保関 608番地)

2024年07月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
美保神社
創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された「出雲国風土記」の神社台帳に記載される古社である
近世頃から「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、参拝者が増えるようになった
出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される

鳥居
これまで二度訪れているが、鳥居の周辺は参拝者が多くこのように全体を撮ることができなかった



社号標と鳥居
石造りの鳥居を良く見ると、上下二つに分かれている



狛犬






手水舎



祓所(はらえじょ)



社務所



神門(随身門)



<神門廻廊内>
大鼕(おおどう)
国指定 重要有形民俗文化財「美保神社奉納鳴物」内の一点









御霊石(おたまいし)



巫女が拝殿に向かい歩いて行く



祈祷者の前での古式豊かな舞い



宮御前社



社殿
拝殿は昭和3年(1928年)の建築で新しいものだが、本殿は大社造りを二棟並べて装束の間でつないだ建築



本殿(重要文化財)
現在の本殿は寛政12年(1800年)の火災の後、文化10年(1813年)に再建されたもの
大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で「美保造」または「比翼大社造」といわれている



祭神:三穂津姫命(みほつひめのみこと)
大国主神の后神。高天原から稲穂を持って降り、人々に食糧として配り広められた神様
美保という地名は、この神の御名に縁があると伝えられている



写真左 祭神:三穂津姫命
写真右 祭神:事代主大神



若宮社






祭神:事代主神(ことしろぬしのかみ)
大国主神の第一の子神。鯛を手にする福徳円満の神えびす様として世に知られ信仰されている
また、出雲神話・国譲りの段において父神・大国主神より大変重要な判断を委ねられた尊い神様






美保神社の絵馬
大漁や海上安全を祈願する絵馬も釣り竿をイメージされている



数年前にテレビ番組で美保神社の「氏子の祭祀組織」について放映されていた
役前(やくまえ)についてである
役前とは、頭人・両當屋・客人當・両休番の6人のことをいう



1年間(頭人は客人當から始まり4年間)毎日欠かすことなく、子の刻(真夜中)に潮掻(しおかき、海に入って心身を清めること)をして美保神社本社や頭人宮・末社等に参拝する
参拝途中に他人と出会えば「穢れた」として再度潮掻からやり直すというもの
これを日参(にっさん)という



役前の6人は日参時に紋付き羽織、下駄を着用して港内を行き来し参拝する
カランコロンという下駄の音が聞こえてきた時は、地元の方は、役前に出会わないように注意を払うという



このほか
・泊付きの出張で日参できなかった日は次の日に二度参り
・食事は1人で神棚の下で専用の膳・箸を使い鶏肉・鶏卵を食べない
・夫婦別床
・仏壇を閉じ、死穢等の一切を避ける
この外にも多くのしきたりを守りながら日々精進潔斎し、神事を奉仕するための準備をするという



青石畳の通り(未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選)
美保神社から仏谷寺に至る石畳の通りは江戸時代の参拝道の遺構
敷設されたのは文化年間から弘化年間(1804~1847年)の江戸時代後期



撮影 令和6年5月21日
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龍海山 三明院 佛谷寺(島根県松江市美保関町美保関530)

2024年07月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
龍海山 三明院 佛谷寺
佛谷寺は、約1200年前に創建された(出雲市の鰐淵寺に次ぐ)山陰第二の古刹である
開基は行基菩薩
後に弘法大師により真言宗となったが、永正12年(1516年)に知恩院の僧 順慶により浄土宗となっている

山門
美保関にある美保神社を訪れた二度目にこの寺の存在を知った






個人的にこの寺には3つの魅力を感じている
<魅力その1> 後鳥羽上皇・後醍醐天皇行在所跡
この寺は、後鳥羽上皇は承久3年(1221年)の「承久の乱」で
後醍醐天皇は元弘2年(1331年)の「元弘の乱」で行在所(あんざいしょ)として隠岐に配流された



本堂
後鳥羽上皇は、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、暦仁2年(1239年)に同地で崩御した



鎌倉時代最末期、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で全国的内乱が起こった
後醍醐天皇側近「後の三房」の一人吉田定房が六波羅探題へ計画を密告
後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延びた
後醍醐天皇は退位を強制され、隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流された



扁額には山号の「龍海山」



日本海の荒波が収まるのをこの場所で待っていたことになる
元弘2年(1332年)楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し
さらに翌元弘3年(1333年)には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した



堂内の様子



本尊:阿弥陀如来



仏像の撮影は許可されている






聖徳太子像



<魅力その2> 国の重要文化財仏像5軀
大日堂(宝物殿)
重要文化財拝観料 300円






この寺の魅力の2つ目は5軀の重要文化財仏像を有しているということ
さらに、写真撮影ができ、その存在を発信できるということだ



薬師如来(重要文化財)
海に3つの怪火が現れ、波風が荒れ狂った。人々はこれを三火(みほ)と呼び恐れていた
そこに東大寺建立に尽力した僧行基が訪れ、三火を封じるために仏像を彫り一堂を建立した
5体の仏像はまさにその像であり、天平様式を残す貞観時代の作と確認され、山陰最古の木仏像、国指定重要文化財となっている






日光菩薩(重要文化財)






月光菩薩(重要文化財)









虚空蔵菩薩(重要文化財)






聖観世音菩薩(重要文化財)









阿弥陀如来



毘沙門天






<魅力その3>八百屋お七の恋人 小姓「吉三」の墓
八百屋お七は、 江戸本郷の八百屋の娘で、天和2年(1683年)12月の大火により家が焼け、円乗寺での避難中に寺小姓吉三と恋仲になった
お七は、再建して戻った後、吉三会いたさに放火をし、火あぶりの刑に処された



その後、吉三は発心し「西運」と称し江戸より西に向かい巡礼の旅に出、各地の名刹にお七の遺品を納め地蔵を立て佛谷寺に至った



元文2年(1737年)10月4日、70歳で生涯を閉じた
寺に残っている過去帳には「門の横に葬る」と記されている



井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになった
命日には、吉三の墓前でお参りが行われているとのこと



撮影 令和6年5月21日
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名和神社(鳥取県西伯郡大山町名和556)

2024年07月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月21日
名和神社
後醍醐天皇を隠岐の島から迎え、一族郎党を率いて船上山に立てこもり、
王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年をはじめ、一族郎党42人の英魂を祀る



元弘3年(1333年)名和長年は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け
天皇を船上山(せんじょうさん)に迎え鎌倉幕府を破った
後醍醐天皇は天皇親政を復活(建武の新政)、名和長年はこの新政権で重用された



鳥居
額には「名和神社」
この日の朝の予定には訪問先の候補にもなかった神社であったが、
目的地の「佛谷寺(松江市美保関町美保関)」との関連性を知っていたため急遽立ち寄ることにした



二本の石柱には「義勇」「奉公」の二文字が刻まれている



手水舎



拝殿
参拝者は私一人だったが、結婚式の前撮りで新郎新婦とその家族にカメラマンが境内を占有していた



拝殿内部



歴史を少し
承応・明暦の頃(1652年 - 1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる
延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が名和長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座
山王権現を末社として「氏殿権現」と称した
明治11年(1878年)1月、氏殿神社の社号を名和神社に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定し、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた



祭神:名和長年



現在の社殿は昭和10年に完成、明治神宮を造営した「角南 隆」が手がけた






寺社巡りをしていると時折、結婚式や成人式の前撮りに遭遇する
美男美女の若いカップルで晴れやかな気持ちになった






この鳥居の先に、執権北条氏によって後醍醐天皇が流された隠岐島がある



撮影: 令和6年5月21日
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白兎神社(鳥取県鳥取市白兎603番地)

2024年07月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月20日
白兎神社(はくと じんじゃ)
私の旅ではよく利用する「道の駅 神話の里·白うさぎ」で島根県へ向かう途中休憩していた
白兎神社は数回訪れているし、今回は訪問予定はなかったのだが……



大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから縁結びの神として信仰される
神話「因幡の白うさぎ砂像」も過去に展示されていたものと比較すると今風になっている



緩やかな坂道の参道



白兎神社社叢(国天然記念物)
白兎海岸沿いの小丘上に位置し、海岸の南側に位置するため、海風を受けて樹幹や枝張りが南側に傾いて発達したシイ林が見られる






参道の左右に置かれているウサギ
それぞれ違ったポーズをとり、参拝者の目を楽しませてくれる



手水舎



ここにもウサギの置物があり、下部より水が流れている



御身洗池(みたらしいけ)
御身洗池は旱天・豪雨のときでも水位の増減がないとされ「不増不減の池」とも呼ばれている



古事記の中で、白兎神が傷口を洗ったという池、「水門」(みなと)である






狛犬






拝殿
白兎神社は、日本最古の書物「古事記」の一節である神話「因幡の白兎」に登場する白兎神が祀られる事から、日本医療発祥、
また大国主命と八上姫との縁を取りもたれた日本最古の恋物語の地として知られている



注連縄は、出雲神社の注連縄と同じ「飯南町しめ縄クラブ」よって制作され、平成26年12月20日に奉納された



拝殿内の様子



お神籤掛け



本殿
祭神:白兔神(白兔神は『古事記』掲載の日本神話に登場する因幡の白兎のこと)
合祀:保食神(うけもちのかみ)、豊玉姫命(とよたまひめ)



大社造変形(白兎神社の本殿は明治29年に建立、平成24年に改修)



菊座石



本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われている



当社の創建に皇室の何らかの関わりがあるのではといわれている








白兎海岸
周辺には想像をかきたてる神話の舞台が残っており、「白兎の神跡」と称されている



西端に突出した岬が気多之前で、白兎神が負傷して上陸したという岬
気多之前から北方150メートル沖合にある神話の島が淤岐之島、白兎神が流れついた島とされている



道の駅の出入り口に置かれている



郵便ポストも恋人の聖地を盛り上げている
この道の駅の他には鳥取駅と鳥取市役所にも置かれている



道の駅内にある「すなば珈琲」(面白い)



撮影 令和6年5月20日
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